龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

トヨタのカムリを試乗してきた。

2018年06月01日 21時48分55秒 | 社会
 今日は授業が午前中で終わったので、4月から同一労働6割賃金に変わった身の上としてはさっさと年休攻撃をして、病院へ。しかし、きょうび病院もなかなかの混み具合で、予約を取らないと何時間も待つことになる。

というわけで、空いた時間で病院近くにあるトヨタを訪ね、(去年新型になった)カムリというセダンを試乗してきた。

1,次元の違う静けさ

動き出しが静かである。ハイブリッド車を初めて運転したが、滑らかにすーっと動き出す感じは今までのクルマとは全く違った印象だ。「エンジンをかける」というところからはじまるのではなく、本当にスイッチを入れるというところからはじまる感じである。

この静けさは、好きだ。
エンジンというものは基本的にうるさいし、別にうるさいのは自慢にならない、と思う。エンジンサウンドにそそられる、とかいうのは狭い趣味の領域だろう。ディーゼルとかいくら静かになったと言われても、ガソリンの方が静かだし、ハイブリッドの方がもっと静粛だ。
遮音も私の今のっている2012年型のレガシィツーリングワゴンと比べると雲泥の差である。

しかもカタログには小さな文字で「高い静粛性」とたった5文字あるだけ。
ふーっ。トヨタのHVセダン、恐るべし。

2,モーターとエンジンの切り替えや協働がスムーズ。

これも、もう当たり前のレベルになっていて、専門家のインプレッションなどを読むと「カムリはまだまだ」みたいなことを言う人もいるのかもしれないけれど、もう、これで十分「わけが分からないぐらいスムーズ」です。ディスプレイの中央に→が表示されているのでようやくパワートレインの状況が分かる程度。トヨタ車、恐るべし、である。

3,段差の乗り越えもスムーズ。

 今時の新車はいずれにしても普通の舗装路面のギャップを超えるときに、試乗レベルでびっくりするようなことはほぼ経験しないのだが、それにしてもスムーズな印象だ。

スバルのツーリングワゴン・レヴォーグの2.0STIとかも先日試乗したが、普通の橋の繫ぎ目でも、「硬い!」という印象があった(不快、というわけではありませんが、とてもじゃないけど私はオーナーにはなれない<苦笑>)。

カムリはその点、上質なセダン、のイメージを裏切らない乗り心地だ。そしてハンドルを切ってもふわふわ沈み込む感じもまったくなく、気持ちよくクルージングができそうである。

4,燃費も良さそう。

 短い時間の試乗なので燃費は不明だけれど、営業の人の話では20km/lぐらいはいくのではないか、という話だった。おおよそレガシィの倍近い燃費である(レガシィはトータルで11km/lぐらい)。
少し割り引いて17km/lとかでも御の字だろう。


5,重心が比較的低く、ホイールベースも長い感じで、フラットな乗り心地。

 四輪がしっかり地面を踏ん張るというか仕事をするスバルのAWDとは全く味が違うけれど、やはり低重心の印象がある。セダンはもう少し腰高の運転イメージの先入観があったが、決してそうではない。ホイルベースの長さもあってか、揺れも少なくいい感じだ。

レガシィとは全く違うけれど、やはりハンドルを切ってもフラットな感じで曲がってくれる印象がある。大きいものを振り回す感じではない。

6,デザインも美しい!
 横からみると、間違いなくきれいなラインだと思う。もちろん好みもあるだろうけれど、乗っていて私のレガシィよりもずっと他者から見られる満足感は大きいと思う。レガシィの良さはデザインじゃありませんから比較するのが間違ってますけど(笑)。
マツダのアテンザとかも美しいと思うけれど、そんなに負けていないんじゃないかなあ。
ベンツのCクラスとかBMWの3シリーズなんかより、すてきじゃないですかね。
後ろ姿もすてきです。

内装はほどほど、ですかね。まあ、300万円台のクルマとしては悪くないかと。
これもスバルと比較する必要はないですね。もちろんカムリの方が上質な感じがします。


7,全体的な感想

非常に好印象の試乗だった。
ゆったりと普段使いや中距離(私の場合いわき-東京の高速道路の往復程度)の運転なら、最高かもしれない、と思う。

お値段は、素の状態でG(普通選ぶ中級グレードですね)が約350万円。ナビとかブラインドスポットモニター等の安全装備を入れると、400万円、ってところかな。
おそらく、CX-8と価格帯では競合するのだろうと思う。
用途によるけれど、セダンがいいという人はカムリ、それ以外の人にはCX-8と勧めたい気持ちになる。

なんだろう、カムリは間違いなく良いクルマで、乗っていて不満はない。しかし、CX-8の方が楽しそうだったりするし、あるいはレヴォーグの方が自分で運転する手応えがあるし、メルセデスベンツCのロールスエディションの方が(100万円高いけど)、オーナーとしての満足感がある。

カムリというクルマは間違いなく良いのだから、むしろこのクルマを選べないのは、こちら側(乗り手)の問題でもあるのかもしれない。ともかく、インプレッサはいいクルマだけれど「オレは買わないな」と思ったその感触が、カムリにも同様にちょっとあるのだ。

自分の「趣味」がどの辺りにあるのか、ということが、良いクルマを試乗させてもらうと分かってくる。
結局、クルマを選ぶときに、ハンドルを握って曲がり角を三回曲がったら、
「これだっ!」
と思ったのが、マツダのロードスターだった。

あるいは、郊外のワインディングロードをオンザレールでクルーズした瞬間に「ややっ!これは!}と思ったのがスバルのレガシィだった。

そういう自分とクルマが出会うってことだよねぇ、やっぱり。

というわけで、良質なセダンを考えている人にはおすすめだと思います、カムリ。
私は残念ながらロードスターやレガシィのようには出会わなかったけれど。

追伸
たとえば、今のレガシィアウトバックとカムリとどちらにするか、と言われたら、カムリを選びます。だって、間違いなくコストパフォーマンスの最上位に位置するのがカムリだと思うから。
300万円以下の大衆車ならやっぱりゴルフだけれど、300万円台のセダンならカムリじゃないすかね。
SUVならCX-8かな。

メルセデスのCクラスは、新型(安全装備がSクラス搭載のものになるはず)になったら買いですね。それまでは絶対買いません(笑)。

レガシィも19万キロちかく走行し、あちこちいろいろ悲鳴を上げてきたので、新しいクルマを買うことにして試乗しきました。

どこのメーカーでも20万キロちかく走るといろいろ出てきますよね。
かつてのトヨタエスティマのディーゼルターボはターボユニット三回も交換だったし、アコードワゴンは真夏にオルタネーターが死んで、遠出していてエンジン切ったら掛からなくなったし、ビッツは電装系弱くてバッテリー上がりに悩まされたし、まあ、距離を乗ったらトラブル皆無ってクルマは
ありませんよねぇ。

さて、購入した新しいクルマが納車されたらまた、書きます。




「ふるさと納税」をやってみた。

2015年07月23日 21時40分53秒 | 社会
知人に勧められて、 「ふるさと納税」なるモノをやってみた。

ふるさと納税とは、自由に自治体を選んで寄付をすると、住民税と所得税が減額や還付される、ということだとざっくり理解しているが、本当のところはよく分からない。(笑)

実行したのに中身がよく分かっていないから、なんとなく居心地が悪い。

年寄りが、新しいお店に連れて行かれて、座り方や注文の仕方が分からなくてモジモジするのと同じようなものか。

とにかく全国の自治体から任意の一つを選び、そのに寄付をすると、お礼の品がもらえると勧められた。

マルチ商法の人集め&無料景品配布と同じような居心地の悪さがある。

また、税金を払ってモノを貰うというのもなんだか潔くない気もする(笑)

とにかく寄付をすると、その自治体が地元産品を贈ってくれるわけだが、まあ考えようによっては、その自治体にマルッとお金が落ちているわけで、下手にお役所が使うよりよかったりもするのかもしれない、とも思ってみたりする。

そしてびっくりすることに、世の中には
ふるさと納税用のポータルサイト
が立ち上がっているのだった。

私が利用したのは

「ふるさとチョイス」

知り合いは
「さとふる」
というのを使ったらしい。

なんだか 「後ろめたい」というか、なんだか間違ったことをしているというか、いまだに釈然としない。

たぶん、寄付のお礼の品をただショッピングのように選んでいるのが 「納税行為」のイメージと対極的だから、かもしれない。

納税というよりは、

「その土地に観光しにいけばお金が落ちるから、結果として地域のためにもなってるよね」

という感じに近い。そういう活動をする人は 「奨励」として税の減免がありますってことなんだろうね。

まだいうか、って感じかもしれないけれど、個人的には高速道路の低料金化の方が納得なんだけどなあ。

結局、私自身まだほんとうに 「ふるさと納税」をやったのかどうか半信半疑である。

クレジット支払いは間違いなく行った。

それでいいじゃないか、という気も、ちょっとしている。

貧乏性というか、 「経済」の動きに身体がついていけてないんだなあ。

どこの自治体かって?

二つは訪ねたことのある場所です。
 
もう一つはお礼に惹かれました(笑)。
でも、行ってみたいところですよ。

老後に住んでみたい阿蘇と弘前は、今回はパスでした。

國分功一郎さんの参議院選挙分析

2013年07月27日 13時58分32秒 | 社会

國分功一郎氏が参議院選挙について言及しています。

党内運営の諸問題
http://www.huffingtonpost.jp/koichiro-kokubun/post_5267_b_3642305.html

今回の選挙で感じたもどかしさをかなりの程度説明してくれています。

肉声の説明をいつも講義で聞いていると、こういう公の場所で國分先生が書くものについてはそれがどんな「効果」を持っているのか本当に(ある種もどかしいほど)丁寧に考えて書いているんじゃないかなあ、という感想を持つ。

いや、講義でしゃべっていることが過激だとかいうのでは全くありません。
何を語り、何を語らないのか、の選択が極めてクリアだ、という感触が共通しているから、その言説の微妙なテイストの違いに「ををっ」となる、ってことです。

政治について語るとき、さらにその感じが強まります。もともと「政治哲学」専門の先生ですからね。
そして、「コトバ」の感覚がハンパじゃない。

その辺りを含めて、よろしかったらぜひ。


iPhoneとiPadのタッチペン使用感

2013年03月29日 01時35分14秒 | 社会
iPadとiPhone用に、新しいタッチペンを購入した。
静電容量型のタッチパネル用のペンは、基本的に太い。

感圧型のペンの先は細くて、いかにも細かい字が書きやすそうだ(ワコムの感圧タブレットなど)が、iPadやiPhone、その他のスマホなど、一般に使われている静電容量型の端末は、あのような繊細な作業には基本向いていないと覚悟すべきだろう。

しかしその中でもどれが
「より少なく悪いか」
を考えてみたくなるのは人間の悲しい性。

今回はゴム・樹脂・金属繊維の3つを試してみた(ということは自腹で3つ買った)ので報告しておきます。

1,BAMBOO (ワコム)
2,Touch Pen nano (プリンストンテクノロジー)
3,ファイバーヘッドタッチペン(ミヨシ)

1はゴム製ヘッド。
これは慣れるまでなんだかタッチの感触がフニャフニャしてはなはだ心もとないのだが、タッチ面の保護フィルムを張ってある場合に感度の違いが出にくく、フニャフニャな分余計な力の加減も不要で、相手を選ばない印象を持った。
私はiPadとiPhoneを使用。
iPhoneのみ保護フィルムを張ってあるが、どちらでも一番力の差がなく、フィルムの有無を意識しないで入力できた。
ただし、たっちの瞬間が心もとないのと、ゴムがタッチ面に粘る独特の感触があって、それは必ずしも気持ちよく書ける、というものでもなさそうだ。
フリック入力の場合は積極的に引っ張るので、アッサリ系のものよりは手応えが入力方法に合っているとは思う。
しかし、手書き文字の場合はもっと粘らずサクサクかける方がいい。

2,は樹脂ヘッド。
スポンジ様のものが付いている。ヘッド自体の大きさはBAMBOOのゴムより少し大きい。これは、保護フィルムを使用していないiPadの方について言えば、よけいな力を必要とせずしかもなめらかで、好印象を受けた。
ただし保護フィルムを貼ったiPhoneでは、かなり力を入れなければタッチの飛びが発生し、極めて使いづらい。
ゴムヘッドのBAMBOOが、保護フィルムの有無にほとんど影響を受けなかったのと対照的な結果だった。

もしiPadだけなら、こちらを使いたい。
保護フィルムありのiPhoneと使い分けをしないのであれば、ワコムのBAMBOOということになろうか。

3,は金属繊維のヘッド。
これは滑りと粘りのバランスがなかなかいい。
1のゴムヘッドと比べるとタッチが滑らかで、より自然だ。
力を入れなくても十分反応する。
2のnanoと感触はかなり違うが、滑らかさではこの金属繊維の方が上回っている印象を受けた。
さすがにどんどんタッチを軽くしていくと入力漏れは出てくるものの、ペンを立て気味にして書けばほとんど圧をかけなくても文字が打てる。
比較するとペンをゴムの粘着性で引っ張る感じが出てくる1のワコムは不自然な印象。

ただし、保護フィルムに一番強いのも明らかに1ワコムのゴムヘッドなのだ。

悩ましい。

他の二つは、保護フィルムの付いているiPhoneでは、かなり力を入れないと入力が飛んでしまう。手に負担がかかるし、イライラしてストレスがかかる。大量の入力は勘弁してほしい、というレベルだ。

保護フィルムのないiPadは、どれでもストレスなく入力できるので、あとは好みの問題だろう。

私ならiPadは2,プリンストンテクノロジーのnanoを選びたい。
イラストを描くペンとしても、こちらが使いやすい。

iPhoneは携帯端末としてと使用環境を考えると、保護フィルムをしておきたいので、選択の余地なく1,ワコムのBAMBOO。

ちなみにいずれも、ペンはもう少し長くてもいいのではないか。












2/9(土)國分功一郎先生を迎えて「エチカ福島」の第1回セミナーを開催します(告知)

2013年02月03日 16時02分13秒 | 社会
今週末、「エチカ福島」第1回セミナーを開催します。テーマは
「大震災がもたらした畏れと倫理」
哲学者國分功一郎先生を講師に迎え、第一部の発表を題材として、第2部は自由に話し合い(90分)をします。
コーヒーぐらいは用意しますので、ゆっくりじっくり、受信や発信をしませんか。

國分功一郎先生はドゥルーズおよびスピノザの研究者です。

「たった一つの答えがある」

といわゆる「公共的真理」を振りかざして他者を説得するのではなく、

「個々の生きる現場における自己保存のための努力(コナトゥス)」

こそを大切にしたスピノザの視点が、今こそ重要なのではないか、私はそう考えています。

またスピノザは、この「世界=自然」以外の外部に参照されるべきものは何もない、ともいいます。
大震災以後、そして原発事故以後、この福島で福島を考える時に大切なのは、なによりもこの場所=福島の自然と個々人の営みとを、同時に視野にいれて「見る」ことでしょう。

この場所の「可能性条件」を十全に認識すること。そして個々人がいかに十全にその生を生きるかを大切にすること。

スピノザはそのために重要な前提ともなりえるかもしれない、そんな風にも考えます。

詳細は下のチラシを。

たくさんの方の参加と発話をお待ちしています。








219歳の週末

2012年10月08日 23時54分43秒 | 社会
週末、85歳の伯母と80歳の母を連れて温泉旅行をしてきた。
総勢219歳のお泊まりである(笑)。

松島の海は穏やかで部屋の眺めもよく、露天風呂からも松島のパノラマが一望できる、すこぶる快適な週末だった。
とはいえ、高齢のお二方ゆえ、「歩く」ことが既にもう大変な難事業。

一人は車椅子、もう一人はその肘掛けに掴まりながら杖をついて歩くという状態でお風呂場に向けて部屋を出発したが、ときどき休まないと歩きの方の足が限界になってしまう。

タンデム走行可能な(つまりは165歳を縦に並べて押せる)車椅子が欲しくなった(笑)。

しかし、足下はおぼつかないが口元は元気である。
合計165歳トークは、対象の生死老若男女を問わず冴えわたる。
戦前のことから昨今の近所の噂まで、あっという間に瞬間移動しながら話は止まるところを知らない。
超高速連想ゲームに付き合っているかのようだ。

血圧が高かったり、歯がなかったり、足が悪かったり、ガンを抱えていたり、血糖値が高かったり、耳が遠かったり、それはそれは薬を飲んだりさまざまな道具を使ったりしなければならない状況だ。

だが、3人が口を揃えて同意したことがある。
それは、補聴器のありがたさだ。

眼が見えなくなればだれでもコンタクトレンズか眼鏡を掛ける。
ところが、それに比べると人は一般にまだ耳が遠くなることに対しての意識が相当程度低い。

実は、耳が遠くなると、世界の「気配」は耳が聞こえていたときと比べて1/10ぐらいになってしまう。
「1/10」という数字には無論根拠はないが、かなり控えめに言った数字だ。
「1/100」といってもいいぐらい、それはそれは大変なハンデになる。
それなのに、年寄りが嫌がる・面倒がるといって補聴器を強く勧めない若者は多い。
そして年寄りもまた、生活を縮小していく「覚悟」をすればいい、と思って、補聴器の装着を真剣に考えない。

だが、たとえばこの219歳サミットも、補聴器がなければ成立しなかった。

どうか、身近に耳が遠くなった人がいたら、補聴器を強く強く進めてあげてください。
今の補聴器は、かなり性能が上がっています。
身近な人とのコミュニケーションの最後の砦の一つ、聴力が補えるのであれば、面倒がらずにチャレンジする価値はあります。

私は、父親が衰弱して無くなるまでの3週間、毎日彼を「観察」しました。
脳が決定的な損傷を受ける障害の場合は私には分かりませんが、そうではない場合、認知能力が低下することは、決してただちに知的能力の低下を意味しません。そこを勘違いしている人が結構いるかもしれない(特に若い人の場合)と危惧します。

先に衰えるのは、情報の出入力と処理の能力なのです。記憶であろうが、外部の情報であろうが、知的能力を司る意識にたどり着くデータが少なくなっていくのであって、核にある「意識」が混濁するのは最後の最後であるように思われます。

いや、厳密にいえば、入り口までデータは到達しているのに、肝心の知的処理能力が衰えている、ということももちろんありえます。私はその辺りの脳科学のシステムについては分かりません。

ですが、「意識」は、混濁するまでは空転してでも動き続けている。
刺激を与え続け、それを肯定的に処理できる環境があれば、次第に全体的な能力が失われていくとしても、それはよりゆっくりとより穏やかな変化に止まる。

少なくても、見ることや聞くこと(そして食べることも!)について、私たちは高齢の人の傍らにあって、よりその支援に敏感であるべきでしょう。

生きることは、外部とのインターフェスを整え、内部記憶とのインターフェースを整えて、環境と切り結んでいくことかもしれません。
ま、当然高齢者だけの問題じゃないんだけどね。

いろいろ考えさせられる週末でした。


大滝秀治、逝く。

2012年10月05日 21時28分57秒 | 社会
大滝秀治が亡くなった。
北海道で作られた(と思うけれど、舞台が北海道だっただけかもしれない)「うちのホンカン」シリーズ以来のファンだった。

「うちのホンカン」は、八千草薫が妻、仁科明子(当時)が娘役で駐在所勤務の警察官を大滝秀治が演じるという、これは私にとっては人生史上最高の配役の一つ(今でも!)。
三人とも大好きでしたから(笑)

これを超えたのは、ーこれも死ぬほど好きな役者、岸部一徳とのCM共演(キンチョウ)ぐらいかな。
偏屈だったり、真面目だったり、短気だったり、不器用だったりするのに、不思議な存在感がある彼の演技は、本当に得難いものでした。

最後に種田山頭火の芝居をやりたかったという。
これも好きな俳人。

見たかったなあ。

最後に見た新作は、刑務所内の中学校?の話。介護に疲れて妻を殺害した老齢の生徒という、やっぱり風変わりな役が素敵でした。
どの作品で観たかはあまり覚えてないのに、でもいつも映画やTVで見ているような印象がありました。

残念です。
でも十分仕事をされた、ということでお迎えがきたのでしょう。
これからしみじみ寂しくなりそうです。






8/28(火)午後11:00~Eテレに國分功一郎センセが出演。

2012年08月27日 00時27分44秒 | 社会
國分功一郎(哲学者)×哲夫(笑い飯)×吉木りさ(グラビアアイドル)の3人で作る、新感覚哲学バラエティー 「哲子の部屋」
哲学×サブカル=ハイブリッド哲学エデュテイメントが
8月28日(火)放送[Eテレ] 後11:00~11:30
にオンエアーされます。


http://ameblo.jp/philosophysells/image-11337961958-12155024520.html
 [Eテレ] 後11:00~11:30

映画『ファイトクラブ』

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
の二つを予習しておくと万全、とか(笑)。

『ファイトクラブ』
この前レンタルしたのに見そびれちゃったんですよねえ。
そういう見そびれ映画って、何故か何度も見そびれしちゃったりする傾向があったりして。
無意識に忌避してるんですかね?
明日あったらまた借りてこよう……。


孤独死について

2012年03月09日 00時38分26秒 | 社会
「孤独死」のニュースがTVで流れている。

でも、ちょっとひねくれて言わせてもらえば、死ぬときはおそらく、誰だって「一人」なのではないか。

一人で生きることが出来て初めて、「孤独死」がクローズアップされる。

一番の課題は都会の中での「孤立」ではなくて、一人で生き、一人で死ぬことがこれから「当たり前」になっていくであろう変化に対して、社会の「瞳」や「システム」が追いついていない現状なのではないか。

別に親しくもない隣近所の人に毎日チェックされたら、私が独居老人だったとして、うんざりするだろうと思う。
もちろん、近所づきあい=人間同士のお付き合いは大切だが、「死んだ時」を素早く察知するとか「死ぬ前」に察知して病院送りにするのを主目的としてチェックを入れられても、正直挨拶に困る。

セキュリティシステムとか、要請があればそんなにコストをかけずに医療や行政が、「独居老人」もしくは「弱者寄り添い世帯」を支えることは可能なはずだ。

敢えて「個」=「孤」を選ぶ都会の隠棲者の静謐を乱す必要はなくて、さまざまな形の支援を提供するオープンな行政政策は、ネットワークを利用すれば、システムとして安価に実現できるんじゃないかなあ。

隣近所とか、無理でしょう、もはや。
市役所だって全世帯の動向をいちいち日々手作業でフォローするのはありえない煩雑さだろう。

ただ、そういう行政サービスを自ら利用することができる、情報や人的ネットワーク、積極さ、余裕がある人はたいていその他の面のセーフティーネットも持っていて、「孤独死」というか周囲から隔絶した形で最期を迎えてしまう個人や世帯は、行政の支援システムの前提から既にこぼれ落ちてしまっているのが現状なのかもしれない。

そこの根っこは深いのかもしれない。

そういう境遇にある多くの人は、病院に行くことを望まずに死を迎えるわけでもないだろうし、食べ物すら手にいれられずにいることを自ら選択しているわけでもないだろう。

基本的な生存権を支える支援「システム」のネットワークを整備し、道具としてそれが使えるようにすることと、そういう支援の「情報」が、生存権に直結しているのだという私達自身の自覚(と行動)が必要になる。

難しい。
「今まで通り」じゃダメ、なことは分かる。だったら、どうすることが前に進むことになるのか。
考えて、一歩進む。
それが必要だねぇ。

やっぱり、何について考えていても、考えているうちに、東日本大震災と原発事故のことに思考が自然と還ってきてしまう。
「今まで通りじゃだめだ」
と思いつつも、
「普通に生きること」
に懸命で、そのことでいささかならず「疲弊」しているという自覚を抱えて、とりあえず「1周年」からは逃避したい、とも思っている。

「孤独死」した人は、こんな風にいっときニュースになって、その後忘れられていくことを望んだわけでもないだろう。
彼らは本当はどうしたかったのか。
誰かに助けてもらいたかったのか。
私達生きている側の人間は、何をすべきだったのか。そして何をしていくべきなのか。
亡くなった人達には何かできることはなかったのか。どうしてそこにたどり着いてしまったのか。

取り返しの付かないこと、を考えていくと、いつしか同じ場所にたどり着く。
しかし、その「取り返しのつかない」という意味での「人為のリミット」=「裂け目」の前に立ちつつ、なおも思考しようとする時に見える世界像を、なぞっていく必要がある、と感じる。

「孤独死」がなにか簡単な問題にすり替えられるのだけは避けたいと思うのだが、うまく形にできないままだ。






インターネット&Googleは改めて凄い。

2012年01月27日 20時21分22秒 | 社会
久しぶりにフェイスブックにアクセスしたら、紹介の欄に旧知の名前がずらりと並んでいて、お友達登録依頼を一気に出してしまった(^^;)。

でも、知り合いの中で基本的にフェイスブックを使っているのは、はっきりいって私より年上はほぼ皆無、である。だから、今日登録依頼を出したのも全て20歳代の知人だ。
今までだったら一生連絡がつかなかった人に、あっけないほどたやすく連絡が取れてしまう。

不思議な時代だ。


私は知り合い自体が高齢なので、リアルタイムのやりとりはせいぜいメールどまりだけれど、同世代の登録率が高いとなると、フェイスブックは本当に「使える道具」になりますね。

それとはちょっと違うが、最近感激していることがある。

40年近くも前に流行し、どこかで1小節か2小節だけ聞きかじって耳に残り、今では題名も分からなくなっている歌、というものがいくつか記憶の中には断片的に残っている。

そういうものでさえ、誰かが気になって、あるいは誰かが覚えていて、たった一人だけでもインターネットの網の目に載せてくれさえすれば、いつかそこにたどり着ける、ということが分かってきた。

いや、そりゃあ、理屈では分かってます。
原理的に、ネット上に公開されたデータはいつでも誰でもアクセス可能なわけだから。
この感激はだから、幾分かは検索エンジンの凄さに関係している。
でも別の部分は、そんなこと(って失礼ですけど)までネットにアップしてくれる人がいるとは?!という種類の感激でもある。

たとえば、この前小学校3年生か4年生の時に配本されて図書室に入った推理小説全集のことをふと思い出して
「少年 少女 推理小説 全集 」
とかでググってみたら、みごと

「あかね書房」の「少年少女世界推理文学全集」

がヒットしてしまった。全巻古本屋さんで揃えてしまった人もいる、とか書き込みがあると、

「分かる分かる」
とかうなずいてしまう。

あるいは、「そんなあなたが」というフレーズだけ覚えていた曲でも、検索すると
小坂明子と中沢京子でヒットしてしまう。

「そんなあなたが」作詞作曲中沢京子<「ポプコン マイ・リコメンド ガールズコレクション」所収>

今日は『教行信証』に出てきた「阿難」が、注にもなくて(常識なんでしょうね、知らなかったけど<苦笑>)困ったから、ググってみると、アーナンダという釈迦の十弟子の一人、とか教えてくれるし。

日々そんな感じで利用していると、誰かが知っていることはGoogleが媒介となって必要なデータの側まで連れて行ってくれるという感じがしてくる。

ネット紀元前であれば、たとえば一番気になっていた
エイプリルダンサーの『コーヒーカップ』
なんて曲と再会することもなかった。そういう意味ではYouTubeも。

これは、確実に「記憶の質」を変えていく、と思う。
そして「記憶」というのは私達の「存在」のありように大きく関わっている。

そういえば、昨日届いた「日経サイエンス」に、記憶が失われる諸症状に対処する一つの方法として、耳にかけられる程度の超軽量超小型のカメラが期待されているという記事があった。
ちょうど『博士の愛した数式』に出てくる「メモ用紙」の代わりに、ビデオカメラないしスチルカメラが、失われ、間引かれた記憶を喚起する手助けになるのではないか、ということだろう。

冒頭に書いたフェイスブックのつながり具合を考えても、本当に世界は大きく動いている、とつくづく思う。

私は退職したら、クルマにのって日本中を旅したいと考えている。クルマは私達が子供の頃から、生活に魔法を掛けてくれる移動装置だった。

でも、今の20代の人にとっては、身体を移動させるこの自動車という金属の箱には、私達の頃のような「魔法」を感じたりはしないのだろう。

ネットにおいては、見いだされるものは全て見いだされる。
たとえば就職試験の面接官のおじさんの悪口をフェイスブックで書いたらその人に見られた、なんてことも普通に起こるのだろうし、Twitterのつぶやきを別々にフォローしていたら、その相手同士もその互いのtweetに反応し合ってびっくりしたりすることもたくさんある。

そう、ネット上では経済行為の脱貨幣化が進んでいるのだ、と今日、酒井さんていう人が呟いていたけれど、本当にそうなのだ。
めちゃくちゃな垂れ流しが続くネット上のゴミ言説の氾濫(無論このブログなんてもその一典型なわけですが)が、それでもどこかの誰かに、検索の結果、間違って届いてしまうかもしれない。

そう思うようになった。
それは3秒後かもしれないし、50年後私がいなくなった後かもしれない。

ネットで死んだ後メールの相手やブログの読み手にそれをどう伝えるかが「話題」になりはじめている。
正直、この生活があと10年も続いたら、お墓よりも死んだ後のネット上の関係の「整理」の方が重大な問題になるかもしれないと思う。

不思議なことになってきたなあ。

ネットの中に広がる「世界」の広さを測る単位ってないんだろうか。そして、この「世界」に「果て」ってないんだろうか。
素朴な小学3年生だった頃の自分にとっては、「世界の果て」がとっても深い謎のように思われていたものだが。






高速道路有料化復活に反対です。

2011年12月27日 23時50分29秒 | 社会
極めて私的な意見に過ぎないかもしれないけれど、私は民主党のマニフェストにあった「高速道路無料化」が政権発足早々から腰砕けになり、結局消えてしまったことをここ数年の中では最も残念な政治的事象として受け止めている。

小学生じゃないけれど、
「言ったらやれよぉ」
と本当に思う。
お金の手当ができなかったから、とかいうんだったら、最初からマニフェストとかに掲げなければいい。

基本的には、高速道路建設当時から一定期間収益が上がったら(元をとったら)無料化すると謳っていたはずだ。
どこまでいったら「元」なのかっていう面倒な議論が起きやすいのは分かる。
簡単にことが進まないのもわかる。
でも、だったら「無料化」とか言わないでおいてほしかった。

まあ、「そううまい話はないんだな」、とマルチ商法に騙された人みたいな感想を持てばいいのかもしれない。
結局国も、得体のしれないマルチ商法みたいなものか。

来年4月からは高速が普通料金に戻るのだろう。

思えば高速料金は、自民党政権時代からコロコロと変わり続けてきた。

百歩譲って無料化は無理だとあきらめるにしても、もっと長距離移動に優しい料金体系にはならないものか。

年金支給が遅れ額も減少したとしても、高速が無料になれば老後の楽しみに長距離ドライブができそうだ、と一瞬思った自分の甘さが悔やまれる。

渋滞するから料金を取るとかいう、ふざげた論理にもならない論理みたいな「雰囲気」さえ感じるのは完全に「僻み」だろうか。渋滞するなら道を作れって話だ。シムシティだってそのぐらいするぜ(苦笑)。
公共的な社会資本の典型が道路だったはずなのに、いつまでも「料金」で縛るのはとりやすいところから取る、ことでしかないと思うのだけれどねぇ。
たばこ料金を上げたり、東電が料金を上げたりするのとは訳が違うよなあ。

今年一番がっかりしたことを、とりあえず書き付けておきます。

燃費の良い車で高速代を浮かそうとか思わないわけでもないが、燃費のいい車はHVとか基本的に高い。
車は乗らないのが一番安いって話になってしまう。

現代においては、どんなバランスを取るのが最適解なのか、という感覚が政治家に十分育っていないような気がする。
いやでも、「政治家」の問題じゃないのかもしれないね。

車を乗り、高速道路を利用して日本全国旅してあるくことに「文化的意義」を感じているのだとすれば、粘り強くその価値を訴えていくしかないのかな。
でも、快楽の説明って、難しいんだよなあ、これが。






武器輸出三原則の見直しに着手(朝日新聞デジタル)

2011年11月05日 00時03分26秒 | 社会
武器輸出三原則の見直しに着手(朝日新聞デジタル)

という記事を見た。

これもまた、考え始めれば様々な事情があるのだろう。
でも、私は反対。

人を殺すための武器を「輸出」する日本より、「輸出」しない日本でありたい。

ナイーブすぎますかね?

武器というものが全く不要だとも思わない。
全ての暴力がこの世から消えてしまえばいいのに、とも思うが、そう簡単にははいかないだろう。

でも、さまざまな事情があるとはいえ、ここしばらくの間武器を輸出せずに来た歴史は、そう悪いものじゃない。
可能ならばそれを続けたい。続けていきたい。

そういう手だてはないのだろうか?

アメリカの傘の下にいたっていう従属的立場にいたから出来た「隔離」という側面もあるのかもしれない。
世界の中で一人前のプレーヤーになるには武器も自前でってことか。

原子力発電もそうだった。豊かになるために、暴力的なまでに圧倒的な「力」を必要としたのだ。
政府も、国民も、電力会社も、そして私達も。

国を守る技術を高めるためにっていう理由をつけて、そしておそらくは商売のためにも、武器を輸出する、という。

悪いことは言わないから止めておけってことだ。

TPPも私にとっては近いものを感じる。ココロのそこから「そこだ!」って感じが全然しない。
しょうがないから、やらなければより事態が悪化するかから。
もう早くやらないと遅くなるから。

まあさ。
自分だけじゃあ無理だよ、秩序に適合して生きて行けよっていういわゆる「去勢」的な言説の必要性も分かる。

でもね。
そんな風に適合すべき「社会」って、資本主義社会なの?民主主義社会なの?平等な社会なの?公正な社会なの?格差社会なの?

それはむしろ自分たちの閉塞感を解消したいための鏡像への欲望じゃないの?っていう視点も必要だろうと思うよ。
言説だかんね、今、渦を作っているのは。

手っ取り早い外部の「秩序」をしょうがないからってなしくずしに選択するぐらいだったら、日本の豊かさを、どううまく黄昏れさせていくか、とか、低空飛行で温度を低くそして長くバランスさせるか、なんてことを考える選択肢だってあっていい。

「やるか/やめるか」
っていう二分法じゃなくてね。どちらかを選ぶっていうのは勇ましいようだけれど、そのフレームとなっている前提を「問う」ことがあらかじめ排除されている。

そういう装われた手遅れ性を前提としない「疎外」というか「差異」というか「亀裂」の受け入れから始めたいな。

とりあえず、武器輸出と原発再開は止めておいた方がいいんじゃないのかね?









なでしこJAPANの快挙

2011年07月19日 23時29分54秒 | 社会
日本中がその快挙に沸き立った。
ワールド杯優勝という偉大な達成の価値のすばらしさは、いまさら私がここで書くまでもありません。

それでも書いておきたいのでちょっとだけ。

朝の3時半に目覚め、午前6時過ぎまでTV観戦で応援したのだが、後半アメリカに先制されたときは、正直これまでか、と思った。だって、アメリカはスピードもあるし、シュートは連発するし、体格もいいし、技術もあるし、これを発揮すればアメリカは順当勝ち、という感じは間違いなく漂っていたと思う。正直、前半よく日本が0-0で切り抜けたものだ、と感じていたし。

20回以上対戦して一度も勝ったことがない、とも聞いていたし。

でも、素人のそういう「当たり前の予想」=「不安」を見事に超えたプレーを見せてくれたんですよね。
そのすごさがどこから来るのか、これからゆっくりじっくり考えていきたい。

釜本が活躍してオリンピックで世界3位になったときは、こんなにサッカーで世界を制することが大変だとは知らなかった。あれから数十年。
恵まれない環境の日本女子サッカー代表が、その壁を破って世界一を手にしたことの意味は、果てしなく大きいと思う。

なでしこジャパンはなぜ勝てたのか?
それは「必然」には違いないのだけれど、でもその「必然」は大きな驚きを伴うものであったことも事実。

延長戦で二度目に宮間選手のコーナーから澤選手がゴールを決めた時は、もうこりゃただことではない、というか、日本女子のサッカーは本当に「強い」のだ、とようやくそこで理解しました。
結果が出なければ強さが分からないというのは、素人そのものです。

PKのときのアメリカの選手の緊張ぶりを観て、日本の粘りが常勝の「強者」を追い詰めているのだ、と知り、もう本当にただただびびびびっくりでした。

男子代表だったら、1点取られたら、もうどうすることもできずに負ける感じだったのじゃないかなあ。
今まで見ていて、そう思う。
もちろん、それは世界との力の差、男子世界サッカーの層の厚さみたいなこともあるのだろう。歴史の長さも違うのだと思う。

でもさ、アメリカは圧倒的に強かったわけじゃないですか。それを二度も追いつくって。
追いつくって、先制するより強いよねえ。先制すると有利になって「強気の展開」が可能になることは確か。
でも、サッカーで強いってかんじは、取られたあとに逆に強さが出る感じが本当に強いチームって印象がある。

日本女子代表は、そういうとてつもない「強さ」を世界に示し得たのですね。
日本だとか、女子だとかいう「限定品」じゃなくて、世界的快挙。
いろいろ大変な2011年だけれど、同じ時代に生まれたことに感謝します。






最近のホテルは安い。

2011年01月09日 01時22分35秒 | 社会
最近のホテルは安い。

11月に那須のテンゲル(パオ)に泊まった。1泊二食付き(馬頭琴&ホーミーのパフォーマンスあり)で1万円だった。

同じく11月、蔵王の温泉ホテルは1泊2食付きで8500円足らず。

12月に飯坂の温泉ホテルは1泊2食付きで7000円台だった。

そして1月、仕事始め以降の平日とはいえ、シティホテルが1泊7000円(食事なしですが)を切る料金で泊まれ、しかも駐車料は1日1000円で、チェックアウトした日は終日駐車料金の割り増しなし。

田舎からクルマで出かけると、このシティホテルの鷹揚さは本当に助かります。

ビジネスホテルはそういうこと言ってくれないから、外の駐車場に1日止めれば6000円とかすぐにかかってしまう。その結果、シティホテルと宿泊料が逆転したりしかねません。

駐車スペースにゆとりのあるシティホテルがクルマ利用時にはお薦めだったりします。
ま、都会に住んでる人には関係ない話しですが(笑)。

しかし、とにかく宿泊施設の料金が最近めちゃめちゃ安い。だって、1泊7000円とか8000円とかっていうのは、ひとむかしまえの民宿・ペンションの値段でしょう。

こんなんでやっていけるのかしら、と他人事ながら心配になります。

もっとびっくりなのはビジネス系でも、12月末に福島市の駅前某ビジネスホテルは、簡単な朝食付きで3500円!(ネット予約時)
当日問い合わせのあったお客さんは5000円だったみたいです(笑)。

もうこうなると値段なんてあってなきがごとし。
世の中のことを心配したくなりますが、とりあえずはたくさん利用した方がホテルのためでもあるはず、と思って、せっせと遊びにでかけることにしましょう。

高速道路休日1000円も続くようだし、平日上限も2000円になりそうだし(^^)/。


尖閣諸島沖中国漁船衝突映像の流出について

2010年11月16日 00時58分57秒 | 社会
尖閣諸島沖中国漁船衝突映像の流出について

今日、逮捕せずに任意事情聴取を続けることになった、と報道されていた。

逮捕はしなくても逃亡・隠蔽の恐れはほぼないようだし、任意聴取が適切だろう。

起訴が可能かどうか、有罪になるのかどうか、は専門家の間でも意見が分かれているぐらいだから、そのあたりはじっくり判断してもらえばいい。

ただ、こういう考え方は時代に取り残されているのかもしれないけれど、検察の幹部とか法律に詳しい専門家たちが、「一般国民」の動向を気にして、と前置きしているのが気になった。

「一般国民」の動向を気にするのは本来検察じゃなくて、政治の仕事じゃないのか?

検察がそういうことを気にするっていうのは、なんか間違いの始まり(っていうかもう終わりに近づいているのかもしれないけれど)のような気がしてしょうがない。

法律の解釈は時代とともに変化したりもするのだろうから、国民の一般的な感覚と乖離した法意識はそれ自体が問題だ、という意見も一理ある、とは思う。

けれど、その映像の中であれだけめちゃくちゃなことをした挙げ句に保釈された中国漁船の船長が中国で一部から英雄視までされている、となると、この事案で日本が「国民の一般的な動向」なんてのを気にして起訴ができるとかできないとか逮捕するしないが決定されるとしたら、なんだか中国と一緒じゃん、っていう感じがしてしまう、のは私だけだろうか。

個人的に公務員の一員として、もし自分がこういう行為に及んだならば、きちんとその罪を法律において問うてほしいと思うだろう。そのとき、「国民」の多数の意見なんて正直どうでもいい。
っていうかあくまで「もし私なら」の妄想の上で、だが、中国漁船の船長なんかのような扱いではなく、きちんと日本の国内法に基づいて有罪か無罪かを、法に則って裁いてほしいと強く願うような気がする。

適当なバランスばかりを考える政治的な決着、とか「国民の動向による」とかいうのじゃなくて、きちんとした「公的な規範意識」に支えられた結論がほしいのです。

変態、だろうか。ま、それでもいいや。

秘密の度合いが有罪に値するほど高くない、ため無罪、という余地はあるだろう。もっと言えば、もう既にその情報は「秘密」とは言えない、という判断だってありえる。
たとえ万一有罪になったとしても、国民の感情からいっても執行猶予が付かなかったらそりゃあおかしい、とも思う。
極めて個人的な望みとしては、無罪になってほしいと思っています。

でも、あっちがうやむやだから、こっちもうやむやで、ってのはどうなんだろう、なにやら釈然としない。
有罪がたとえ難しいと予想されても、それが「国民の動向による」とかいうのだったら、検察はいったんは起訴してほしいなあ。法解釈上の問題で起訴できないなら、それはそれでもちろんいいけれど。

仙谷なんたらとかいうひとが、「公務員」にあるまじき行為だから逮捕が当然だ、とか言ってたけれど、おまえたち政治家はなんとも適当なことを言うなあ、という印象だ。

機密だったらしまっとけ、って話だよねえ。
政治的にはもう破綻していると思う。

でもね。

公務員が公務員の仕事としてその対象の情報を実質的に「機密」たりえていないかどうか、を自分で判断して外に流す、ってのは、やっぱりそれはないだろう、と思う。政治家が「機密だっていったら機密だ」なんていうのがナンセンスなのと同じように。国民もそう。公務員だろうが政治家だろうが国民だろうが、そんな判断はどんなに「公」を考えたものであっても、所詮「私的」なものにすぎないじゃないか、と思うのだ(カント的に、かな?)。

たとえ形式主義的、に過ぎる、と言われても、「規範意識」を問いただすために、できれば起訴して裁判をやったらいい。
もし仮に私なら裁判をしてほしい。
その結果、あぶりだされるのは決して当該海保職員の有罪・無罪だけではないはずだ。

そういう展開をもし望まないで、単に「国民」が知りたいだろうから、ってアップしておいて、悪いことはしていない、ってだけいうのだったら、そしてそれを不起訴・無罪にすることがこの国の国民の「大勢」だとするなら、公務員の「私的義務」と「公的義務」の峻別はぐずぐずになってしまうだろう。

ネットの動画サイトにアップするということ自体、すぐれて「私的」な範疇でできてしまう行為だ。

「私的」とか「公的」とかいうなら、とんでもなく「私的」な形で人は世界と直接接続されてしまっている時代だ、ってことは間違いない。

でもさあ。

自分で公務員の仕事を選んでいるのだから、公務員として秘密を守るのは「私的義務」に決まっている。
仕事だから「公的」だ、なんて私は全然全く思わない。

それがネット「だだもれ」になったらほんと「警察」は要らないって感じになってしまわないだろうか。
あ、もしかしてほんとに警察は要らないのか?

ってか、警察や検察はもう「国民」によって無力化されたのでしょうか?

動画サイトという「私」と「世界」とが容易に直結し得る「場所」が、結果として「公」になっていくのだとしたら……。

それじゃあ、
「公(おおやけ)」=「だだ漏れ」
じゃん、という印象を私はどうしても抱いてしまう。

やっぱり「私」の時代遅れって話で終わってしまうのかしらん。

でも、ここの「ツボ」は、もう少し掘り下げておきたい課題あり、とは感じています。

つまりは「公務員」にとって「公的」であるとは、いったいどういうことなのか、って課題です。
(ひとしきり考えたあとは「公務員」っていう枠を外してさらに考えてもいいかもしれません)

それは経済活動の中で非経済活動としての教育を考える、っていうちょっと前のテーマと、実は重なっていくことでもあると思うし、今年の大きなテーマであるカントの「啓蒙」について考えるっていうこととも遠く響き合っているような気がするなあ……。
(この項、別な形でどこかに接続)