龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

國分功一郎論のための覚え書き(2)

2011年12月29日 12時05分09秒 | 大震災の中で
ついでだから、教育論について思いつきを書いておく。

國分功一郎論のための覚え書き(1)のほうもどうぞ。


(The Red Diptychさんの書きブログに触発されて書いています。こちらも参照のこと)
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch
近代の学校制度が始まってから130年以上経ち、私たちはそろそろ教育についてゆっくり考えておいてもいい時期になってきた、と思う。
よく教育改革は喫緊の課題だ、とか焦眉の急だ、みたいに「学力低下」なんぞや「英語教育」などを主題にして、こどもだましの小論文ネタを喧しく論じる場合がある。
そーゆー小さいことは今は措く。
まあ、大切なことなのかもしれないけれど、所詮単一レイヤーの中の事件ってかんじだ。
あ、一言だけ言っておくと、学力を上げたければ上げればいいし、英語を勉強させたければさせればいいと思う。
誰かに任せて上手く行かない、と文句を言うのはもうそろそろやめた方がいいのではないか。
無論教育にはコストがかかる。
家庭の経済状態が悪くて大学とか専門学校にいけないヒトもいる。だが、こんなことを言うのは公立高校の教師としてはあまり適切な発言ではないのかもしれないけれど、自ら楽しむための学び、学びの楽しみの贅沢ならば、様々な形で供給されている。むしろ学校で学ぶがためにつまらなくなってしまうことの、なんと多いことか。

例えば英語を学ぶのに、なにも今の30人も一部屋に入れて扱う制度である必要はない。

もともと今までの学校は「動物」を「人間」に仕立て上げることが目的だった。

これもまたひんしゅくかもしれないが、その「人間観」がもういまや拡散・多層化してしまっていて、学校の教室では昔以上に上手な教室統制・統御の技術が求められてもいる。

教室の権力体系は、いまやかつてないほど微細なところまでコントロールが必要となっていながら、なおかつそこを各々が越え出て行くアクションを促す必要に迫られてもいる。

かつては学級王国などと呼ばれたが、今でも教室は密室空間だ。状況定義力を欠いてしまうと、ほぼ収拾がつかなくなり、いったん崩壊した秩序はこの年度に回復することはほぼ期待できない。

教育は、少なくても近代以降の教室における教育は、あまりにもあからさまな権力の渦巻く場所であり続けてきた。
教育はだから、絶えざる状況定義の更新を前提基盤とする営みにほかならない。

教育の才能は、状況定義力=権力(≒暴力)の行使に関わっている。

だから(何がだから、なのかよくわからないが)、『暇と退屈の倫理学』の、ある種暴力的なまでの明快さは、古今様々な哲学者・思想家に言及しつつも徹底的にそこで「私的」な意味で権力を振るうその状況定義力の行使モデルとなっているのだ。

モデルであることを明示したモデル。

あるいはシナリオとしての「思考」の経路提示といってもよい。
誤解のないように付け加えるが、これは確かに一見強引な答えの提示のように見えるかもしれない。
(1)で紹介したブログ子も、そう分析したのか、と思われる。でも、その意図が十分適切な配置として機能しているのかどうかの評価は別途必要だとしても、この本を読んだ読者は、正解を受領してお仕舞いにはならないのではないか。
また同時に、「答えを求めて」自ら学問する、という風にもならないのではないか。

むしろ、単純に外部の答えを求めるのではなく、歩き出すのだと思うよ。

この本には、ロールモデルを提示してシナリオ学習するシステムと、シナリオが単純な真理への道ではない、という繊細なコントロールが同時に身振りとして配置されている。

つまりは、これ『暇倫』を読むこと自体が、暇と向き合う行為自体ではなく(ブログ子が指摘している通りですね)、むしろ一つのシナリオ学習のようになっているのではないか、ということだ。

補助輪外すのにまで大人の手を借りなければならないとすれば、確かになかなか独り立ちして自転車に乗る機会を逸する危険もある。

この本は千葉雅也氏が言うように、ほとんど「自己啓発書」のスタイルに近い。
超訳みたいなね。読者を上手にある定義に導いてよし、とするような。

でも、実はこれは権力の使い方の入門書、でもあるんじゃないかな?

だから、これはやはり教育的な書物なのだと言うべきだ。

一度目は状況定義力の行使それ自体として、二度目はそれのシミュレーションとして、三度目以降の参照においては、共に歩くテキストとして、変容していく可能性を持っていると思う。

多層なレイヤーを持ちつつそれをどこかて共鳴させることで別レイヤーの幽霊が立ち現れるような。

(この項目、もう少し考え中で)






國分功一郎論のための覚え書き(1)

2011年12月29日 09時23分01秒 | 大震災の中で
『暇と退屈の倫理学』について國分氏自身も紹介しているとても興味深い書評があった。

http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch/20111216

ぜひ参照を。

以下はそれについての簡単な感想。

でも、國分功一郎という名前を持つテキストにこれからたくさんのヒトが親しんでいくだろうことを考えたときに、考えておいてよいと思われる視点のメモでもある。

ブログ子が指摘するのは、『暇と退屈の倫理学』は『スピノザの方法』に見られるような「共に読む」感じが乏しく、むしろ一人で考えているのではないか?という疑問だ。
もちろんだからこそ、明快で、分かりやすい。でも、それは果たして読者を本当に教育することになっているのか?読者が自ら退屈と向き合い、停滞をはじめとする経験しながら自己訓練していく体験をもたらす書物足り得ているのか?
テキストとは停滞を排除するのではなく、むしろドストエフスキーのようにポリフォニックな身振りを持つことこそが、読書体験におけるファストフード化を拒むものなのではないか?

そういう疑問を提示している。

この視点の立て方は、納得。
『暇と退屈の倫理学』の異常なまでのリーダビリティの高さは、教育的なテキストとしてどうなのか?って視点のとこです。
なぜなら、デカルト『一撃必殺』の説得力と対比された『弱い説得』とは、國分氏自身がスピノザ主義者として掲げた旗、でもあるわけですから。

「弱い説得」をむねとしつつ、共に歩む身振り。

私はしかし、ブログ子の結論に、ただちには同意しない。
というのは、基本的に国分功一郎という名前を持つテキストの基本的スタンスというか、資質自体は、「一撃必殺の強い説得」にあって、決してスピノザ的な「迷路」を提供するものではない、と考えるからだ。

もし、國分功一郎のテキストがドストエフスキーやスピノザの身振りを身にまとっていたなら、それははなからこんな風に読まれ得るものではなかったはず。

私はむしろ、國分功一郎的テキストの本質をこう考えている。

デカルトの「一撃必殺」=「強い説得」の力を圧倒的に秘めながらも、その単一レイヤー上のテキストに終始するのではなく、境界線上の近傍にたち現れる幽霊、つまりは異なったレイヤー上の「影」にも仮の形を与え、多層なレイヤー(乱暴に敢えて言ってしまえば多層な環世界)を生きる意志のもとに、話法を設定している語りを持つのだ、と。

「惰夫をも立たしめる」のがテキストの力だ、なんてことを石川淳はたしか言っていた記憶がある。

その意味で、國分功一郎的テキストが持つ一撃必殺の強度を、デカルト的説得性においてのみではなく、異なるレイヤー間の共鳴や感染において「も」用いようとする姿勢として考えるならば、ドゥルーズ論における「自由間接話法」への言及も、「弱い説得」に触れるスピノザ論も、もちろん『暇と退屈の倫理学』も、「惰夫を立たしめる」感染性・共鳴性を持ち得ていると、見ることが可能なのではないか。
そういう意味では、私はこの著作を、
矢野茂樹『語りえないものを語る』
と並べて読む本だとおもっている。

ポリフォニックな響きは、テキストの内部だけでは終わらない、という「意志」を感じるのです。

デカルトから出発してスピノザに至る道、というのは、スピノザの道でもあると同時に國分功一郎の道でもある。でもこの道は同じレイヤーを重ねたものではなく、それぞれの仕方で、しかしスピノザのテキストという「磁場」という状況において見える異なったレイヤーの道、でもある。
スピノザをドゥルーズが読む、という行為(を読む行為)もまた、その「磁場」において異なるレイヤーを共鳴させ、感染させていく言葉の身振りなのではないか?

そんな風に感じられる。

テキスト論はガン無視、というブログ子の趣旨からは大分離れた話になったかもしれない。
必ずしも反論しているのではないような気がするのだが、いまはとりあえずのアイディアだけを書き付けておく。



東浩紀『一般意志2.0』を読む、を書きました。

2011年12月28日 18時50分12秒 | 評論
東浩紀『一般意志2.0』 について書きました。

http://ryuuunoo.jugem.jp/?PHPSESSID=68f60e1e149d4031c96898199dd496f4

正直、どう評価してよいかまだわかりません。
でも、全体とか世界を見通す「公共性」が構想困難で「公共性」が「共有不可能」状態にある「今」においては、東浩紀がいうことも無視できないな、と感じます。
ネットワーク上の有象無象の言説を総体として適切に処理すれば、コミュニケーションなんてものを経由しない一種の「政治的」な基盤がそこに可視化される、というのですから。
あながちほら話といって冷笑するわけにはいかないように思います。

具体例がツイッターとグーグル程度じゃあ海のものとも山のものともわからない。

ただ、東大の3.11以後の公共哲学を考えるシンポジウムに参加したとき、ニコ生のコメントが画面にはだらーと流れている中でシンポジウムが進行していて、そのときネットでライブを見ているだけの感じとはまた違うものを感じました。
私も福島からの参加ということで時間のないなか発言させてもらったのですが、そのとき自分の質問が、パネラーと会場の人に受け止められるというリアクションだけではなく、無責任極まりない垂れ流しであることは百も承知、二百も合点なのに、ネット上の観客からライブで書き込まれるコメントによって受け止められた手ごたえは間違いないものでした。

こちらの気持ちというか思考が緊張と集中、そして快楽をもたらしたのは事実だったのです。

そのときの充実感を踏まえて考えると、可能性はあるかもなあ、とも思うのです。
「選良」を抑制する大衆的無意識の力、みたいな?
ただ単純に、同意はできません。
結局「適切なアーキテクチャ」ってところが心配なんだよねえ。
グーグルに悪意はない。アマゾンはサービスの向上を考えているだけ。ツイッターはその基盤を提供しているだけ、といえばそのとおり。
でも、可視化された情報の総体をきちんと共有し、開かれたものにしつづけるのはけっこう難しいのじゃないか?との疑問もわいてきます。

たくさんの方の意見を聞きたいところです。

個人的にはルソーのテキスト自体に当たったり、アーレントともう少し対話したりしながら考えていきたいですけどね。


高速道路有料化復活に反対です。

2011年12月27日 23時50分29秒 | 社会
極めて私的な意見に過ぎないかもしれないけれど、私は民主党のマニフェストにあった「高速道路無料化」が政権発足早々から腰砕けになり、結局消えてしまったことをここ数年の中では最も残念な政治的事象として受け止めている。

小学生じゃないけれど、
「言ったらやれよぉ」
と本当に思う。
お金の手当ができなかったから、とかいうんだったら、最初からマニフェストとかに掲げなければいい。

基本的には、高速道路建設当時から一定期間収益が上がったら(元をとったら)無料化すると謳っていたはずだ。
どこまでいったら「元」なのかっていう面倒な議論が起きやすいのは分かる。
簡単にことが進まないのもわかる。
でも、だったら「無料化」とか言わないでおいてほしかった。

まあ、「そううまい話はないんだな」、とマルチ商法に騙された人みたいな感想を持てばいいのかもしれない。
結局国も、得体のしれないマルチ商法みたいなものか。

来年4月からは高速が普通料金に戻るのだろう。

思えば高速料金は、自民党政権時代からコロコロと変わり続けてきた。

百歩譲って無料化は無理だとあきらめるにしても、もっと長距離移動に優しい料金体系にはならないものか。

年金支給が遅れ額も減少したとしても、高速が無料になれば老後の楽しみに長距離ドライブができそうだ、と一瞬思った自分の甘さが悔やまれる。

渋滞するから料金を取るとかいう、ふざげた論理にもならない論理みたいな「雰囲気」さえ感じるのは完全に「僻み」だろうか。渋滞するなら道を作れって話だ。シムシティだってそのぐらいするぜ(苦笑)。
公共的な社会資本の典型が道路だったはずなのに、いつまでも「料金」で縛るのはとりやすいところから取る、ことでしかないと思うのだけれどねぇ。
たばこ料金を上げたり、東電が料金を上げたりするのとは訳が違うよなあ。

今年一番がっかりしたことを、とりあえず書き付けておきます。

燃費の良い車で高速代を浮かそうとか思わないわけでもないが、燃費のいい車はHVとか基本的に高い。
車は乗らないのが一番安いって話になってしまう。

現代においては、どんなバランスを取るのが最適解なのか、という感覚が政治家に十分育っていないような気がする。
いやでも、「政治家」の問題じゃないのかもしれないね。

車を乗り、高速道路を利用して日本全国旅してあるくことに「文化的意義」を感じているのだとすれば、粘り強くその価値を訴えていくしかないのかな。
でも、快楽の説明って、難しいんだよなあ、これが。






いわき市のから浄水器発売

2011年12月27日 10時58分37秒 | 大震災の中で

まあ、今のところ県内の水から放射性セシウムは検出されていないということですから緊急性はないと思いますが、話題にはなりますね。

とりあえず情報として。

以下民友新聞(2011.12.26朝刊)より
-------------------------
放射性セシウムなどの放射性物質も除去できる一般向け浄水器
「純真水」
を27日から発売。
約22万円~30万円
(被災地特別価格は約11万円~15万円)
「化研」(水戸市)調べでは、
1キロ当たり168000ベクレルの放射性セシウム含有の水を通すと、不検出となった。
なお、福島県内では現在水道水から放射性セシウムは検出されていない。

フリーダイヤルは
0120-24-1132
ピュアロンジャパン



2011.12.25(日)

2011年12月25日 14時08分58秒 | 大震災の中で
7:30
今日は早朝から町内会の側溝清掃だった。

いわき市は比較的線量が低いから、それほど話題にも上らない……っていう問題なのか、平均年齢70歳以上の黄昏共同体だから気にしないのか、根本的にどうってことないという認識からなのか、側溝の線量、なんて話は誰も口にせず、淡々と朝から泥を流して汲み取り、空き地に置いて終了。

むむむ。

我々は『風の谷のナウシカ』に出てくるじいさんたちのようだ、とふと思った。幾分かは身を縮めて、しかしその状況下で「普通に」生きていくしかない。
汚染された土地は放棄し、風がたまたま守ってくれたためになんとか生活できる場所にへばりついて、大きな状況を甘受しながら何かに対して抵抗することもなく生きていく老人たち。

普通の年寄りなんですがね。
何かあったらそんときはそんとき。
賞味期限が切れた食品を
「サスケねえ」(差し支えない)
といって食べる雰囲気で放射能とつきあっている。

おそらく、東京の人たちからみたら
「土人」
の振る舞いだろうねえ。

でもさ、福島で出た瓦礫も泥も、福島で貯めて福島で処理するしかないんだよね。
実際は福島という「境界線」にはほぼ何の意味もない。
かといってどこが高線量か、なんてホットスポット「自慢」を始めたところで埒はあかない。

除染も所詮限定的な効果しかもたらさないことがわかってきた。
第一比較的低線量のいわき市には、そんなに大規模な除染もなされないだろう。

とすれば、たとえ外部から「茹でガエル」とか「土人」呼ばわりされたとしても、ここに住む以外の選択肢を選ぶのが誰にとって合理的か?
は、じっくり考える必要があるだろう。

私は少なくても、70歳過ぎた彼らの選択は、合理的だと思う。

さて、私は50代で、まあ微妙といえば微妙。
仮に万が一2,3年後に発ガンしたとして、それが原発事故由来の発病だったとしたら、メチャメチャ後悔するのだろうか。主観的にはいろいろクヨクヨするのだろうね。
でも、所詮全てのリスクを管理できているわけではない現状だし、家も仕事もあるこの場所を動くリスクの方がずっと大きい。

だから動かずにいる。

無論いわき市は国の基準では安全な場所、ということになっている。
でも、実際本当に安全なのかどうか、は分かりゃしない。

ただ、分かっているのは、福島県に若い人はしばらく流入しないだろうし、出産数も減るに違いない、ということだ。

そして、繰り返しになるけれど、福島県という境界線は、外部に流通する便利な表象ではあっても、何ら実質は伴っていない。それは事故直後地図の上に描かれた同心円上の避難区域の円と同じだ。

結局のところ、日本中どこでも、外部被曝も内部被曝も、常に細かく計測できる「べき」だと思う。

それが整わない限り、日本中どこに住んでいたって安全は担保されないんじゃないかな。

その上で、福島県とその周辺とかがやはりリスクが高いとするなら、食べ物の収穫時、流通時、そして摂食時にどれだけ正確にみんなが計測できるか、がポイントになる。

素人だってそんなことはわかる。
でも、それがなかなか十分にできていない。

ある種の作為=悪意さえ感じるほどだ。

セシウムはどこに寄せてもなくならないのだとしたら、きめ細かく可視(計測)化して避けるしかないにきまっている。まとめて寄せて浜通りに原発を並べた結果がこのとおりなのだから。
また原発事故の場所に汚染物を集約する、ということになるのだろう。大量に発生した汚染物は他に持って行きどころがない、と私も思う。
でも、「拡散したセシウムは無主物だから、東電には責任がない」っていう論理には失笑した。

わたしたちはそれが誰のセシウムだろうがプルトニウムだろうが、気を使いながらそれと付き合って何十年も生きていくしかないというのに。

いろいろなところに境界線を引いて、その外部に立てばいいというわけにはいかないんじゃないかなあ。

大震災は私たちに「人為の裂け目」を見せつけてくれたけれど、そしてそれは聖なる痕跡として私たちは受け止める必要があると思うけれど、間違ってもそれは神のお告げじゃないのであって、私たちは新たに示された
「生存の可能性条件」
をどう受け止め、自分の力をいかにそこで出していくか、を問わねばならない。

そこでは、想像力を働かせるだけではたぶん足りないんだろうね。






2011.12.24(水)

2011年12月25日 13時03分24秒 | インポート
10:00
朝から郡山市立美術館『歌川国芳展』を観に来た。
武者絵、面白い。
版画なのだから、基本は線と面によってベタに表現されているはず……なのだが、横に三枚並べて刷られたセットの組み絵は、躍動感に溢れている。

かつまた筋肉の細部までこだわった描写と、時折見せる吹きかけられたようなボカしの「硝煙」の表現、さらにはベタな絵というよりデザイン的な虚構性を孕んだ絵たちの画面は、動き続けている力の表象とでもいうべきものになっている。

不思議な力感の魅力に溢れた作品群。

鯨やら骸骨やらの奇想溢れた前期の展示を見逃したのは残念だが、森アートギャラリーだかで2月までやっている別の展覧会でいくつかは見ることができるだろう。

12:00
昼、山の中のパン屋さんで昼食用のパンを買おうとしたらクルマが縁石に乗り上げ、危うく走行不能状態に。
幸いすんでのところでガリガリ車体とコンクリートの擦れる音を立てながら脱出……。
修理費を考えると凹むなあ。

13:30
そこからアウトレットへ行き、家族は買い物。
私は貴重な読書&ブログタイム。

買い物圏域から離脱することができないため、むしろテキストと向き合うには他に選択の余地が無い分好都合。
かえって仕事が進んだりもする。

というわけで積ん読だった
東浩紀『一般意志2.0』を読み始める。

大震災「前/後」の区切り方についての東のスタンスには疑問があるし、この今読んでいる本の方向性にも同意はしないが、ルソーの「一般意志」に遡って「個人」を超えた政治について論じようとする姿勢には納得。

別に過去の哲学や著作作品群の引用をしなきゃならんわけではないが。

問題はどんな道具を調達し、それによって「今」を分析し、どう使用していくかの姿勢と方向性。

ほのめかされているように多分ネットワーク状の一般意志みたいな落としどころになるのだろう。
『ised-情報社会の思想的視座』
から続くアーキテクチャ優先論でしょう。

ただ、宮台のエリート主義とは違うが、階層的というかネット「地域」代表的匂いがして、今ひとつおじさんはついていけない。

まあ、齋藤純一や大澤真幸、アーレント ハーバーマスを参照してるし、その困難を踏まえてはいて、響き合ってはいないけれど「敢えてする」議論という点では共通しているかも?

私は、たぶんこの方向の議論には相変わらず納得できないかもしれない。

たとえツッコミどころ満載であっても同じ敢えてするなら心情的にはアーレントの議論のほうも拾っておきたい気がしてしまう。

けれど、この東浩紀のお話は、これはこれとしてしっかり聞いて考えねばなるまい……ともかんじるのだ。

というわけで、また本に戻る。

19:30『一般意志2.0』を半分ほど読んだところで佐野出発。

とりあえずルソーについても少し勉強せねば、と思う。
でも、公共性とか一般意志とかについて考えるとなれば、私はやっばり「神」のところから考え直さないとピンとこない。

というわけで、年末、またどうしてもスピノザについて考えねばならなくなっている。


2011.12.23(水)の日記

2011年12月23日 23時09分27秒 | 大震災の中で
地元の小中高の合唱と吹奏楽が合同でXmasコンサート。

生の音楽はやっぱりいい。
しかし今年は市民会館が震災で閉鎖のため体育館での実施。

極めて寒い。
若くない身体には堪える。

あんなところとかそんなところとかにカイロを貼り付けて出動。
しかし、いささか時間早すぎたのでモスでコーヒーを飲み時間調整。

隣のマックのWi-Fiが入るのでここのモスが気に入っている。

本日ワゴン車の冬タイヤ購入。

朝から「人為の裂け目」と境界線(/)の違いについて考える。

夕刻、元同僚の父通夜。

朝食は温泉卵、海苔、シャケ。
昼食は控室でハンバーグ&鶏カツ&海老フライ弁当。
夕飯はとろろ、牛肉ゴボウ、イチゴとペア、豆腐、葱竹輪、なすとジャガイモの味噌汁。
夜、息子と「/」と裂け目の違いを話して共鳴する。
21:00少々コタツで寝てから、ストーブの前に座って宮台vs大塚『愚民社会』を読み返す。
共感はするが、同じ世代的ゆえのスタンスも感じる。今必要なのはその共通性の確認ではない。
同様に、東浩紀や和合亮一のスタンスを否定することが目的でもない。

あたりまえのことだが。
ただ、この「/」に対する違和感のありようをきちんと押さえておかなければ先に進めない。

で、個人的にやはり國分功一郎おそるべし、の結論。

22:30シャワーを浴びて就寝。

明日は歌川国芳展を見に行く予定だが、天気の予想はは荒れ模様とか。
心配だ。



それはだから「表現」の問題なのだ。

2011年12月23日 08時39分18秒 | インポート
ソウオモッテ寝床から抜け出した後、
ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』
を思わず手にとった。

何度読もうとしても読めずにいた本の中の一冊。

まず
本質-属性-様態
とかいう用語から勉強し直さなきゃならないみたいな切なさ。

面倒くさい……っていうか、よくわからん。

でも、人為の裂け目にこだわるとすると、ここは避けて通れない道だ、と思う。

別にそれは何がなんでも
スピノザでなければならないというわけではない。
ドゥルーズでなければ、ということでもない。
多分中世キリスト教から考えたって構わないのだ。
今ここにまだ見えている「近代」の自明を疑うために「/」を参照することは出来ない、というだけのとこだ。

とにかく、裂け目に瞳を凝らし続けるのは容易じゃないってことだけはわかっている。

見なければ取り違えだって交換可能だ。
だが、裂け目に瞳を凝らす行為は、その向こう側にたやすく自然とか神様とかをはじめとする何かを
招き寄せてしまいかねない。
それでもなお、そこをみようとするときには、哲学が必要になる。自分にとって手近に転がっているのがそれらだ、というだけのことかもしれない。

まあとにかく、取り敢えず冬休みの課題図書は決まったようである。



境界線なのか、裂け目なのか。

2011年12月23日 07時08分49秒 | 大震災の中で
鈴木謙介もまた、思想地図beta2で「残余」という概念を持ち出す。
だが、それは実は思想地図beta2に集った言葉たちが持つ、「境界線」の思想の身振りなのではないか?

違和感の正体はどうもその辺にありそうだ。

私は当初から
「人為の裂け目」
「自然=&≠人為」
という捉え方をしていた。

震災以前/以後=変化
境界線の中/外=残余

という言葉の身振りに、決定的な違和感を持つ、ということだ。

それは実はやはり同様に、

宮台と大塚の対談に見る
市民/土人=近代民主主義
エリート/田吾作=敢えてする共同体論

のあられもない正直さに対するうんざり感にも通じている。

内田&高橋源一郎の

上昇/下降
中心/辺境

の区分に、よって「場所」を切り分けるご隠居思想も同様ではないか。

もちろん境界線を拒めばよい、というものではない。

「昔から反原発を唱えていた偉人がいる」
、なんていう論調にすら聞こえる上野の言葉は、宇宙の言語みたいだし。

そう。
私は語り方、スタイルを問いたいのだ。

「境界線の近傍に現れる幽霊たちに瞳を凝らしたい」

とかつて私は書いたことがある。

今はそこに
「人為の裂け目」
をみいだし、そこに
自然=人為
自然≠人為
を重ねつつ、強度と弱さ、力と無力を同時に見たいのだ。

だから、問題の大きなポイントは、語られ方の姿勢に関わる。

國分功一郎がドゥルーズ論で
「自由間接話法」
に注目することと、シンクロしている。

それは萱野稔人が『ナショナリズムは悪なのか』で展開しているナショナリズムの可能性条件の読み直しにも関わるし、白井聡が『未完のレーニン』で語る「一元論的な力」についての語りにも関わる。

それは語る姿勢の課題であると同時に、時間の扱い方でもある。

少しは見えて来たような気もするが、例によって
「ボケてきたから判ったような気がする」
症候群、でない保証はどこにもない。むしろ、「福島」を単純に「聖痕」と読み替えただけじゃねぇか疑惑もそこには残る。

でも、どの「病気」を選んで「適応」するか、とかいう単なる「匙加減」の話でもないと思うね。

「小説が読めない」
症候群の説明も掴めてきそうだ。

現実/虚構

とあると、「/」に目がいく状態なのだね、今の自分は。

それがナショナリズムの再定義の問題でもあり、自由間接話法の問題にもなり、時間軸で震災後以後を分ける行為をスカタンだと感じる所以でもあるのだ。

その「/」は、人為の裂け目でもあり、自然の営為でもあり、ヒトが受ける「聖なる痕跡」でもあるのだ。
そこには動物的恐怖と、人間的存在論の恐怖と、社会的権力の隙間の露呈による恐怖が重ねられている。

だから、それを語るには知性の強度が必然的に要求されざるを得ない。

そういうことだったのだ。

『スピノザの方法』を読んだのが何時なのか、がとても気になってきた。





思想地図beta2を読んでいる。

2011年12月22日 21時40分09秒 | 大震災の中で
思想地図beta2(東浩紀編集長)を読んでいる。
特集は「震災以後」。

不思議なもどかしさが言葉を追っていく毎に漂ってくる。

巻頭に置かれた和合亮一の詩を読んでいて、つくづくそれを感じた。
和合亮一の詩は、本人も語るように震災以前と震災以後で大きく変わった。
東浩紀もまた、その自身の変化に言及している。

世代の違いなのか、拠って立つ「場所」の違いなのかよく判らない。
だが、読むほどに違和感は大きくなりつつある。
この人たちはやっぱり、大震災で何かが「変わった」と思えるほどに「若い」のだ。ナイーヴといってもいい。
私はもう震災前に変わってしまったから、震災では何も変わったりはしなかった。
いや、正確にはさまざまなことに改めて気づかされたことは間違いない。
でもそれは、本当に震災によって「変わった」ことになるのか、という疑問が、読んでいればいるほどに大きくなってくるのだ。

他方、大塚英志・宮台真司『愚民社会』は、日本人を「田吾作」・「土人」と過激に罵倒しつつ、啓蒙の不可能性と必然性を語る対談で、実に心に沁みた。

教育と啓蒙という身近な場所の無力といらだちと危機意識が、現実といかに繋げ得るのか?そういう自分の課題に極めて近いものを感じる。

ま、「土人」とか「田吾作」とか、お馴染みの「あおり」惹句が頻発なんだけどね。

でも、ここには白井聡が『未完のレーニン』で示そうとしている、
自然発生的な革命もなければ、知識階級の革命もない、という二重の不可能性の認識の中からしか「革命」は拾い出せないというレーニン読解と繋がるものがある。

それは、「本来性なき疎外」を指摘する國分功一郎の『暇と退屈の哲学』の力強い姿勢にも通じる。

上野千鶴子の「原発事故前から一貫して反対して変わることがなかった言説だけを信頼する」というスタンス(週刊読書人)は、ちょっと意味が分からなかった。そういう人がいながらこの事故が起こった社会現象をどうするの?と、ちょっとぽかんとしてしまう。なんだか「強度」を取り違えていると感じるのは私だけか?

また、渋谷陽一編集の雑誌「SHIGHT]2012Wに掲載されていた内田樹と高橋源一郎の「沈みゆくニッポンを愛する」系の辺境主義的言説は、やっぱりなんだか「処世術」っぽくてついていけない。
おもしろさでは一番なんだけどね(笑)。

この辺り、年末年始にかけてじーっくり再考してみたいところである。

あとは、300人の若者が体験した「大震災の中で」という都合2400枚の原稿を、どうやって処理するか、が来年の課題。これでも、記録としてぜひなんとか残したいんだよねえ……。


木村俊介『物語論』(講談社現代新書)を読む

2011年12月18日 23時07分53秒 | インポート
木村俊介『物語論』(講談社現代新書)を読む
をJUGEMの「メディア日記 龍の尾亭」にアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111218

17人の創作家へのインタビューがまとめられた新書です。ちょっと珍しい、読みやすくて、でも気合いの入った1冊だと私は思います。
よろしかったらぜひ。
取り上げられている創作者は
荒木飛呂彦/伊坂幸太郎/うえやまとち/かわぐちかいじ/是枝裕和/桜庭一樹/渋谷陽一/島田雅彦/杉本博司/諏訪内晶子/中村勇吾/根岸孝旨/橋下治/平野啓一郎/弘兼憲史/村上春樹
などです。


佐藤亜紀『ミノタウロス』を読んだ。

2011年12月18日 11時23分43秒 | 大震災の中で
昨日、泊りがけの読書会に参加した。
国語教師の残骸たちの忘年会である。
まあ、団塊退職者の会合って、年金直ぐ出るから世の中溢れかえってるんだろうねえ。

もっとも、この会合は30年以上続いている、多分福島県では1番歴史が長く、冊数も1番たくさん読んでいる、従って年齢層も上の化石的な会合なんですが。

なにせ50代の私が最若手ですから推して知るべし(笑)。


私がレポーターで、読んだ本は佐藤亜紀『ミノタウロス』。

参加者は元&現役の国語の教授&教師6名。
平均年齢は63,4才。

概ね不評、と見た(笑)。

いやもちろん、みんな小説読みの超手練れだから、勘所は外しやしない。

レポーターがよく知らないので黙っていたピカソのミノタウロスの話もワイルド・バンチの話もとびだし、タチャンカへの偏愛も、ちゃんと読み解いてくれる。

武器オタクで、歴史フェチで、マッチョラブなアンチヒューマンの活劇好きで、という、本文から匂い立つようなところもまあ言わずもがなに球を受けてはくれる。

それでも、この作品の「読者」は、多分わたしだけだったのだろうと思う。

「すかっとしねえんだよね」
と、
「『シチェルパートフ』的人物が書けるんだったら、4,5000枚でこのロシアを描ききればいい」
「そういう意味ではゲーム的」
が、じいばあ予備軍の主たる批評だった。

その中では、ある種の虚無性を示した作品として大正期に日本でも人気があり、新潮の文庫になっていたロシア小説
『最後の一線』
を思い出した、といっていた老教授の言葉が印象に残る。

私はこの佐藤亜紀の『ミノタウロス』を、徹底的に「今」の小説として読んだ。

だが、老人予備軍の「不評」もまた、いくつかの変数を掛けなければならないにせよ、間違いなく「今」の声だろう。この小説の「コントロールされ感」は半端じゃない。

彼ら「亜老人たち=読者層」の敢えてする無理解の態度
と、
作品自体の敢えてするカオスに満ちた暴力描写の透徹性というか、ヲタク的記号コントロール感とのせめぎ合い

とは、そのまま自分の「今」の課題として瞳に映る。

では自分は何をどう「偏愛」するというのか?単に作品を愛でて終わるわけにはいくまい。作品を捨てる身振りを忘れずにいたいものだ。

無論作品を捨ててファンタジーを拾うって話じゃありません。

震災からこっち
「小説が読めない」
という悩みを抱え続けてきたことの意味も、少し見えてきそうなきがする。

この項目、続けて考えねば。



声楽アンサンブルを堪能してきた

2011年12月14日 00時17分06秒 | 大震災の中で
12月9日(金)、福島市音楽堂で福島県声楽アンサンブルコンテスト(高校の部)を朝から夕方までずっと聴いて、その響きを堪能してきた。

50団体以上、100曲余りの声楽アンサンブル(全部2人~16人までの小編成)を生で聴き続けるなんて経験は、人生の中でもそうはないだろう。
演奏者はリハや本番、練習などがあるので到底無理だし、平日このようなイベントをわざわざ朝から聴きに来るなんてこともなかなかできない。
たまたま高校生の合唱部の引率で、しかも出場が2グループに分かれていて、正顧問が各グループの指導で練習会場に行くので、私はずっと演奏会場で待機しつつ連続してこれだけの演奏を一日中聴く恩恵に浴することができた、というわけだ。

とにかく、すばらしい。私は合唱のステージには何度も立ち演奏もたくさん聴いたことがあるけれど、こんなに多様な小編成の声楽を生で聴いたことはなかった。

昔、皆川達夫という合唱の神様みたいな人が、コンクールの審査員をやっていてハンカチを濡らしながら聴いていた、という話を聴いたことがあった。
嘘だろう、と思った。高校生ごとき(当時はそういうひねくれた高校生でした!)の演奏を聴いて、プロが涙を流すなんてあるわけないじゃん、と考えていた。

さてしかし、今回次々に演奏されるステージを聴いていて、あろうことか、涙がにじんでくるのだ。

震災で心が弱ったのか?
加齢で脳味噌がショートして涙腺が緩んだのか?
眠くてあくびの代わりに涙がにじむのか?

が、これはやっぱり感動の涙以外に考えられない。
それほどに、素敵だった。

上手ヘタは関係ない、といったらコンクールの出演者には失礼だろうか。

なるほど多人数の合唱の場合、正直上手いヘタは素人でも分かるし、ヘタは正直「イタい」こともある。
しかし、少人数編成で各パート1人~2人だと、その緊張感は生でこちらの心まで迫ってくる。
和音がゆらぎ、テンポが振れる。

だが、指揮者を必ずしも前提としないアンサンブルの場合、その身体の微細な揺れを響き合わせて、危うさというか微妙な「差異」のやりとりを前提としつつ繰り返し繰り返し何度も「和声」をその場で「交渉」しあい、「響かせ直し」合いながら幾度も作り上げていく、音楽の不断の生産の場に立ち合うことが聴き手の仕事になる。

これは、音楽好きには泣けるほどに「感動的」なのだ、と初めて知った。

当然、そんなこととは知らずに聴いていたのだが、一位になった郡山東高等学校混声合唱団(十一名)の演奏、
「Le chand des oyseaux(鳥の歌)」
文字通り「鳥肌」がたった。

鳥たちの囀りが、時に不協和音となり、時には美しい和声となり、あるいはてんでに自由な囀りそのものとなり、アンサンブルならではのライブ感と相俟って、もうびっくりたまげるほど楽しい初体験の演奏だった。

そればかりではない。
たった3名とか4名の少人数でステージに立ち、立派にそこに自分達の声だけで音楽をそこに立ち上げてくれた坂下高校や川俣高校の演奏もまた素敵だった。

思い出してみれば、自分達も高校の頃、道ばたを歩いていてもパートが4人揃えばいつだって愛唱歌をハモりながら歩いたものだったし、遠征の帰りは、福島駅の改札口を出ると、市民のみなさんがとおりがかる駅の前で、何曲もその場で歌を歌ったものだった。

そういう、プリミティブ(素朴で幼稚?)な音楽の湧き上がる楽しみと、ステージという緊張とを同時に感じさせてくれるのが、この声楽アンサンブルコンテストだったようだ。

聞くところによると、来年3月には、福島市音楽堂でこの全国大会が開催されるという。
あんまり上手な団体ばっかりだとむしろお上手すぎて「残念」だったりする危惧も抱かないわけではないが、県大会でこんなに楽しく感動的であるなら、ぜひとも聴いてみたい、との思いを強くした。

震災後、ライブを心が求めている。

演劇や音楽は、人の魂にとって間違いなく必要不可欠な「糧」だとしみじみ思う。

本当に素敵だったんですよ!
人数が少ないからこそ、ライブの緊張感と衝迫力はむしろ増すのではないか?

ちょっとだけ技術的なことをいえば、このホールの超長周期の残響は、少人数のアンサンブルにこそふさわしい、とも言えるのかもしれないのだが。

いいものを頂戴しました。出演者のみなさんに、多謝。


現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む

2011年12月07日 02時44分33秒 | 評論
現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む
をJUGEMブログ「メディア日記龍の尾亭」に書きました。

フェミニズムという思想に出会ったときは衝撃でした。
女の子の謎は、女性が女性であることによって引き起こされているのではなく、むしろ男の側の幻想というかホモソーシャルな排除・抑圧の結果なのだ、と突きつけられた「真実」はびっくり仰天。

無論女性性とか男性性とかは「社会的に作られる」
ぐらいのセリフは子どもの頃から知ってはいたし、ジェンダー概念まではっきりしたものではなくても、どうも「女らしい」とか「男らしい」とかいう手合いはおよそ胡散臭いのは分かっていた。

けれど、上野千鶴子が挑発的に論じる「フェミニズム」は、「性なんて単なる役割や幻想なんだよね」的なお話じゃなくて、読者である「男の子」の自分が、女性性に対する男性として「当事者意識」を持たされていく巻き込まれ感がありました。戦闘的だったんだよね。

自分はそんな戦闘の対象じゃないよっていっても、聞いちゃもらえない感じがあって、それはどうにも理不尽だなあ、と素朴に感じていました。

敢えてするカテゴリー優先の議論の戦闘性は、面白くもあり、やっかいでもあったのを記憶しています。
でも、その「訓練」から、カテゴリーの臨界面を教わりました。

「性」は外にあって着脱可能な範疇じゃない。
自分たちが生きる前提となっている引きはがせない「下駄」であって、それらは社会が男や女を追い詰めて抑圧し、あるいは機能させていく内面化されたシステムでもある。

そしてそれは、「性」の問題だけじゃなくて、「政治」・「権力」の問題でもあるのだ、と目を開かされていくことになります。

結局フェミニズムの問題それ自体に対する理解はあまり深まった記憶はないけれど、社会学的な匂いについては教わったことになるのかもしれません。