龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大震災以後を生きる(20)

2011年07月25日 01時26分43秒 | 大震災の中で
双葉郡楢葉町長の東京電力第二原子力発電所稼働により5000人の雇用を、というインタビュー記事を読んだ。

http://www.news-postseven.com/archives/20110724_26396.html

切ない記事である。開沼博氏の「フクシマ」論が指摘するように、原発推進の中央の動きである原子力「ムラ」に呼応した、立地自治体の原子力「ムラ」の存在様態を抜きに、原発行政全体は把握できない、ということだろう。

沖縄が米軍基地を抱えていることから、それに伴って落ちてくる「投資」や「援助」に依存することで自立が妨げられてきたように、原発立地地区は、いわば中央の「植民地状態」におかれて、あたかもプランテーションのように(沖縄が日本全体に軍事的安全を提供しつづけたように)、電力を首都圏に提供し続けてきた。
しだいに各地で反対運動も高まる中、新規立地が不可能になっていった結果、「電源開発植民地状態」になっている双葉郡の二カ所に、原発が密集して建てられることになっていった。

それは、「地元も望んだこと」になっていった歴史でもある。最初は強硬な反対派だった活動家が自治体の首長になった結果、原発誘致に「転向」する、という実態もあったという。
地元のために「反対」だ、という立場は、地元の経済的振興のために「推進」だ、という立場に実は「交換可能」だ。
その「転向」は、「地域のため」に何をするべきか、ということを突き詰めていった時に出された答えだからだ。

一方でそこには、周到で徹底的な交付金や有形無形の行政政策でがんじがらめになっていく「貧乏自治体」の現実がある。

中央と地方の「イコールパートナー」を目指した唯一の知事は失脚していったわけだし(理由は分かりませんが)。

東京電力第二原子力発電所稼働により5000人の雇用を、という楢葉町長の意見には、私は「都会」の反対派としてではなく、同じ福島県民として反対だ。

現実に原子力発電所の利権や雇用が、従前通りに復活する見込みも少ないだろう。
双葉町も意見が二分している、とも聞く。それが現実だろう。
日本中の意見が、とりあえずは「二分」している、とも言えるのだから。

だが、「脱原発/原発推進」という二分法にかけられている状況定義力の「圧」は、事故以前ほど強くないのではないか。

私達は、これほどまでに住民の健康不安をもたらし、福島県を中心とした東日本の放射能飛散による被曝の現実をもたらした原発事故の重大性を考えれば、再稼働に慎重であるべきだし、福島県の住民としては、もはや稼働という選択肢はあり得ないと考える
。楢葉町の5000人の雇用の問題以前に、200万県民の雇用や経済の壊滅的打撃を、「ムラ」の論理としてではなく楢葉町長は考えて発言するべきだった。

「どこかで反対派が現実を見ないで遠いところで騒いでいるだけだ」
というニュアンスの町長の発言は、3/11以後、相当程度リアリティ失っていると思う。

再稼働の雇用よりは、廃炉のための後処理の雇用を拾っていくのが現実的、なのではないか。

楢葉町長には、東京都民1200万人を味方に付けて電力供給を声高に訴える、という意識もあったのかな?

いや、たぶん避難したまま雇用も失われ、地域事態が崩壊していくことに対する強いいらだちがこの発言をもたらした、というべきなのだろう。

「あんなに協力してきたのに」

それは、日本中の「ムラ」で呟かれている「植民地」の「恨み節」なのではないだろうか。
大多数の無関心と、政府・東電の利益による誘導との狭間で、貧乏な地方が「地域振興のため」と原発という毒饅頭を食べてしまった、その結果がこの事態、でもあるわけなのだろう。

津波の被害による遺体も高線量で収容できない、というニュースもあった。

地元自治体は幾重にも痛めつけられている。
だから「原発立地にYesを言った愚かさゆえ」、「利益を得たのだから」という2ちゃん的非難はちょっと不公平だし、問題を矮小化してしまうと思う。
ただ、「第2原発の再稼働を」というのは、やはり「ムラ」の論理に傾斜した不用意な述懐、と言わねばならないのではないか。楢葉町長の言葉もまた、現実を「ムラ」の論理の範囲内に「縮減」してしまうことになる。

NIMBY問題を引き受けるのはいつだって中央に比して相対的に「貧乏」な「国内植民地」だ。決して都知事や府知事がざれごとを言ったとしても、原発は都や府の中に作られることは未来永劫ないだろう。だって立地条件に最初から人口密度が低いことってあるはずだものね(万が一を心配して?笑わせるわ)。

町長の発言が切ないのは、その「国内植民地」の「自負」が「首都圏に電力を供給してきた」という「矜持」として示されてしまっている点だ。事故が起こるまで供給を受け続けてきた首都圏はそんなこと見向きもしていなかったんだけどさ。

この、また言葉は上品ではなくなってしまうけれど、「国内植民地」的な現実を踏まえて考えないと、中央の「原子力ムラ」と地方の「原子力ムラ」の関係は読み解けないし、それが見えなければ戦後の経済成長も見えてはこない。「特需」=国外の戦争の問題も見えてはこないだろう。

もちろん、「敢えてその地方と中央の落差を徹底的に消費し尽くす」、という立場もあり得るのだろう。しかしそれはもう、私達が「仲間」であることを根底から掘り崩すことになる。そして、同時にそれは、私達の「倫理」の可能性を寸断していくことにもなるだろう。

たかが原発というなかれ。
ただ危険だから全部止めろ、という「生命の価値の侵犯」に怯える価値観からばかりではなく、原発はそういうポストコロニアル的な視点からも、考え直すべき時に来ている。

ムラ的共同体を超えた「公共性」はあり得るのか?
どんなに困難であっても、その疑問にYesと答えたい。そのためにこれを書き続けているのだから。
原発の再稼働を求める「ムラ」の利害を代表する「長」の言葉を超えて、何を語るべきか。

原発依存じゃなくて飯を食えるシステムを必死に考えなければならない、ってことだよね。
それを必死に考えないことで原発利権(とリスク)を温存しようとする立場に対抗するためには。

でも、というかそして、というか、立場同士の戦いじゃないところに持って行きたいんだな、たぶん。
立場に対抗する立場っていうんじゃ、きっとダメなんだ。

単純に無前提に「脱原発/原発推進」という二項のどちらかに立ってしまっては、どっちにしても世界を縮減してしまう。
そういう見せかけの二項対立で状況を定義するのではないやり方を、探っていきたい。
ふぃぃ。反対なんだけどさっ。

この項もさらに勉強せねば、です。








福島から発信するということ(21)

2011年07月25日 00時08分18秒 | 大震災の中で
7月23日(土)21:00~22:15NHKスペシャル「飯舘村~人間と放射能の記録~」を観た。
ご案内の通り、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故直後は村民にその高濃度放射能汚染を知らされず、最初は行政側の「大丈夫だ」という虚偽のアナウンスによって被曝を受けた挙げ句に避難を要求されることになった福島県の村のことです。

その100日間のドキュメントは、淡々と語られて行きますが、随所にあり得ないシーンが出てきて、なでしこジャパンのドイツ戦や決勝戦で流れた涙とは全く別種の涙を止められませんでした。
いくつも辛いシーンはありましたが、個人的にどうしても未だに許せないのは、文部科学省の飛散放射線量計測が始まっていて、高線量を測定していたにもかかわらず、そのお役人たちは、現場の村民達にその測定した線量を当初公開しなかったという箇所です。
無論、彼らは命令されて、仕事で飯舘村で線量測定をやっていたに違いない。
部分的スポット的な線量測定を、自由に公表できる権限はおそらく与えられていなかったのだろう(もし公表権限があったのにそれを公開しなかったら、その時点で犯罪者だと私は考えますが)。
村民から要請があってから1週間ほどしてデータが公開され始めるのだけれど、その3月下旬の時点でも60μシーベルト/時ほどの線量があったという。
最初公表を拒んだ時点では90μシーベルト/時間ほどの線量も測定されていたのだそうだ。

どうなんだろう?そこで測定していたお役人たちは素人じゃないはずだよね?
普通人間なら、情報の公開を許可されていたかどうか別として、即刻その線量を住民に知らせるべきだろう。
もっと推測すれば、「混乱を避けるために公表を禁止されていた」のかもしれない。
でもさ、だからといって黙って日々線量測定だけをやっているようなヤツは、たとえに品がないのを百も承知で敢えて言うけれど(自分も公務員だから、そういう場面をいつも想定しながら仕事をしているので厳しくなってしまうのかもしれないけどね)、それはユダヤ人をガス室に送れば全員死ぬと分かっていながら、命令だからといって送り込んだナチスの下っ端役人と一緒だよね。

NHKのナレーションが、その線量は屋外にいれば半日で年間許容量に達するものだった、とかぶせられていた。

「私見ですが、こりゃやばいですよ」
と、それこそオフレコでもいいから、言うべきだったと思う。
それがたとえ多少の混乱を招いたとしても、自分の上司の命令を守って仕事をする、なんていうのは「私的な仕事」に過ぎない。
ここのところ、ちょっと前までの私と同様、日本人は勘違いしているヒトもおおいけれど、仕事なんていうものは、自分が生活のために選んだモノに過ぎず、人間としての倫理からいえばずっと下の「私的行為」に属するだろう。
自分の倫理に悖る行為を強要されたら辞職すればいいだけのことだ。

いや、現実的にそれが出来る場面だけじゃないのは分かります。

人間は弱い。心ならずも自分の「倫理」をねじ曲げられてしまうことは多々あるに違いない。
でも、それをどこまで「心ならずも」でいるのか、は、なおいっそう強く問われるべき「倫理性」だろうし、そこにこそ真の「公共性」の可能性が賭けられているのだと私は考えている。

「仕事だから」というのは実は「ムラの掟」に過ぎないあくまで「ローカルなルール」だ。そういう意味で「私的」なのだ。
「普遍的」「公共的なるもの」は、その向こう側にある。
私が繰り返し「初期衝動」とか「神様」とか「コナトゥス」、へたくそなスピノザ理解の中でここで繰り返しているのは、その「普遍性」「公共的なるもの」にアクセスするための内的契機として考えられることは何なのか、ということについて考え続けているそのプロセスででてきたフック、切っ掛けなのだ。

「動物的/人間的」という二分法が当てはまるかどうか分からないけれど、ここは「動物」として生き延びるために「知性」を使う以外に、「生きる力能」を使うべきシーンはないはず。

文科省の「計測すれど公開せず」の原則は、浪江町の赤宇木地区の高線量測定値の時にも貫かれていました。

ここは、どこまでいっても徹底的に追求するべき「お役所仕事」の究極だと思うんだけれど、いかがでしょう?

役人に架空インタビューをすれば「そう命令されていたから」と答えるだろうことは想像に難くない。またひどいたとえを使ってしまうけれど「アイヒマンかっ?!」て話だよね。もしそういうファシズム体制下のナチスのような行為でないとするなら、声を出して弁明すべき責務が「公共的なるモノ」の存在に照らして、飯舘村で線量測定をやっていたお役人たちには存在すると思うよ。

「仕事でやっていただけだから、言われても困る」
あるいはなに一つひるむことなく
「仕事でしたから、命令でしたから」
と言うのだろうかね?

これ、悪いけど本当に真面目に興味があります。
「上官の命令は絶対」
という軍隊じゃないんだからね。だって、住民は「敵」じゃなくて守るべき「味方」なんだから。だよね?そうだよね?それとも、お役所はお役所自身の「ムラ」の掟だけが「味方」なんだろうか?「命令」だけが絶対なんだろうか?
人間だったら、しかも3月15日の爆発以降は、具体的データなんてなくても普通の市民なら「やばい」ことぐらい分かっていたよ。

繰り返すけれど、この線量測定だけをやっていたお役人に、誰かジャーナリストは取材してくれませんか?
「ムラ」の論理でそうなっちゃったのか?
それとも何か別の論理が働いているのか?
飯舘村の問題は、実は情報の公開速度の問題だからね。
IAEAの測定が入ったときでさえ、行政は「測定の基準が違うから」と意味不明なコメントを出したのを記憶している。
現実の対応はいろいろ手間暇がかかるけれど、情報の公開は、「意志」と「知性」によって制御可能。
それに命や権利が大きく大きく関わっているとするなら、末端で「沈黙」を守った役人にも責任はある、と私は思う。

オフで語るやり方だって、いくらでもあったはずなのに。
そりゃあとで処分の危機はあるかもしれないけれど、事態の重大さを考えれば、地位保全だって可能性は高かったと思うなあ。
私はこの番組を繰り返し観ていて、どうしても役人の脳みそを繰り返しシミュレーションして悩んでしまうのです。

村民の悔しさや絶望、尊厳、怒り、不安といった情動性については、多言を要しないでしょう。それは見れば分かる。


とにかく、誰も(世界中の人々)が必見の番組だったと思います。