龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

SONY Xperia z ultra SIMフリー版(その4)

2014年08月29日 11時05分32秒 | ガジェット
SIMフリー版の通信機器を一週間使ってみて感じたのは、圧倒的な自由さだった。

大手キャリアが二年間の割賦によって端末選択の幅を狭めてきたこの数年、日本のユーザーは端末を十分に試し、魅力的な端末を購入して支持するという行為を奪われた。

キャリアが自ら端末を選び、顧客を二年縛って使わせる。それはユーザーが自分の懐具合を勘案しながら借金でモノを買うのとは訳が違う。不自由であることにさえ気づかないまま、二年縛りを渡り歩く技術だけが向上していく日本のユーザーは、それ自体がガラパゴス化しているといえるかもしれない。

今回SONYのXperia z ultraという海外用のSIMフリー端末を試してみて、この端末はもっと売れていい、と感じた。これは優れた端末だ。おそらく日本では Samsungや Apple の製品ほどには売れないだろうが。ちなみに SONYのXperia Z2という10インチ端末も魅力的だ。久しぶりに国内メーカー製品の存在感を感じる。

 SIMロックという業界常識がなければこれは今よりもっと売れたんじゃなかろうか。

少なくても MVNOの格安SIMが普及し、キャリアの二年縛りがなければ、確実に日本の通信生活環境はもっと快適になる、そう思った。
2014年夏の現時点で、日本はまだまだSIMロックフリー端末を自由に選択できる環境にはなっていない。せっかく MVNO業者による格安SIMが勢いを得てきたのだから、ぜひ各メーカーともにSIMフリー端末のすごい奴を出してほしい。
 
 商品やサービスを凍結させ、回線や端末をユーザーに選ばせないという姑息なやり方は、もうそろそろやめてほしいし、私たちユーザーも、自由に回線や端末を選べるシステムの便利さ、安価さを積極的に選択していっていい時期にきていると思う。

ちなみに、使い始めたBIGLOBEのSIMはdocomoの回線だが、速度に関していえば今日出張にきている会津若松市の風雅堂というホールでは、ソフトバンクのLTE より、明らかに劣る。
BIGLOBEは全般に速度は上がりにくい印象がある。

それでも、コストは半額程度だ。
二年縛りを続けようとはもう思わなくなった。

SIMの入れ方、設定の仕方も、ネットを検索すると簡単に分かる。

格安SIMライフ、オススメである。






SONY Xperia z ultra SIMフリー版(その3)

2014年08月28日 09時40分44秒 | ガジェット
Xperia z ultraの決め手は薄さだ!

Nexus7(2013)との比較について思いつくままに書く。


Xperia ultraの方が良いところ。

1.画面が美しい。
2.画面入力に対する反応がいい。
3.コンパクトで薄く、軽い。
4.SIMフリーで使い勝手がいい(私のNexusがWi-Fi版なため)。
5.筐体デザインが素敵。
6.マルチウィンドウができる。スモールアプリを使用することで、カレンダー、電卓、メモ、Evernote、小さいWebブラウザなどのスモールアプリやウェジェットを、普通のアプリと重ねて表示・利用することが可能。

Nexus7の利点

1.Googleカレンダーの月表示で項目内容が見える。XperiaのGoogleカレンダーソフトでは、色付きのバーが表示されるだけだ。これは純正の強みか。
(無論Webで見ればXperiaでも月表示で内容表示は可能。)。

2.画面にゆとりがあり、より老眼に優しい。ちょっとした画面の大きさの違いが、見やすさの違いになる。6.4インチと7インチの差を小さいとみるか大きいとみるか。老眼の4
0代後半以降は、現物チェックが不可欠。

3.電池の保ちがかなりいい。 ざっくりいうと、私の使い方では、Nexus7は2日、Xperia z ultraは1日、の印象(休日ソファで読書をとWebブラウズを日がな一日やっているシーンをご想像ください)。Nexus7はどうやっても一日では電池を使い切ることはできないが、Xperia z ultraは夜になると充電したくなる。

4.持ちやすく、滑らない。Nexus7は裏側が凹凸のあるマット仕様で、ツルツルなXperia z ultraとは全く違います。Xperiaはカッコいいけど、落としそうで怖い。かといって、カバーを付けるとせっかくの軽さが損なわれる。



以上、思いつくままに比較してみた。結局ファブレットのような「隙間商品」は、その人の使い方次第で最適解が決まる。
6.4インチか7インチか、7.9インチか、212gか292gか331gとかいう細かい違いになると、個人的な視力(老眼の進行度)とか、読書スタイルの微妙な違い(寝て読むか起きて読むか、仰向けで読むか横向か、もって読むか、スタンドに置くか)とか、使い手の諸条件の差の方がずっと大きいだろう。

スマホなどの定番カテゴリーとそこが違う。

というわけで、私の中ではNexus7 を持ったときは
「やっぱり滑らなくて持ちやすいし、第一ちょっとでも画面が大きいと見やすいなあ」
と思うし、
Xperia z ultraを手にすると、
「画面がきれいでタッチの反応も良く、軽くて薄いから持ち運びたくなるなあ」 
と思う。

(今、期間限定でロードスターとレガシィ、二台クルマ持っているのだが)ロードスターに乗っているときは

「やっぱりこの軽快さ、このハンドリング、そしてオープンの開放感!」

と思うし
レガシィに乗ると

「やっぱりこのオンザレールの操縦感覚と安心感、そして水平対向のエンジンのスムーズさ!」

と思うのと少し似ているかもしれない。

それでも敢えて一台選ぶとしたら?

Xperia z ultraになるのだろうと思う。

どちらも作り手の意志が感じられて、手になじむ好ましいガジェットだ。しかし、私にとってファブレットは持ち歩きしなければほぼ意味がない。だから、画面の大きさは自分自身の納得が問われる課題であるのに対し、この場合薄さや軽さの方は重要なポイントになる。優先順位の問題だ。

バッグに入れたときのがさばらない感じは、Xperiaが圧倒的である。この場合、薄さは正義、ということになろうか。

そして画面の大きさは、文庫本と新書の裁断読取PDFが十分読めることが決め手になった。Nexus7は、裁断した単行本も無理すれば読めるが、Xperiaでは辛い。だが、旅行先に単行本を持って行くことを考えるならば、裁断読取したPDFを出先で読みたいときには10インチのiPadを持参すればいい。

だが、もし10インチタブレットなどを持たずに、基本一台で済ませたいならNexus7をオススメしたい。去年出たものだが、これで十分まかなえる。

SONYのXperia z ultraSIMフリー版(その2)

2014年08月27日 21時03分26秒 | ガジェット
購入して3日。
環境が整ってきた。
日本ではauだけが扱っているSONYの6.4インチファブレットの海外版である。


1,電話は050plus。しかし迷いもある……

BIGLOBEの格安SIMは通信オンリーの945円(税込1G)なので、電話はIP電話を利用することに。

使ったのはiPhone5で利用していた050+のIP電話。
ソフトをインストールしたところ、簡単な手続きで使えるようになった(電話番号とパスワード入力)。

初めて知ったが、ソフトが入っていればどの端末からでも電話ができるんですね、IP電話って(笑)。同時には使えないようだけれど(当たり前か)。

PrantronicsのBluetoothヘッドセットをつないで通話も可能。これで6.4インチの筐体を耳にかざさなくても良くなった。音質はまあまあだが不安も残る。3G回線では実用になるのかどうか。知人はそこでつまづき、楽天電話にスイッチしたらしいが、通話ができない通信のみのSIMではそれもできない。

加えてIP電話は携帯の標準的なプランより安いとはいえ、電話代もそれなりにかかる(1分17円ちょっと)。
というわけで、

docomoのガラケー最低限プラン(①)、
カケ・ホーダイの定額プラン(②)、
IP電話のみ(③)


①は2台持ちでガラケーは受信のみ
②は2台持ちで電話機能をガラケーが完全分担
③は電話番号を捨ててXperiaのみとする格安案

①~③のいずれがいいか、もう少し考えてみることにする。


2.ソフト環境と入力全般。

GoogleのIDを入れるとNexus7で実現していた環境がすぐ整うのにびっくり。
また、ATOKで入力しているが、本文中のポインタの使いやすさも、タッチパネルの自然さも、Nexus7より上だ。

さほど速度を求めないということもあるが、処理速度は十分だ。去年発売された端末だが、私の使い方
(メール、Facebook、ニュース、Web参照中心で動画はYouTube程度)
では、これ以上のパワーは不要である。

3.軽さは正義だ!

SONYXperiaUltraが212g
Nexus7は(292g)
と80gの差だが、本体を持つ手の負担はとても軽くなった。これなら間違いなく本当に長時間、入力をし続けることができる。

ヘビーユーザーほどこの約80gの軽量化の価値を感じるだろう。

また片手操作はほぼ無理なので、車の中で無理して利用しようなどとふとどきなことを考えなくなるのはむしろ利点かもしれない。


4.生のままだと滑る!

ただし、本体が極めて薄くかつフラットで光沢があるため、持つ手が少し滑りやすい。
薄手の皮革カバーなどを買えば解決するが、212gの軽さも捨てがたい。


5.ガラスフィルムにうっとり。

液晶保護には

クロスフォレスト社のUltra用強化ガラスフィルムCF-GYXPZUを使用。

このガラスフィルムは以前使っていたNexus7やiPadの柔らかい樹脂フィルムと違って、タッチもダイレクト感があり、傷も付きにくい印象だ。多少高かったがその価値あり、と感じた。
 
6.その他
キャリア任せ(縛り)だった通信環境を自由に選べるようになった意義は大きい。これが世界標準なのだ。大手国内キャリアの2年縛りがいかに不自然か、改めて実感する。
端末もSIMも必要に応じて自分で選べる環境を、早く広げてほしいものだ。海外物だとやっぱり端末の保証とか不安は残るし、かといって現状では、格安SIMをテザリングまで自由に使える魅力的で高機能な端末は多くない。


スマホとセットだとタブレットが安くついてくる、とか、意味が分からないキャンペーンが相変わらず多い。しかし、そろそろ変わってきそうかな?

SONY Xperia z ultraSIMフリー版(その1)

2014年08月25日 14時54分22秒 | ガジェット
また玩具を買いたくなって、ついつい衝動買い。

SONYのXperia ultraという6.4インチファブレットの海外版を購入した。
理由は二つ。
軽い7インチタブレットが欲しかったのと、SIMフリー端末で格安SIMを試してみたかったのだ。

BIGLOBEの格安SIMを入れて使っている。
音声は今のところまだiPhoneから脱却していないが、今月中にガラケーに移す予定。
38000円÷24ヶ月=1583円それにSIM代月1000円と携帯通信料1000円だから、
合計3500円/月+電話代。

今までの半分ぐらいになる計算だ。
Nexus7より80gほど軽い。
これを電話として使う勇気があればもう少しやすくなるのかな?


単行本を集中して読書するにはちとつらいかもしれないが、新書と文庫なら十分裁断本PDFも読める(5年後老眼が進行したらどうなるか分からないが)。

デザインはさすがSONY。色もパープルだが悪くない。

まだソフトを使いこなしてはいないが、GoogleのIDを入れたらNexus7と同じソフト環境は一瞬で整った。このあたり、もうアップルじゃなくてもいいじゃん、という気持ちになる。

 格安SIMは、何の問題もなく動く。簡単すぎて拍子抜けするほどだ。

「なんだ、大丈夫じゃん」

となると、次に感じるのは、キャリア縛りは不便だなあ、ということ。
必要なものを必要かつ適切な対価で購入するというまっとうな世界にようこそ、って感じ。
おまけやただ商法は一つの工夫なのだろうが、我々は個別に生きているんだから、必要なものはそれぞれ違う。

追ってまた使い勝手などを書きます。

哲学書deてつがくカフェがあります!

2014年08月22日 21時00分44秒 | 大震災の中で
明後日(24日)午後1時より、
福島市舟場町の街中ブランチ(福島大学の関連施設です)で、下記のイベントを実施します。
私も簡単な報告をします。

ハイデガーとアーレントを踏まえつつ3.11以後の哲学の可能性を考える森先生の著作を、著者と一緒に読みながら共に考えようという企画です。
内容についてはレポーターが簡単に報告しますので、未読でも本がなくても全くOKです。著者の了解を得て当該部分のコピーも用意してあります。

よろしかったらぜひお越しくださいませ。

第2回哲学書deてつがくカフェ
森一郎著『死を超えるもの 3,11以後の哲学の可能性』


http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/6d449fdf83dc1872d6bb7be3dad1df4c

『想像ラジオ』のこと(続き)

2014年08月15日 08時12分28秒 | 大震災の中で
続きとはいっても、前の「場所」の話ではなく「話しの話」。

いとうせいこうってヒトが好きで、何だかわからないけれど、惹かれる。
彼は「語り」というか、どう手渡すか、をいつも、考えていると感じる。なんだろう、昨夜のラジオ番組(いとうせいこうトークセッション2014夏)との関連でいえば、モノローグではあっても「対話」が想定されている。

そしてそれは「祈り」に近い態度かもしれない、そんな風にも思う。

神様や死者の魂が、私たちの世界の「外」にあるのなら、それについては沈黙していた方がいい、と思う。しかし、私たちの中にあるのならば、それはことばにして「対話」の豊かさの場に手渡され得る。
『想像ラジオ』の魅力は、そんなところにもあるのかもしれない。

「はなすことがすでになにかである」byいとうせいこう
(「いとうせいこうトークセッション2014夏•國分功一郎との対話より)

以下、ネタバレと感じる人もいるので注意!







柳美里の『JR~』に戸惑うのは、幽霊の発話にも見えるそのことばを誰が受け止めるのか、という戸惑い、ともつながるのかもしれない。

もとより小説はどのようにも書き得る。だが、ことばは誰に向かって語られるのかによってその「意味」は変わるだろう。

単なる読者一般、だけでは足りない。
一人一人に囁くのは、活字の役割ではあるまい。
さて、ではどうするのか。
「場所」についての問いはさらにその先にある。

いとうせいこう『想像ラジオ』を読んだ。

2014年08月08日 13時50分05秒 | 大震災の中で
いとうせいこうは『解体屋外伝』しか読んだことがなかったが、この一冊(『解体屋~』)で、私にとってはかけがえのない作家になって久しい。
繰り返し人に貸して勧めては、文庫や中古を買い直してきた。

今回の『想像ラジオ』も楽しく読めたが、衝撃度は『解体屋~』ほどではなかったかな。

先日読んだ柳美里の『JR上野公園口駅』もそうだったが、これだけの災害を描く時には神様や仏様のような視点、いや正確にいえば神様ではないな、「幽霊」が持つような視点はどうしても必要なのかもしれないと感じた。

これからこういう幽霊小説は一つのジャンルというか傾向性を持って語られていんのじゃないかな。
だって、生きている者たちの都合だけで世界がてきているわけではなかろうし、死者を悼むにしても私たちはその個人的なやり方しか手元に残っていないことに気づいてしまい、では、どうするのか、ってことが「課題」になってしまっているわけだから。

もちろんそこでは「想像力」ってなんだ、ってはなしになってくる。

柳美里は上野公園口に、いとうせいこうは被災地の木の上に、「場所」の息遣いをとりあえずの基盤として展開していく。
さてでは想像力を支える基盤=可能性条件としての「場所」とは?

次はそれを考えねばなるまい。
『想像ラジオ』はそこまで

(これはずっと続く、ですね)

『未完の憲法』奥平康弘、木村草太読了。

2014年08月04日 13時40分59秒 | 大震災の中で
國分センセの推薦図書30のうちの一つ。簡単に読める対談だったので、カール=シュミットの『独裁』と二冊職場に持ってきたけれど、当然ながらこっちに手が伸びました。
カール=シュミットはいっぺんには読めないしねぇ。
で、面白かったです。
9条は国連軍を前提として書かれていた、というところにとりあえず目がいきました。
9条は単なる国内事情の問題ではない、という指摘に納得。

7/26に聴いた萱野稔人センセの暴力論=国家論にも出てきた、各国における軍隊の「紛争解決介入化」「警察化」の大きな傾向とも重なる論点があって、憲法9条は日本だけの問題ではなかったんだなあ、と改めて納得。

また、自民党の改憲論議が自己目的化してしまっていて、実際に改憲して何がやりたいかわからないって話も腑に落ちました。

以下は個人的な感想。
日本人に限らないのかもしれないけれど、いろいろ考えていかなきゃならない時代になったんだなあ、とつくづく思う。何も考えないで「惰性」「慣性」で生きられた震災=原発事故以前のあの頃が懐かしい(笑)


郡司ペギオ-幸夫『群れは意識を持つ』が面白い。

2014年08月04日 11時42分59秒 | 大震災の中で
群れというものを、かつて群衆をコンピュータでシミュレートしてCGを作ったり、人工生命のモデルの基礎となった

「ボイド(バードアンドロイドからのもじり)」

というモデル分析「ではなく」、相互予期モデルによって解析し、個の自由と群れの統御が両立する、単なる能動でも受動でもない、「意識」を持ったものとして捉え直すというもても楽しい試みがなされています。

今年の上半期に読んだ本の中ではベストに近いかも。

ゼヒお勧めです。

あとがきからちょこっとだけ引用。

「時間が同時に進まない、すなわち、みなが異なるタイミングで運動することによって、受動と能動の非対称性が現れ、矛盾が現れる。ところが同時に、このタイミングのずれを用いて、この矛盾自体がやわらげられ、弱められる。なぜなら、異なるタイミングのもとで出現する能動と受動の相違は、同時的なタイミングで想定される相互作用や運動と異なり、運動や相互作用の範囲自体を、そのつど変化させてしまうからだ。きわめて逆説的だが、能動的であるとは、周囲と無関係に自分勝手に能動的なのではなく、周囲との関係において、結果的に能動にされてしまうことを意味する。受動的であることも、いわば他者を能動的にするために、能動的に受動的的となるのである」

かっこいいでしょう(^_^)


ちなみに、あとがきにはトゥルーズの引用がありましたし、本文中にはアントニオ・ダマシオの引用もありました。スピノザは引用されていなかったけれど、平行論と重ねて考えられるなあ、と感じます。

ぜひ一読を!


8/24のてつカフェの場所は舟場町です!

2014年08月03日 10時24分50秒 | 大震災の中で
先日このブログにアップした

【哲学書de てつがくカフェ@ふくしま】
の場所の住所表記が、誤って金谷川の福島大大学所在地になっていました。

街なかブランチ
8/24のイベントで利用させてもらう「街なかブランチ」という福島大学の施設は、福島市舟場町の大仏橋と松齢橋のたもとにあります。

元福島大学の女子寮(葵寮)だったところ、とか言ってもわかる人は少ないですね(^_^;)

本文は既に訂正してあります。

8/24(日)は哲学書deてつがくカフェ@福島です。ぜひおいでください!

2014年08月02日 13時21分31秒 | 観光
【哲学書de てつがくカフェ@ふくしま】

対 象 本:森一郎著『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性』
日  時:8月24日(日)13:00 ~ 15:00
開催場所: 「福島大学街なかブランチ舟場」

※以前場所が「金谷川」となっていましたが、それは大学所在地です。
街なかブランチは福島市内の松齢橋たもとです。

今回の哲学書deてつがくカフェは、哲学者の森一郎さんの著書『死を超えるもの―3.11後の哲学の可能性』(東京大学出版会)を扱います。提題者として二人の報告者に問題提起をしていただき、その後、著者を含む参加者のみなさんと、「世界への愛」とは何かをテーマに、対話の場を設けたいと思います。
著者によると、3.11の出来事以後、有限な個人の生を超えるもの、つまり「死を超えるもの」への問いは、確実に重みを増したと言います。友人たちとの死別や、勤務校の体育館の解体といった「個人的体験」に立て続けに見舞われ、そこから「世界への気遣い」というテーマを軸に哲学的思索を深めていた著者は、2011年3月11日の太平洋沖地震を東京で経験します。著者は、近代日本の経験した出来事でも屈指の国難、大津波による街の喪失と原発事故による国土の荒廃という筆舌に尽くし難い光景に直面し、「世界への愛」という年来のテーマを鍛え直し本書を世に送り出しました。著者はこの本では、3.11以後の哲学の可能性の一つを、あえて、「原子力をめぐる思考の可能性」にという方向性に見定めるとしています。
「現代日本の置かれた状況のただ中で哲学すること、われわれの日常的現実にひそむ根本問題に身を曝し、そこから思索の事柄を掴みとること」が、私たちに求められている、と著者は言います。この本を私たちひとりひとりに投げかけられた「問い」として、みなさん、そして森さんとの対話を通して、「世界への愛」をいつもの「てつがくカフェ」のスタイルで自由に語り合いたいと思います。どうぞ、みなさまお気軽にお越しください。

対象本:森一郎著『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性』(東京大学出版会、2013年)
提題者: 島貫 真(福島県立湯本高校教諭)
     深瀬 幸一(福島県立橘高校教諭)
日時:8月24日(日)13:00 ~ 15:00
開催場所:福島県福島市金谷川1番地 「福島大学街なかブランチ舟場」
http://www.fukushima-u.ac.jp/global/institution/funaba.html
※なお、事前に対象本を読んでこられるのが望ましいですが、希望者には対象頁をコピーして郵送いたします。
主催・問い合わせ:てつがくカフェ@ふくしま fukushimacafe@mail.goo.ne.jp   
(世話人:小野原 雅夫・渡部 純・杉岡 伸也)      

田母神が福島県知事に向かない理由

2014年08月01日 00時11分33秒 | 大震災の中で
わざわざブログに書くまでのこともないと思うけれど、福島県知事候補者として噂とはいえ名前が挙がった以上、書いておきます。
Facebookのシェア記事(日刊ゲンダイ)にコメントしたものをメモがわりに。

------------------------------------------
「田母神福島県知事」がだめな理由

田母神福島県知事候補ってのはシュールな記事だなあ。

以下は一福島県民の個人的な意見です。

田母神が決定的にダメなのは、思考を経ていない分かりやす過ぎる政策の決め打ちだからです。政治家が決めうちをすればいい時代ではない、と私は考えています。

情に厚い、というのは意外に政治家としては大事だったりするけれど、回収できるのが「情」だけじゃ困る。決めうちすればいいってものじゃないでしょう。

無論、従前のような調整役、すなわち予算を国からとってきてしたに配分する仕事だけじゃだめだ。

同時に、丁寧に熟議だけしていても「決められない」政治は続く。

下から拾うのが「情」ではなく、上から持ってくるのが「金」でもなく。

下から拾うのは政策の具体的な運用であるべきだし、上から持ってくるのは生活の可能性を広げる政策であるべきだ。

福島県は原発事故を経験した場所なんだから、それを踏まえた「倫理」を思考し得る人であってほしいというのも、当然だろう。

決め打ちはその範囲を墨守し、カバーすることしか出来ないから、いったん外すと話にならない。

つまりさ、原発事故以後、常に被曝の危険を感じる市民と、そんなものは風評被害だから実はなんでもない、といいたい市民とがいたとして、田母神さんはどうするかな?

それぞれの生活の可能性条件を支える政策をしてくれるとは思えないんだよ。決め打ちの人は、何処かで安全か危険か選択しちゃう。なぜなら、思考を停止して「決断」しちまうから。

私たちは安易な決めうちをせずに思考の限界まで私たちの選択を尊重し支援してくれる政治を望みたいね。

以上、「決め打ち」田母神を支持しない理由。

ということは、「決め打ち」山本太郎なんかも願い下げなわけです(笑)。

さらに言えば一緒にオロオロしながら、それでもそこから始める人じゃないと信用出来ない、ってところかな。

「まさか宮沢賢治ばりのトンチンカンな文学者に政治を任せろ、というのか?」

と言われたら、半分はそうかもしれない、と言っておきます。無論、文学者が持っている想像力は必要。

ただし、自分の想像力を思考と行動の限界としないことが政治家には求められる。
インテリとか文学者が自分の学問や想像力を行使した決め打ちの「正しさ」で政策を定めると超悲惨だったりもしますね。政治家の思考力っていうのは、粘り強さが一流でないとだめ。

結局、田母神は野生は可能性があるけど、思考力に難がある、という当たり前の話。

あくまで個人的な一県民の意見ですが。