龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

iPad2が来た!

2011年10月31日 20時32分32秒 | 大震災の中で
79歳になるうちの母が、iPadを甥に勧められてその気になったものだから、早速注文(SBのiPhone持ってるヒトは3G付きiPad2が安いキャンペーンで。ま、そんなに安くもないんだけど)。
一週間ぐらいで届いたから、割と早い感じですね。

で、ブツが届いたら最初母親は
「あんたがつかえばいいよ」
などと尻込み。私も欲しいっちゃほしいが、仕事では全く使える環境にないので、家のPCとiPhoneでとりあえずはいいから、
「そんなこといわないで、パソコンとは全然違う使いやすさだよ」
とプッシュ。
そしたら昨晩から、花の図鑑とレシピ、それに楽天市場の安売り価格を次々見て回り
「便利だねぇ」
を連発。

脇で見ていても、正直パソコンを使っていたときの難渋とはいっさい無縁のサクサクぶりにかなり感動。

余計なことを考えずに自宅の中で、あるいは持ち出してWi-Fiのあるカフェで、ITの「今」を満喫できるのが素晴らしいと思う。

ま、田舎にはそんなカフェはないんだけど(笑)

せめて、スタバがあればいいのだが。
マックじゃちょっとゆっくり原稿を書いたり一冊本を読むってのもちとしんどい。

「若い人がネットに夢中になるのもわかるわあ」
との79才の感想は、なかなか重みがありました(^_^)
なんだかんだいっても、ドンドン進歩してると思う。
iPad使ってると、キーボード入力だけが仕事やあそびじゃないさあ、って気持ちになってくるから不思議。


母親が、使わないよこんなの、っていったら自分で使おうと思っていたけれど、こうなると無理みたい(^_^;)
だから、Amazonの新しいKindleが日本語書籍に対応したらそっちを購入しますかね。

あるいはドコモの超高速通信のタブレットにするか。




週末、生まれて初めて能を観た。

2011年10月31日 15時46分42秒 | 大震災の中で
番組?は、「仲光」という曲。

いやあ、寝た寝た。たぶん観ている間に100回ぐらい気を失ったんじゃなかろうか。
これだけ意識が寸断される経験は、人生史上初めてかもしれない。

まあ、能というのは催眠作用があるのは織り込み済みとみえて、劇場で渡された注意書きにも、
「ページをめくる音やいびきに注意」
とあった。
寝てもいいけど静かにね、という信号と見た(笑)

というのは、もう一方の項目についても、思いの外謡曲(能は謡曲っていうんですよね、たしか)を持参して読みながら芝居見物してる人が多かったのにびっくり。

お勉強モードなんですかね?

まあ、そういうわけで、あたかも催眠光線に当てられたかのごとくに意識は寸断され、約100回ほど「死んだ」勘定になります。

明らかに話がおもしろいかどうかとかいう次元じゃない。

これに比すべき経験はおそらく人生の中で2つだけ。
ひとつは子供の頃に見た歌舞伎の劇場中継。
もう一つは高速道路を長距離長時間走って、パーキングエリアまであと15キロぐらいで眠気を催したとき。

車の運転はかなり好きな無頼に属するし、長ずるに及んで劇場で観た歌舞伎はメチャメチャ面白かった。

この能の眠さはだから、単に詰まらないから眠かったというのとは訳が違うようなのだ。
詰まらない講義を聞いていると確かに眠くなるが、そんなときは席を立つか爆睡するか、別なことをはじめるから、こんな眠さにはならない。

芝居は席を立てないし本も読めないから縛られている、という点があらのは確かだが、つまらない芝居だって、これほど寝たり起きたり意識の寸断は起きない。

能というのは実に不思議なものだ、と思う。

つまり、表面は動かないんだなあ。世界が徹底的に内面的な表象に満ちていて、外側の動きは超制限されているのに、一方内面世界は想像を絶する烈しさがある。
だから、惹かれるけど、見えない。観ようとする見方が不適切だと、こういう風に受容すべきこちらの意識が寸断されてしまうのではないか。
いや、不適切、とかいうと、何か能を観るのに適切な方法があるみたいだけど、方法というより、むしろ文化みたいなものか!?

なんだか分からないけれど、武士を身近に感じた。中世という訳の分からないモノを感じた、と言ってもいいかもしれない。
まさか、お話が武士の美意識というか生き方死に方についてだったから、とかいう話じゃなくて(笑)

能楽の論文とか、批評とか、割と興味津々に読めたりもする。花伝書とか、この前原文で一気読みしでしまったし。

ても、本体を観劇すると「瞬殺」。
そしてまた観たいと思って劇場を後にするという不思議。

53歳、遅すぎる能の観劇デビューは、もう少し自分自身と向き合う修行のようなことが続きそうな予感でとりあえず終了。夢幻能的な番組を今度はぜひ観たいものです。



ゲームソフト「Luxor2」が意外にはまる

2011年10月24日 23時22分54秒 | iPhone&iPad2
iPhone用のゲーム「Luxor2」が面白い。

落ちモノゲームの変形とでもいえばいいのか。
連なって蛇のように蛇行しながら一列に迫ってくるさまざまな色の玉に、手前の射出機から同じ色の玉を打ち出し、3つ以上並べて消す、というも。

単純きわまりないし、決着は短時間で着く。
テトリス的落ちモノと似ているけれど、もっと単純、といっていい。

これがなんともはまってしまうのである。
アイディア自体はべつにルクソールとは関係ないのだろうけれど、いかにもエジプト風の造作がそそられるし、単純なルールと決着の素早さも、「もう一回」の欲望を呼び覚ます。

よろしかったら覗いてみてくださいませ。
携帯(含むスマートフォン)ゲームって要するに暇つぶしですものね。
でも、暇つぶしこそ、「趣味」が出るんじゃないかしらん。
エンジンは単純でもいいから、何風の雰囲気なのか、ってのが意外と大事になってくるのかも。
戦車ゲームなのか、潜水艦ゲームなのか、落ちてくるのがぷよぷよしてるのか四角いものなのか、こっちからシュートするのか落ちるものを制御するのか。
微妙にそういうところでテイストが違う。
むしろテイストさえ合えば、ゲーム性とかそんなにこだわらないなあ。
暇つぶしはちょっと簡単ぐらいが丁度いいし。

暇は潰すものなのか?という根本的な疑問はさておき、とりあえずはお薦めです。

大間に建設中の原発、止めておいた方がいいと本当に思う。

2011年10月23日 20時55分32秒 | インポート
再開見通せず(Jパワー)<時事通信>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111023-00000064-jij-bus_all


この夏、青森県下北半島の北端、大間に建設中の原発の建設現場を観てきました。
遠くから眺めただけですが。
下北半島の南には六ヶ所村の再処理工場があります。
確かに目立った産業がなく、原発誘致による地元への交付金や税金、その他さまざまな補助金などがノドから手が出るほどほしい、必要だ、ということもあるのだろうなとは思います。

福島県の浜通りも同様に、目立った産業がないからこそ、東電の原発立地を容認し、そこから得られるお金と雇用とによって、地元を支えてきたのですから。とても他人事ではない。

でも、そのときも思ったことですが、ここを放射能汚染の「現場」にすることはなんとしても避けねばならない。
電力会社、開発会社が「安全」だといったから、は少なくてももはや通用しないでしょう。
地権者とか交付金とか利益を得る限られた地元の地域の人の意向だけで、原発の稼働を認めることはできない、と日本人は否応なく学んだはずです。

悪いことは言わないから、大間原発の稼働は止めておいた方がいい。

いろいろ議論の余地はありましょう。
もしかすると新しい原発の方が何十年も前の設計のものより安全だ、なんて視点だって、そりゃああり得るかもしれない。
でも、制御できない現実の結果を何十年も受け止め続けていかねばならない福島県の住民として、何度でも、特別に尋ねられなくても、「止めておいたほうがいい」と言い続けます。

自然災害なら、私達は立ち上がり直せるって部分もある。制御を失った人為の暴走は、否応なく埋めることのできない「裂け目」を私達に突きつけてきます。

だからこそ、「人為」に同一化することは本当に注意深くあるべきなのだと思います。
しょうがないとか時間がないとかとにかく今は必要だ、 とかいった「時間」をけちって威すような言説は、なし崩しの「現状同一化」を欲望すするものとして、特に注意が必要でしょう。
もし、丁寧に検証して考えているうちに何かが手遅れになったとしても、徹底した思考の結果は、必ず別の成果への道を指し示すことになる。

二者択一を迫られて、どちらに「同一化」して「正解」を求めるかを迷って情報を集めているだけだったら、失敗する危険も大きいし、没落の危惧もあながち根拠がないとも言い切れない。

初期衝動を手放さず、徹底的に思考をつきつめていく行為は、単に現況を「今」に区切った恫喝的ベストチョイスよりもずっとスパンの長い「価値」への目覚めを、必ずもたらしてくれるはずです。

箱庭の中で答えを探すな。
恫喝された同一性を疑え。

長い人生を楽しむ方法は、脅迫されて答えを素早く選ぶテクニックの中にはないはずです。
選択肢を比較するんじゃなくて、選択肢を成立させている根元から考え直して行動していくってことですね。

そのためには、ヘタな理屈より、初期衝動が頼りになる。動物化することが目的ではないけれど、衝動を失った論理の果てに見えるモノは、むしろ大きな「過ち」ってことが多いのじゃないかしら。






國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社刊を読む(別バージョン)

2011年10月21日 21時04分05秒 | インポート
こちらのブログ(龍の尾亭)にも感想を書いたが、
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111021

別のことをこちらにも書いておく。

この本は、人間が感じる「退屈さ」について、たくさんの哲学者の視点を踏まえつつ、いくたの哲学者の視点のどれにも「還元」されることのない「思考の軌跡」を読者と共に「生きる」ことを目的の一つとして書かれている。

(筆者でもないのに偉そうに書いてしまうが、ま、当然、私見です<笑>)。

「暇と退屈」を巡る哲学者の意見を経巡っていくなかで、その思考過程自体が、「同一性なき差異」の豊かさに関わる「倫理」を指し示していく仕掛けになっているといったらいいのか。

かつ、この本において読者と共に歩むステップそれ自体が、「暇と退屈」を単純に「排除」して「本来の」・「充実した」・「理想の」人生などという「虚構」の奴隷にならないための、思考の「歩行訓練」にもなっているという一粒で何度も美味しい本である。

何より、前著(『スピノザの方法』<名著です……これも私見ですが……>)に比して筆者の「哲学」する息づかいが感じられる文章になっている。

これ、哲学者の「業界内アクロバット」の文体でもなく、素人を囲い込んで「理想」を物語る「啓蒙」の文体でもないのがともていい感じ。

思考における「同一性なき疎外」の豊かさのありかをきちんと読者と一緒に感じる場所=傍らに立ちたい、という筆者の姿勢が伝わってきます。

お薦めです。

全部のお話が腑に落ちたわけではありません。
ハイデガーの3つの退屈の分類の説明は、その前後の歯切れよい活気に溢れたトーンと比べると、まだよく分からない感じ、が残ります。

でも、私の乏しい読書体験の中で、ハイデガーの文章が簡単に腑に落ちたことはないので、そんなにびっくりもしませんが(苦笑)。

今はハンナ・アレントの遺稿集を読んでいる最中なので、アーレントについての批評は面白く読みました。
なるほどねえ。
またそういうことも含めて考えてみようっと。

個人的に、なんといっても目から鱗だったのは、ルソーとホッブスとマルクスを並べて、彼らの示す「疎外」というのは元来、回帰=回復すべき同一性に向けてのエンジンにするべきものじゃないよね、「同一性なき疎外」をちゃんと観る必要があるよね、という指摘でした。

「同一性」に回収されるうさんくささを回避するために「疎外概念」を手放すのはどうかと思うよ、という点。

これはもしかすると私達の世代の「病気」みたいなもの(全共闘より下の少人数帯=現在50代前半ぐらい)だったかもしれません。

いろいろな切り口が豊富に提示されていて、それぞれの哲学者のスタイルが「暇と退屈」論を通して浮かび上がるようにもなっているから、そういう意味では小さな窓から覗いた「近代思想史」みたいなテイストも。

ぜひ周囲の人に勧めて感想を聞きたい一冊。
よろしかったらいかがでしょう?


追記
人類史における狩猟生活から定住生活への大変換と「暇」の関係の指摘もめちゃめちゃ面白かったです。

ユクスキュルの「環世界」という視点は、七月に聴いたオーギュスタン・ベルク氏の講演でも引用されていて、ハイデガーとの関係で論じられていました。
その辺りも面白いところですね。







落合博満という人らしい最後。

2011年10月18日 21時42分12秒 | インポート
現在、中日×横浜戦が3対3の10回裏。

引き分けなら中日の優勝が決まるところです。

しかし、たとえ優勝が決まっても監督は退任。
落合博満という人らしい最後です。

私は彼のとぼけたような、無愛想な振る舞いが好きでした。
隣にいたら面倒臭い人なのかなあ、とも思うけれど(^^;)。
自分の描いたグランドデザインを断固として実現するために必要なことを言い訳せず、他人にも要求しつつストイックに努力しつづける、っていうイメージがあります。

上手なコミュニケーションとかいうこととは無縁な仕事人のかっこよさがあるような気がして。
イチローのメディアとの、常に齟齬を感じさせる言葉にも通じる「へんてこりんさ」がありますね。

なんだろう。

勝つまで止めないまるでいじめられっ子のような執念みたいなもの、といったらトンチンカンでしょうか。

頑固っていうか、ヲタクっていうか、周囲の目を気にせずに「バカ」が付くほど自分の基盤・計画に固執しつつ、今を超えた場所を目指していく姿勢は、惚れるなあ。
惚れさせる感染力がないと監督とか仕事にならないよね。

外側からは見えにくいかもしれないけれど。



岩瀬の使い方とか、荒木ー井端の安定感とか、若手を中心とした投手陣の圧倒的な層の厚さとか、
「頑固-断固」な覚悟があって、その上で結果を出すのが凄い。

結果を出すって、「勝つまで止めない」「その緊張感と理想への高い意識を周囲に感染させられる」「状況の変化を丁寧に感受する」みたいなことがいろいろ重なって成立してるんだろうね。



脱原発の流れが見えなくなっている

2011年10月17日 23時11分27秒 | 大震災の中で
首相が、建設中の原発の稼働も含みを持たせる、といった報道が出ていますが、本当ですかね?
TPP前向き発言が首相のクチから出たっていう報道もありますが、本当ですかね?

私は本当に難しいことの細部までは分かっていないのだけれど、手順が「雑」なのは、戸惑いを持つこちら側ではなく、我々がまた納得していないのに、何か別の都合でものごとを推進していこうとする側のなのではないか、と最近思う。

たとえば、朝日新聞の原発事故検証記事があったけれど、これも同じ雑さが見える。

原発事故の報道が「大本営発表」のようになってはいなかったか?
と自社記事を戒めている。
だが、本気で言っているのか、と呆れてしまう。

大本営発表に荷担したっていうのは、ありもしないことを歪曲して発表したものを、無批判にイケイケで乗ってしまった歴史のことだったんじゃないかしら?

一般の人の感覚と私の感じ方とは大分ズレがあるのかもしれないが、
今回の原発事故の政府発表にもマスコミ報道にも、「大本営発表」のようなメチャメチャな嘘は全く感じない。
枝野官房長官は、与えられた情報に基づいて、責任を上手に回避するゲームを、クレバーにやってのけたのじゃないか。

たぶん戦時中の言説なんかとは比較にならない鉄面皮のゲームが進行しているんだと思う。
細野大臣の「真面目そう」な語り口もそうだ。
今の政治家は「分かっててやっている」し、市民も「分かっててしらけている」。
どう考えても第二次大戦中の「市民」は、アメリカだって日本だって、こんな風に情報をいろいろ採れる状態じゃなかった。

「大本営発表みたいじゃないか」
ってのは、居酒屋のおじさんの酔言に過ぎないだろう。大手のマスコミが反省しているつもりなのかどうか分からないけれど、「雑」だなあ、と感じる。


そんなことは百も承知で政治家が言葉を操っているのに対して、マスコミはきちんと対抗しなきゃならないのに、「大本営発表」みたいな反省じゃあ、そりゃあ歯が立たないだろう、と素人でも分かる。

雑な反省をしている暇があったら、彼らが作為的に「無知」と「限界」を装いつつ、筋道をつけようとしている「政治的言説」にきちんと対抗しえる持続的で知的膂力を感じさせる追求をしてもらいたい。

TPP問題も同様だ。
マスコミはTPP問題に対して国民が抱えている大きな危惧に、少しも触れていない。
大本営発表というなら、こちらの問題だって、深刻な不作為をマスメディアがやっているのではないか。

原発報道で反省している暇があったら、もっと食いついて執拗に取材報道を粘り強くやってほしいし、TPP問題の「課題」を、こんなに政治が急いでいるのはおかしい、と徹底的に課題を洗い出してほしいものだ。

メリットとデメリットの両方が情報不足だし、語り尽くされていないと感じるのは私だけだろうか。

農業への影響、医療への影響、実際に「関税」がどこまで問題なのか、韓国のFTAの状況との比較はどうなっているのか。

原発事故の状況と同じように、TPPにおいても、企業優先で政府は不作為の不十分な説明を続けるのだとしたら、私達の生活の質はどこまで「落ちて」いくのか。

実は、生活の質が落ちること自体が問題なのではないと思う。
右肩上がりの幻想は、私達市民の中にまずもって根強い。
企業も政治家も経済学者も、もちろん「経済成長」なり「回復」なりによって問題が解決することをつい望んでしまう。

それは私達の「不安」や「幻想への期待」、「幻滅」を準備する素地になってしまうだろう。

でも、私達はそろそろそういう幻想ばかりを追うのではなく、リアルな右肩下がりの軟着陸における新たなクオリティの向上も複眼的に視野に収めつつ思考することが必要になってきているのではないだろうか。

絶望が足りない、とかいう抑圧的言説じゃなくて、ね。

TPPに参加しなければ大変だ、とかTPPは亡国だ、とどちらも喧しいが、急がせる話はだいたい「詐欺」の手口だ。

遅かったからダメになる、というのは、遅いことが思考停止になっている場合だけだろう。

遅いこと自体が問題だ、という思考の枠組みは、間違いなくそろそろ止めておいた方がいい。

今日の朝日新聞がEUの金融危機に対して「速度」が重要だ、という提言をしていたが、EU参加国の民主主義的決定の鈍重さに危機感を抱いているのはいいとして、結局「現状適応的にうまくやろう」という日本的苦言の域を出ていないのではないか、と他人さまながら心配になった。

たとえ多少乗り遅れても、自分たちの納得の方が絶対に大切だと思う。
問題なのはむしろ、思考停止をしたまま、狭い状況適応を目指して機会主義的に「勝ち馬に乗る」速度志向の方なのではないかしらん?

一刻も早い原発事故の収束を、とか一刻も早い復興を、っていうのは、基盤となる設計がきちんとしていて初めて意味を持つ。
事故が起こった瞬間とかならいざしらず、20年30年かけて粘り強く原発依存を脱していったり、新たな形の街や地域を作っていくには、速度と拮抗するだけの準備も忍耐も緻密な計画も必要なはずだ。

今は個人的な感想に過ぎないように聞こえてしまうかもしれないけれど、この「一刻も早く」っていうヤツはかなりのくせ者だと思うなあ。

今、ハンナ・アレントの『責任と判断』という遺稿集を読んでいる。
これを読むと、人々が、こぞって官僚的にその社会=国家組織に身を委ねて「自由」を見失い、そのことによって責任が消失してしまう「社会化」=「ペルソナ化」を、丁寧に彼女が読み解いていくプロセスが見えてくる。

大震災から半年。
私達は、正直もういっぱいいっぱいになっている。

もう余計なことを考えることが辛い。
何か新しいことに直面するたび、もう勘弁してほしい、という感情が先に立つ状態になっている。

比較する対象を持たないので正確なことは言えないが、職場が6回も引っ越して、やっと落ち着いたとはいえ仮設校舎での授業が数年にも及ぶ見通しで、滞っていた行事や会議が二学期に目白押し。授業内容は間違いなく遅延しているのに、全ては「普通」に進行していく……そんな中で、もう余計なことは何も考えたくない、というところに立たされているような気がしてならない。

被害妄想、みたいなものですかね?

でもね。

それでも脱原発の志向を見失ってはならないと思うし、たとえば疑問の残るTPPについて、徹底的に情報を集めて考え、発信していかねばならないとも思う。
円高とデフレ、経済成長とインフレ、為替と株の値動き、金融危機の現実などなど、大震災と原発事故以後、堰を切ったように、今まで思考停止して瞳をそばめていた事柄が怒濤のようにやってきているような気がしている。

でも、そういう「情報」を適切に振り分けながら、無視したり無感覚になったりするのではなく、ひとつひとつ「自分の考え」を鍛え上げ、うろうろしながら視点を磨いていく「溜め」が必要なのだろう、と思う。

先日聴いていた『水曜どうでしょう』の藤村ディレクターの副音声に、
「ローカル放送局のヤツが視聴率をいいわけにするのは逃げだ」
という名言があった。視聴率はもっも重要な指標に決まっているけれど、そんな数字自体はなんでもないんだと。番組が続けられれば、自分たちのやりたいことがきちんとやれていることの方が大事なんだと。

経済成長や原発事故の収束、電力確保のための原発再開、貿易立国ゆえの関税撤廃、といった思考停止のためのキーワードに依存して解決策にしがみつくのではなく、徹底的に自分自身の初期的衝動に繰り返し立ち返りつつ、なお、グローバルなもの、人知を超えたものと向き合いつつ粘り強く考えて行動していく「意志」と「知力」が必要なんだろう。

そのためにはバカバカしいようなこだわりと遊びと愛が要るのだろうね。
北海道ローカルディレクターの言も、スティーブ・ジョブスの2005年の有名な講演の決めゼリフ「バカであれ」も、たいして変わりやしないのが笑える。

初期衝動と仕事への愛、そして他者評価を気にせず、失うことを怖れないで未来を信じる。

私は、私達はそういう場所に立てているのだろうか。
被災地で、さまざまなものにこづき回され、唯一豊かなはずの自然さえ奪われて正直よれよれの毎日の中で、それでも持ち続けるべき「初期衝動」っていったいなんだったんだろう?

そんなことを、小説の読めない身体で(再開しつつはあるものの)、考えつづけている。







ipad2を購入

2011年10月16日 23時04分12秒 | ガジェット
iPad2を予約購入。
例のSoftBankが展開しているキャンペーンの誘惑に乗ってしまった(^^;)

でも、iPhoneがクラッシュしたら死ぬ、と思いつつ、バックアップなんて毎日取る気にはならないし、壊れたとき修理するにしても買い換えるにしてもタイムラグは付きものだし、どうしたものか、と思っていたところにiCloudの発表。
ためしにiPhone4をiOS5にアップグレードしてみたら、5G無料なのに対してバックアップに必要なのは現状約3ギガ。

だったらこのiCloud環境を十分に利用し、毎月2千円の負担でwi-fiタブレットとしてiPad2を使えばお買い得じゃね?……となって、とりあえず予約をしてしまった。

まあ、ノートパソコンを見るのも少々おっくうになったばあさんのガジェットとしてとりあえずは使ってもらい、飽きたら私が下請けするという予定。

最近の自分のPC利用を振り返ってみると仕事の文書作成以外なら、タブレットPCで十分。

もちろん、別に無くても間に合う。iPad2で特に生産性が上がったりはしない。
楽しいガジェット好きは、一生治らない病気ってことだ。
でも、同じことをやるなら楽しい方がいいに決まっている。

ディザリング可能な他社製アンドロイド携帯に代えて、それとアンドロイドタブレットを併せ持つという選択肢も考えたが、今のシステムをそこまで変更する元気とメリットが見当たらなかった。

とりあえずはiPhone4&iPad2のiCloud環境で、次の世代のスマートフォンの標準が出揃うまでは様子をみようかと思う。

振り返ってみると、ソニー製のマックノートを8万円で購入して以来、ざっと15年ぶりのアップル回帰(iPhoneは電話ですから勘定にいれないとして)。

あのまま持ち運びできる軽量マックがあのころから連続してリリースされていれば、いろいろまた違っていたんだろうね。でもアップルのその路線は頓挫。ソニー製マックは1台だけで終わってしまった。

あれから私個人は、NECのモバイルギア、富士通のLOOKSにPHS通信カードの組み合わせ、NTTのシグマリオンなどで、この日を15年も待っていた。

モペラに行こうか迷った時期もあったが、そこはiPhone+Bluetoothキーボードで凌いだ。

でも、スマートフォンの画面と操作性は、文書作成にとってやっぱり我慢環境だったことは間違いない。

パソコン通信のホストを自分の押し入れで開設したのが25年前のことだ。
押し入れから手のひらまで25年。
ネットワークPCが、制約なしのフル画面でようやく自分の手のひらにやってくる。

まあ、やれることは蝋原紙と鉄筆、万年筆と原稿用紙の時代からそんなに変わっちゃいないとも言える。
当然のことながら、いい万年筆を買ったから、いい原稿が書けた、なんてこともない。

それでも、通信機能付きのタブレット端末は、30年に及ぶワープロ&PC生活の終着点、になるような気がする。


小説が読めなくて(5)

2011年10月16日 17時46分23秒 | 大震災の中で
さて。

読めない、読めないと呟いていたら小説の神様が怒ったのかもしれない。

震災前に買って積んであった
打海文三『私が愛したゴウスト』
を今日の午後読み始めたら、これが
「巻措く能わざる」
面白さ。

夜の飲み会までに、ノンストップで読了しちゃいました。

内容は伊坂幸太郎の解説を読まれたし(この本は中身を説明するのが難しいのです)。

石原千秋『未来の読書術』にあったパラテキストという概念を思いだしました。
何も情報がないままでは、人は本を選ぶ事さえできない。しかし同時にわかり切ったことを再任する水戸黄門的欲望だけで作品を手にとるわけでもないでしょう。
出会い方を考えさせられる一冊でした。
伊坂幸太郎が解説を書いていなかったら、果たして小説の読めないこの時期、ページを開いていたかどうか。

読めない読めないといいだしたってことは、再開したいって時期だったのかもしれないですしねえ(笑)

とにかく、小ぶりな感じがするかもしれないけれど、傑作です。

アイディアもさることながら(アイディアや状況設定だけを見ると、極端ではあるけれどそれら一つ一つが空前絶後の凄いオリジナリティってわけじゃありません。)、そのアイディアを広げ深めていき、その世界像と人間の「感じ」をうまくなぞっていってくれる手捌きは、小説でなくちゃ、そしてこの書き手でなくたゃできない事だと感じます。

結末も伊坂幸太郎の解説にもあるとおりびっくり鳥肌モノだけれど、いわゆる意外性のドンデン返し、と言うのもではない。
描写の力が、作品を規定している初期条件の衝動と、鮮やかに呼応しているところが(ベタで繋がってるんじゃないところがまたいい)、ピュアでクールで、しかも読ませるんです。

少年小説(児童文学的)でないこともないし(無論セックスシーンもあるからジャンル的には外れますがね)、青春小説的でもあるし(ただしこれはやっぱり単なる成長小説ではないですよね?),異次元トリップSF といってもいいし、ファンタジーといってもいいし、推理モノ的でもあるし、ミリタリー監禁ホラー(違いますが)っていえないわけでもないし、哲学的思考実験モノ的側面もないではない。

でも、ちょっと意地悪を言えば、そういう、ジャンルでしか小説を読まないヒトは、読まない方がいいかもしれません。もちろん、この作品が持つ「感じ」=異和感が言わせる意地悪なんですけど。

よろしかったらぜひ。






小説が読めなくて(4)

2011年10月15日 12時57分14秒 | 大震災の中で
さてではそこで自分は何を楽しみ、どういう快楽を貪ってきたのかって話になるのだけれど、勿論そんな大問題の答えなんて分からない。

分かるのは、何も考えずに済む手軽で知的なエンタメとして私の中で長いこと君臨してきた小説というメディアが、最近その王座を降りた、ということ、それだけだ。

一時期パソコンをいぢることが、趣味のようになっていたこともある。
そのパソコンを使って通信のホストを立ち上げるのに夢中になったこともある。
その延長で、毎月ローカルオフミを開いて片っ端から日本中のお酒を飲む会をやっていた時期もある。
仕事が面白くて、仕事がまるで趣味ででもあるかのように夢中になったことだってなかったわけではない。人並みには旅行も物欲を満たすお買い物もしないわけではなかった。

ソーユーことのすべてに、一旦外側から大震災が決着を着けてしまった。

大震災を主語にすると少しおかしい。

でも、「大きな主語としての大震災」の圏域の中に、私はまだ捉えられている。
そしてそのことに少し疲れ始めてもいる。
私は、空疎なことは百も承知で「私」を主語として立てて語りたいと思い始めているのかもしれない。

福島は、無条件には「私」が主語にはならないとこばの圏域、といっていいのもしれない。

無論年を取って目が悪くなっり、読むのが億劫になった、という面もあるだろう。

体力が下り坂になってきたところに大震災が重なり、慣れない状況が続いたせいもあるだろう。

端的に言って読書どころではない時期もあった。

しかし、夏休み近くなっても、読んだ小説は数えるほど。かといって物欲も高まってはいない。

大震災以後、記憶に残っているのは『日の名残り』カズオ・イシグロ
一冊だけだ。

その代わり、哲学はぐっと親しいものになった。
昔から小説と哲学書、それに社会学の本は好きで読み続けているが、バランスが明らかに変わったのだ。

他には、聖書とか、日本の古典とか、とっくの昔に死んだヒトの文章が読みたくなっている。

そして最近の口癖は
「山に穴掘って暮らしたい」
である。

かといって
「大震災が苛烈な現実をみせつけた」から小説なんてバカバカしくて、というのでもなさそうだ。

大震災と原発事故に圧倒的な衝撃を受けたのは確かなのだけれど、それと同時に極限的な空無感もそこには伴っていて、だから、いっぺん地面の底の底から思考を始めないと、フィクションが構成される事象界までたどり着き直せない、みたいな。

この半年は少なくても
「読めば読めてしまうような」小説の出る幕が、私にとってはなかった、のだ。

読めない場所としての福島に瞳をうばわれ続けている、ということでもあるのか。

12月には別の会合の小説レポートの分担になっている。
しかし、相変わらず小説は読めない。さて、どうしたものか。

小説なんて、たった今読むのを止めてもなんの不都合もない。

でも、読めないことが気になりだしたら、その読めない読めなさを、読んでみたくなつたりもする。不思議なものだ。

とりあえず、先週はエンタメを二冊読み、DVDを三本観た。
『下町ロケット』と『絆回廊』『Xメンファーストジェネレーション』『ウルヴァリン』『ハリー ポッターと謎のプリンス』

面白かった。
だが、その面白さを「今」と繋げる回路が見つからない。
そうか。

何かを読み、それを表象として論じるというのは、「今」「ここ」とどこかなにかで繋がっていなければ面白くないのか

「山で穴掘って一人で暮らしたい」

が最近の口癖になっているけれど、友人がいく人か、現状から隔離された「生」を暮らしていて、事情は様々異なるけれど、やっぱり私からみて幸せには見えない。
あくまでも、今とヒト、ここでおこっているコトに触れるための「ここより他」なのだと分かる。

だとすると、現実に触れ、その事象を分かるために担保していた小説という枠組が私にとって無効化しているということは、小説を追いかけてもしょうがないってことになる。
むしろ、小説から離れて事件=コトの現場をウロウロするしかないのかもしれない。

ヤレヤレ。
面倒はずっと続くということか。

さて、小説が「事件」であるための準備を、私が小説のためのためにする義理はないし、そんな能力もない。
だいいち何をすればいいのかわからない。
とりあえず小説を読まなければいいのか(笑)
意味が分からない。

しかし、最近受けた恩義を返すことは必要だ、とも感じてはいるのだ。
いつまでも元気なわけじゃないからね。

読めなくなった小説に、かつての恩義を返すには何をすればいいのだろう。









小説が読めなくて(3)

2011年10月15日 11時24分48秒 | 大震災の中で
そこでようやく気づいたのは、世の中の人はずっと前から
「小説を読む」
なんてまどろっこしいことはしていなかったのかもしれない、とい現実。

さらにそれを
「現代文学研究」
とかいった形で「読む」なんてことは、まあどこかの大学の学生や研究者は今なおやり続けているのだろうけれど、そんなスタンスで小説を読む人自体、私の周りには誰もいないわけで。

周りにいないのは昔からだからいいとしても、私の中の小説を読む行為自体が、いつのまにか何処かに消えてしまっていて、自分の中のどこを探しても小説を読むオプションが見当たらなくなっていたことが驚きだったのです。

もともと研究を深めたいとかいうつもりはあんまりなくて、小説は若い頃から国語教師として半ば仕事でもあり、「お勉強」の対象だったこともあったけれど、とにかくなによりも小説を読むこと自体が楽しみで、エンターテイメントからひねくれて意味の分からないものまでジャンルを問わず様々読んではああでもない、こうでもない、とその表現と向き合うこと自体が「快楽」だった。

かつては、ね。

毎月一回集まっては読書会を開き、メンバーと小説を読み続けることを15年ぐらい続けていたりもした。

「面白さの秘密を分かりたい!」

が基本スタンスだったのだと思う。

そしてまあなんだかわからないけれど、「表象」として文学を捉えるっていう研究の周辺をうろうろしてきたような気はする。

その範囲では哲学も社会学も文芸評論も読めてはいたわけです。

以前は、ね。


小説が読めなくて(2)

2011年10月15日 10時55分09秒 | 大震災の中で
たった今、本の購入を一切止めても、10年以上未読の本を読み続けられるぐらいの量の活字はある。

いや、別に本棚の本などなくてもよい。

ネットで青空文庫にアクセスすれば、死ぬまで読む本には困らないだろう。スマートフォンなら寝転がったまた片手で読めるわけだし。

さてではなぜ本が読めなくなったのか?

今週風邪で二日ほど寝込みながら改めて考えた。



小説が読めなくて

2011年10月15日 10時47分40秒 | 大震災の中で

<大震災以後を生きる(34)>

最近めっきり本が読めなくなった。
特に小説が読めなくて困る。

別にそんなことぐらいで困ることもないだろう、とも思うが、今まで基本的な「快楽」だったコトを失うのは正直痛い。

そしてモノではなくコトを失うのは、自分にとって「由々しき」事態でもある。

これはもしかしたら心が病気になっているのかもしれない。

あるいはこれが
「大人になる」
ということなのか?とかいうトンチンカンな期待(不安?)すら抱く。

とにかく今一番の関心事は、
「小説が読めない」
ことなのである。

かつて国語教師の先輩かが「年を取ると小説が読めなくなる」
としみじみ述懐していたのを思い出す。

失礼で生意気だった私は、神妙な顔をして話を聞きつつも
「それは要するに知的怠惰ってことでしょ」
と思っていた。若気の至りだ。吉田センセ、すみません(>_<)

さて、それから30年。毎月小説を読むという「読書会」を止めて10年以上。

自分がそういうことになってみると、気持ちが小説を読む方向に向かないのだからどうにもこうにも仕方がない。

三連休中、書庫に溢れた未読本(過半は小説です)の一部を整理しながら暗い気持ちになった。


見間違えや読み間違え

2011年10月12日 22時55分00秒 | 大震災の中で

宣言が寝言に
わかき歯科がわきが歯科に
たまごクラブがたこクラブに

最近見間違えや読み間違えが増えている。

物事の認知には、それなりの蓄積が前提となるだろう。その蓄積によるパターン化は、私たちに世界像受容の速度と安定感をもたらしてもいるはずだ。
しかし、それが「見たとおり」より、「思い込み」優先になりはじめているとしたら?

他方、以前はよく分からなかったことが最近「物事が分かってきた」という実感もある。以前は全く読めなかった古典や哲学書が、ぐっと身近に感じられるようになってきた。
たしかに、土佐日記を読んでも花伝書を読んでも面白い。
あの退屈だった徒然草やグダグダでとてもじゃないがまじめに読む気がしなかった蜻蛉日記でさえ、しみじみ読み味わえるようになってきた、と思う。

でもその根底に
宣言→寝言
わかき→わきが
たまご→たこ

といった恣意的変換があって、幾分かの焦点ボケを前提とした都合の良い「理解」が進んでいるだけではないのか、という疑念も増してくる(苦笑)。

目が悪くなって活字や看板が見えなくなっただけ、なら構わない。

が、外部情報を正確に把握できなくなった結果としての都合の良い勘違いが、「発見」と「理解」を錯覚させているのだとしたらいささか滑稽でもあろう。

でもまあ。

そういう「スリップ感」のある「理解」=「誤解」も悪くないのかもしれない、とも思い始めている。

私たちの精神は仮に神様から与えられたモノだとしても、別に神様のようにすべてが分かるようにはできていないのだろうし、考えてみれは「全てが分かる」っていってはみても、別にそんな人格神がどこかにいるわけでもないだろうし。

むしろ臨界面の「摩擦」をリアルタイムで感じながら、ってのが世界を生きるライブ感覚なのかもしれない。

違いを測るという行為は、こちらが基準値を持っているということにはならないし、他方、一つの体系の構造から別の体系の構造にジャンプすれば、結局「内部」を生きることに変わりはなくなってしまう。

そのあたり、言いまつがいの周りをうろうろしてみたくなる。

スリップ感のある「溜め」
の存在は、外部に感応するための大切な「場所」の確保なのかもしれないし。

無論、ただ反応速度が鈍くなり、現実の変化に対応できなくなった「遅延」の結果にすぎないのかもしれないけれども。