龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

「汝自身を知れ」ということ(1)

2010年06月30日 22時15分53秒 | 身体
「汝自身を知れ」ということ

自己の身体に対する顧慮、など、若いときには考えもしなかった。

「養生」は明確に「老人」の必要悪にすぎない、そう思っていた。
死ぬときはあっさり死ねばいい、そう思ってきた。

つまり、精神=認識=時間超越的/肉体=顧慮(顧慮の他として)の対象=時間従属的

って感じで、頭の中や気持ちの中で追いかけるものだけを追いかけていたい、そう思ってきた。
むろん、玩具としての「モノ」に執着したり、ダイエットというゲームの対象としての「体重制限」などは繰り返し行ってきたことだ。

けれど、そういう二元論の中で、頭の中のこと優先で(欲望全般も、身体からではなく、頭の方優先で生きてきた)生活してきたような気がする。

「汝自身を知れ」っていうのはデルフォイの神殿に刻まれた言葉の一つとかいうものらしい。
数年前にフーコーの講義録の冒頭、そのあたりをぐるぐるミシェル・フーコーが書いていたのが印象的だった。
キリスト教以前のギリシャ哲学における「自己への配慮」と、キリスト教の禁欲的な「自己抑制」、そしてデカルトに至った「真理への欲望」=「精神優先」までを、西洋の哲学における大きな大きな流れの中で捉え直そうとする試み、なのかな。
(あまりよく分かってはいません、いつものことだが)

改めて
「汝自身を知れ」
について、最近考えている。
病気を治す、という現実的な要請なんだけれど、これがどうもうまくその「物語」に接続できないのだ。

自覚症状のある病気と自覚症状のない病気と二つの科をいったりきたりして検査と診察を受けながらカントの空間と時間が人間にとって決定的な二つの純粋直観だ、なんて本を読みながら、「自己の身体に対する配慮」を治療者から求められると、もちろん自分の身体なんだけれど、その身体に自分自身が隔てられていることをつくづくと感じてしまう。

いろいろとこのあたり、考えてみたいことがあります(この項ずっと続きそう)



サッカー日本代表の決勝トーナメント進出を言祝ぐ

2010年06月28日 20時19分14秒 | 社会
サッカー日本代表の決勝トーナメント進出を言祝ぐ

サッカーW杯日本代表が、見事に決勝Tに進出を果たしました。

期待されていない(むしろ辞めろ、みたいな)中での「快挙」に、私の中の「日本人」はぐっときてしまいます。

マスコミは売れればいいので、落としたり上げたりが忙しいのもしょうがない。

でも、期待されていなかったチームが試合のたびにぐんぐん成長して初のベスト8を狙う、のですから、落ち着いて応援してあげたい気持ちです。

以下、サッカーの素人の感想。

へえーっと思ったコメントが二つあった。

一つは岡田監督の話。
「南アフリカは冬だから、走るサッカーができると思った」

っていうのに「へー、なるほど」と納得した。
かつてみていた代表のアジア予選は、最後バテてひっくり返されるシーンがたくさんあって、だから
「守備っていっても最後はやられちゃうんじゃない?」
と正直頭の片隅では思っていた。
むろん、涼しいから大丈夫、ってほど単純じゃないのは素人にも分かるけれど、走りきれる「根拠」を明快に示されて、胸のつかえが取れた感じだった。

二つ目は村上龍のコメント
「日本は、勝っていても負けていても、2点差で勝っているようなサッカーをする。まるでそれがもう日本の伝統であるかのように」

こちらはふーん、と唸らされた。
つまり、ボール回しは上手だが、点を取りに行かないといけないときの「怒濤の攻め」はなんだか感じられないね、ってことだろう。

どちらも納得。

ともあれ、明日は無心に応援します(^^;)


社長の報酬公開の流れ

2010年06月23日 21時49分38秒 | インポート
今日のニュースを見ていたら、一億円以上の役員報酬を得ている人の金額が公開されていた。
自分の生涯賃金の何倍もの報酬を一年で手にする勤め人、というのは想像の外だけれど、遺産とか資産の相続よりは納得できるかな。
社長とかは運と能力とチャンスだからねぇ。


もちろん教育とか就職とかだって親のストックに大きく左右される。
けれど、まだ本人の力、みたいな部分もあり、また本人が大きな責任を背負って仕事をしてることは間違いないし。

あとは公共的なるもの、に対する感度の高さ、低さ、が割と問題。
大企業の経営者の給料がプライバシーだ、とか簡単に言ってしまうどこかの社長(テレビに出てた)は、センスないなあ。

でも想像の外にしても、年3億円(宝くじ)以上は日本的にはなんかぽかんとするね。
たぶん自分の上司だって1000万いってないぐらいだとすると、その30倍を越えると、個人の仕事の密度としてほんとに妥当なのかどうか。

仕事の規模からいえば平社員の何百倍でもいいけど、人間の能力は、仕事の規模に比例するわけじゃないんじゃないかな。

ま、経済の話だからわからないけど、会社トップの給料を決めるのがそのトップ自身だとすると、今いち納得はしにくいかなあ。

スポーツ選手は記録や成績だからいくら高くても納得だけどね、その人しか絶対できないんだから。
経営者の能力って、どうなんだろう。
ビルゲイツとか、スティーブンジョブズとかだったら高くても納得ですが。

実のところ、自分の給料が本当に妥当なのかどうか、わからない。
あるいはこの倍が妥当なのか、もしくは半分が正当なのか。

しかし専門職が30年働いて控除後の金額550万強。どうなんだろうね。
そんなに専門性があるのかって言われると「?」だし。
そりゃあ新人さんよりはたしかに力があると自分でも思う。
でも、専門性なんて、所詮状況によるもんなあ。
適応力を失った専門家ほど始末の悪いものもない。
経験を状況に応じて生かす「力」があるかどうか。人間力次第、なんだろうね、結局。

社長も同じか……〓
今は、経験を積んでも給料は下がり続けてるから、仕事があるだけ有り難い、と思うべきか。

いや、力があるなら、堂々と評価を求めるべきだし、ポストを求めるべきなのかもしれないね。

これからは、そういう方向と、逆に評価や対価を敢えて求めないか、二極化するのかな。

私はむろんそろそろセミリタイアしたいクチ、ですが(笑)。


梅雨らしい雨だ

2010年06月23日 11時25分38秒 | インポート
ほんの向かい側の丘でさえ、細かい雨粒のベールに隔てられて薄ぼんやりと見える。
雨樋を伝って落ちる水の音だけは威勢が良いけれど、地面はしっとりと濡れていて、表面に打ち付けるほどの雨足ではない。
梅雨(つゆ)という言葉を持たなかったら、やはりこれも温帯モンスーンの「雨期(いや雨季か?)」とでもいうことななってしまうのだろうか。
いや、それが悪い、というのではない。

でも実際ははっきりときめにくく、後から気象関係者が宣言しなおしたしする程度の「入梅」や「梅雨明け」だとすれば、それは気象現象であるだけではなく、私たちの世界に対する姿勢、作法、態度の問題でもあるだろう。

8月も半ばなってから「実は梅雨は何日まででした」
とコールされるぐらいなら、最初からそんな宣言は要らないよ、と、忙しい朝のニュースに文句をいってしまいがちだ自分はたしかにあるにしても、ちょっとゆとりを持って考え直せば、やっぱり「時候の挨拶」
ほどの儀礼的硬直性を煙たく思うよりは、やっぱり何時梅雨があけるのか、日本中で話題にしてもよいのかもしれない。

そういえば、山菜が最近好きになったのと同様、手紙の「時候の挨拶」も、若い頃より抵抗が少なくなった気がする。

そういえば若いときは、なんでも「自分」だった。麦秋(ばくしゅう)だの啓蟄(けいちつ)だのと、ふだん使いもしない言葉で紋切り型の定型文を連ねる人の気が知れない、と思っていた。
だが、そういう思いが消えたわけではないが、そういう、自分からみた「世界の開け=開闢」の限界から外に配達されるべき「手紙」に、定型の殻が伴っているのは、ある意味当然なのかもしれない、とも思うようになった。

こうやってぼんやり物思いにふけっているうちに、見えなかった向かい側の丘が、うっすらと窓の向こうに輪郭を現してきたようだ。

この梅雨を、千年前の中古の人もおなじように「ながめ」ていたのだろうか。



いわき市湯本の「いわき長持」というお菓子

2010年06月20日 21時00分31秒 | 
「いわき長持」という地元のお菓子のこと。

以前一度、知人に頂戴したことがあって、美味しいお菓子だとは思っていたが、地元にもかかわらずその辺のお店やさんには
おいてない。

街中をざっとクルマで二、三度流してみたが見つからない。HPには書いてあるのだから、店舗があるはずなのに。
仕方がないので駅前の駐車場にクルマを止め、歩いて商店街を回ってみた。雨の中で傘を差しながら、静かな夕方前の温泉街の駅前商店街を歩いていると、通り過ぎてしまいそうになった小さな間口の、「角田屋」という菓子舗がようやく見つかった。

中にはいると、目当ての「長持」が積んである。日持ちは、と尋ねると「三日」だという。
こちらが迷っているのを見透かしたのか、店の主人が
「食べる分だけ買ってください。」
という。また食べるときには店に買いに来い、ということだろう。

数センチ角の小さな舟の中に焦がした黄粉をまぶした小さな羽二重餅が3つ。
それにお弁当のソース入れのような小さい容器に黒蜜がたっぷりはいっているものがついている。

私がなおも迷っていると
「いやね、賞味期限を延ばして大規模に展開するっていうことは、そりゃ私だって考えたよ。」
と店の主人が語り出した。
「でもね、菓子屋にはそれは大きな誘惑なんだけど、間違いなんだなあ。今は流通も良くなってるから、北海道とか首都圏とか、出そうと思えば出すことは不可能じゃない。でもね……」

このお菓子に関しては、説得力があった。13年前に一度もらって食べたお菓子を、また食べたいと思って街を歩いて探す、ぐらいのレベルには「力」のあるものである。全国、とはいかなくても、脱酸素剤とかを入れて、固まらない添加物を入れれば、餅系のお菓子は基本的に日持ちを伸ばすことは、他に流通している商品からいっても可能ではあろう。

「でも、赤福みたいになっちゃしょうがない、ってこと?」
と水を向けると
「自分がやってることを見失っちゃあダメなんだなあ。300年も前からこの土地に住んで、菓子屋の看板挙げて160年。いい加減な仕事はできないよ」
とおじさんは語った。その語りは、客にオリジナルな商品の価値=うんちくを語る、という営業トークの意味もあるのだろうけれど、幾分かは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

もちろん、客は、そういう物語も好きだ。
いや、どこでもいつでも買える、という「利便性」ときっかり同じ「強さ」で、希少価値とこびない職人魂の「物語」も欲望しているのかもしれない。

「私はお客の舌は信用しない。自分の仕事をしていくしかないんだ。」

と最後に8個入りの「いわき長持」を渡しながら結んでくれた。

その言葉は、顧客に対する不信、とは聞こえなかった。お菓子という「商品」それ自体にしても、付加価値的な「物語」にしても、それらは「流通」する中で「力」を発揮する。
そういう眼前の具体的な鮮度と味をもった食べ物以外のことがらに、足場を置かない、ということだろう。

買ってきたお菓子は、13年前と変わらずに美味しいと感じた。
また、食べたいときには、駅前にクルマを駐車して、歩いて店舗までいくことになるのだろう。
どこか遠い親戚への手土産に持って行こうとするときには、その日の朝、お店に寄って買ってから出かけることになるのだろう。

美味しいものは、そういうのがいい。



今まで、いかに無駄な力を使っていたか

2010年06月06日 19時47分04秒 | インポート
ノドを痛めたので、ささやき声でしかしゃべれなくなった。
ところが、なんと驚いたことに今までのような大声ではなくても、話はほとんど相手に通じるらしい。

今までなんと無駄なエネルギーを、発話に関して浪費してきたことか。

少々びっくりした(笑)。

なるべく不要な会話をしないようにすると、気持ちが心の中で妙に落ち着き、無駄な動きがなくなってくる。
武道じゃないが、心の手さばき、足さばき、つまり心の「身のこなし」が無駄ない動きになってくるのだ。

不思議なものです。

もっとも、人間はどんな状況にも慣れる。
一時期子育てから離れて単身赴任したときには、夕方から就寝時まで、毎日2,3冊づつ本が読めた。
しかし、そんなペースは結局1ヶ月足らずしか続かず、いつのまにか「なんとなく」日々を過ごすようになっていく。

そんなものだ。

何かをしたいと思ったら、凡人には外部からの「圧」が必要だ、ということだろう。

ただし「外から」の「圧力」といってもこれが微妙で、カントさんじゃないけれど、「道徳」を自ら「選ぶ自由」ってのが要諦なんだよねえ。
「強制の釘は自分で打つ」
ってこと。

神様の存在証明も、近世以降、信仰を前提として「一者」から降りてくる中世のやり方じゃなくて、こちら(人間個人の)側から要請され、「必然性」を証明証明する形に変わっていくのも故なしとしない。
神様いないって考えるのは簡単だけど、普遍性をどう担保するのかっていうのはやっぱりついつい考えてしまうものなあ。

公共性と個人っていう見せかけの対立を「超え出る」というか無効化するというか、そのあたり、たしかに鍵になりますのお。


ノドにポリープが出来た

2010年06月03日 18時54分38秒 | 身体
声がかすれてしばらく直らないので、耳鼻咽喉科に行って内視鏡で覗いてもらったら、ポリープが出来ていた。

まあ、職業病みたいなものだが、気分はよくない。

放っておいてよくなるなら放置しておきたいのだが、現実に日常業務の支障があるる(声が十分に出ない)現状を考え、紹介状をもらって手術の予約を取りに行くことにした。

まったく、身体っていうのはままならないものだ。

老若を問わず病気にはなるものだけれど、さほどのものでない限り、「普通」は(何が普通かってはなしだけど)回復を期待できたりもする。
しかし、加齢とともに、回復ではなく現状維持、いやいや水準を下げてなんとか低空飛行を、と次第になっていかざるを得ないのだ、と実感しはじめている。

中島義道が「人生を半分だけ降りる」っていう処世訓的なものを書いていたが、その路線、「あり」だな、と思う。
いや、病気だから「降りたい」という単純な落ち込みだけではなく、一斉蜂起というか、じわじわいろいろダメになるというか、単純に「衰え」を実感させられるのだ。

脳みその働き方も変わってきているし。
ただ、そちらの方は必ずしもダメになっているだけではなく、脳みその働きは腐りかけが美味しいみたいに最近眼から鱗の連続なんですがね(苦笑)。

それがたとえ脳みその短絡現象の始まりだとしても、花火がぱあっと虚空に火を連鎖的に広げて散るように、今までどれほどのネットワークを構築してきたか、が問われることなのだと思う。
年を取るのも悪いことばかりじゃない、とは間違いなく言えるよ。
持っていた疑問の数だけ、瞬間、あり得るべき道筋が、脳の中の迷路の向こう側まで光を指し示してくれるみたいだから(本当かね……)。



鳩山首相が辞任した

2010年06月02日 22時08分39秒 | インポート
鳩山首相が辞任した。

「しろうと」の振りをもうちょっとしても良かったのに。
民主党は大敗するだろうけれど、それで全然かまわない。
もうちょっと時間をかけて何かをやる手はなかったのかな。

ただ、権力の扱い方って本当に難しいね。
正解を誰も知らないみたいで、そこは面白いけれど。
さて、では次の人は、次のシステムは、どんなことを提示してくれるのだろうか。

期待していいのかなあ。私はどんなに愚劣に見えていても、断固「政治」に期待したい。
ただそれが現行のような政党政治なのかどうかには、ほんとうに確信が持てない。
先日朝日新聞の論壇時評で東浩紀が、湯浅と対談した堀江、勝間と対談した西村を評価していた(ネットで圧倒的に支持されている、堀江&西村の「ちゃぶ台返し」的言説に対応できなければダメじゃないか、という意味で)が、なるほど、とも思いつつ、勝間さんと湯浅さんじゃ違うと思うけどねえ、とつい考えてしまう。堀江さんと西村さんももちろん全然違うしなあ。
むろん、敢えてするカテゴライズ、なんでしょうけど。

カントを読んでいても、(アリストテレス以来の?)範疇に感じてしまう「恣意性」(その分類はあんたの匙加減じゃんか?!)が、その後をまじめに読ませてくれない、ということが長く続いた。
たぶん、ぐるっと遠回りしてこないと分からないことがあるんだろう。

でもM政治文化とか、ネット文化とか、迂回している間に寿命が尽きてしまいそうだ。

そんなことに興味ないよ、っていう「ちゃぶ台返し」は、本当なら寿命が短い私たち中年にこそふさわしいのかもしれない、と思うのに、人間年を取ると変化がおっくうになるという悪癖もあるから、ただ「切れて」終わってしまうのかな……。

たぶん、「理性的」なものが作り上げる「理念」の「仮象」から自由になる、という側面と、理性を発動するそのそこの場所の「自由」行使能力の側面とを、どう切り結んでいくか、それを地面から立ち上げていくやり方の違いかもしれない。

何を「地面」なにを「ちゃぶ台」とするか、がこれまた難しいんだけどさっ。

小沢-鳩山が乗っていた民主党というちゃぶ台はひっくり返さないのかな。
かつて自民党の党首交代をコップの中の嵐と見ていた人たちは、今度の交代劇をどう見るのか。

もう少し「あぶりだし」の余裕が日本にあるなら、上手にぐずぐずできるのがいいなあ。
「余裕はない」
って脅すばかりの政治家もどうかと思うし。

でものんびりするだけってのは処世術にすぎないか、やっぱり。
「権力」について、もっともっと学習しないといけないというのは分かりました。

なんだろうね、内田樹に抱く違和感

2010年06月01日 23時50分16秒 | インポート
友人に送った内田樹への違和感メール。

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例えば、村上春樹を論じない、ってのが私自身のお作法だったし、身体論はあくまで「変態」の側から論じる、というのが基本的スタンスだったわけです。

村上春樹の作品が抱える明度の奇妙に高い
空虚=闇
の強度は、「個」の発する声では十分にはなぞれないと思うから。

内田樹がそうでないやり方で語るのはむろん構わないんだけどね。

語り出す前のもののほうが共有できている気がしてくる、とゆうのかな。


また、正直、彼が武道で語っていることとかは、私が軽量オープンスポーツカーを運転するときの快楽なんかとすごく近いものを感じるのです。
ただし、私にとって垂直性、硬直性を持った領域の話になると、内田の武道の語りは、「うまい話」、身体の利く人の話にすぎないような気がして、ふっと離れます。


たぶん、不自由さの領域への入り方と出方が違うのかもしれない。

貴方が集会で生徒にいったようなことを、最近私は授業で臆面もなくいってます(笑)。
役割としてフィクション化してるから平気。

たぶん私は身体論的には固まって足が止まり、内田せんせに「生殺与奪」の権利を持たれる側だと思うのよ。

そして、その場所から神様を求めている。
東洋の「武道」的立場じゃなくて、切られる大根の側から。
大根にアイデンティファイしていては、武道には近づけない。

しかしもちろん、単に「切られる側=大根の狂気」のままではなくて、その「通じない狂気的表現」を通じて、こちら側=「世界」に戻ってくる。

内田とは単独者として共通しながらも「世界」に帰還するやり方(世界との和解の仕方)が違う、ということかな。

志賀直哉とか三島由紀夫とかも、身体感覚が違ってて、ダメぽです。

むろん内田は単なる「表現者」ではなく、単なる「哲学者」でもなく、哲学的批評表現を操る人でしょう。


貴方も私も、割とその辺りは共通している。
その操り方の方法意識というか、スタイルというか。
そこの違いがどうもね。
たぶんやっぱり、近いから苛々するのかなあ。

身体関係はわかるけど、師弟関係あたりがわからない。
「父なるもの」(垂直軸)
のあり方にもかかわるね、たぶん。
社会的=人間的=日本人的秩序のテイストが、かなりずれていて、合わないんだなあ。

たぶん私はそのあたりになるとむしろ、永井均の路線に近いのかもしれません。

人間(もとい、中年男子)を
1、中島義道
2、内田樹
3、永井均
の三つに分類すると(どうゆう分類だ?やだね、自分で書いてても)、私は明らかに3の配分が大。
みんなかつての「困った子供」なんだけど、遊び方(適応の仕方)が違うよね。
1はあんまり配分比が高くないと思います。
2もかなり入ってはいるけれど、それだけにズレが気になる。

そのズレの中身は、ウ゛ィトゲンシュタイン的自閉と、メルロ=ポンティ的お坊ちゃん風マザコン、かな。落ち着くところはフーコー(ホモセクシュアル)なんだけどさ。

だから、どれをとってみても、師弟とか道とか作法とか共同体とか、とってもダメなの。

貴方は身体の性能が「いい」んだと思う。だからその辺りにはぐだぐだせずともよいのかも。

オレにとっては「身体」と自分は不調和なまま。
齟齬や差異というより、そこの動かないダメさ、へたれさ、から自分を始めてるかんじがあるのです。

自閉的閉塞と逸脱的固化を抱えた身体、かな。
ただし、口は人並み以上に動くけどね(笑)。



ちなみに、レウ゛ィナスコレクション、最近持ち歩いているけど、読むのはなかなかカント関係と中世スコラ哲学ばかりで、そっちにいきません。

というわけで、とりとめない返信でした。

ああ、そうか。
主題は「身体と権力」の問題だね。
それはたぶん、教育の問題でもある。

また酒飲みのときにでも。