龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

シカゴ、ヴァン•ヘイレン、ザ•カーズのベストを

2014年04月20日 22時21分12秒 | ガジェット
ザックリiTunesクリックしてしまった。

1970年代から80年代ぐらいに聴いた曲だったりするのだと思う、よく知らないんだけどね。

名前はヒットチャート(これも死語かなあ、)でみたことはあるし、確かに何曲かは知っている。

けれど、ミュージシャンの名前と曲とは必ずしも一致せず、ただ洋楽の流行歌として聴いていただけだ。

多分そういうことができたのは、ラジオをずっと聴いていた中高生の頃だったからだろう。
中学校の時は、ラジオとカセットテープレコーダーを繋いでエアチェックしていたものだ。

ラジカセ(これも死語ですかね)を買ってもらったのは、高校三年生ぐらいのときじゃなかったかなあ。

つまりは、ジャンルなどわからないままに、ただ流れてくる音楽をひたすら聴いていたということになる。

もちろんその中に間違いなくヴァン•ヘイレンも入っていたし、クィーンもいたし、シカゴもあった。ザ•カーズは一曲ぐらい知っていたと思うけれど、テープにはとらなかった。

それを突然聴いてみたくなったのはなぜだろう。もう40年も前のことだし、大してその頃が懐かしいわけでもないのに。

AKBも、ももクロもiPodにはいちおう入っている。

でも、とにかくそうじゃないものが聴きたくなってきたらしい。

P.S.
聴き始めたらなんだか
ザ•カーズ
が妙に気に入った。


Anker Astro Pro2の20,000mAhはカッコいい!

2014年04月20日 17時22分29秒 | ガジェット
モバイル機器用に、まとめて全部充電できるバッテリーを購入したのだが、これがまたカッコいいのです!

Anker Astro Pro2の20,000mAh

写真はこれです。

右がAnker Astro Pro2、左はダンボーくん。
アストロくんのヘアラインが美しくてカッコいいのですダンボーくんは可愛いけどね。
右は左の倍の容量。


加えてこんな持ち運び用の袋も着いていて便利。

久しぶりに、電池という補助的な役割のモノにもかかわらず深い所有の満足感を覚えました。
確かにダンボーくんより重いけれど、薄型だからバッグに入れる時はむしろ邪魔にならない感じです。
USB出力が3ポート。
他に私は使わないけど可変のDC出力(パソコンとか?)があります。

充電残量が%表示されるのも安心感があって◯。LEDの残量表示は、少なくなって来た時心許ないですから。

ただし、肝心の充電能力はまだ試してないんですけどね(笑)評判はよろしいようです。

なにせ20,000mAhですから、iPadもNexus7もiPhoneもまとめて面倒みちゃえそうです。楽しみだなあ。

といいつつ、しばらくは旅行も出張もないのでした(>_<)


夏井川の堤にある桜が見たいと思う。

2014年04月18日 20時30分26秒 | 観光
磐越自動車道をいわきから郡山に向かって進んでいくと、山間の上り坂でふと右側に平地が広がっているところがある。その平地の真ん中に小さな川が流れているのだが、その川の両側、堤防に桜が植えられている。小野町のちょっと手前、たぶん夏井の辺りだろうと思う。

桜の名所1000とかいうサイトで調べたところ、「夏井川千本桜」というところのようだ。
確かめてはいないが、独り決めにそうだと決めている。

そこの桜がまたきれいなのだ。

毎年高速道路から眺めるのだから、実際にじっくりクルマを止めて見たことはない。

それだけに、一度はゆっくり見てみたいものだと思っている。
今年はたまたまいろんなところを回って桜を観る機会があったから、どうせならここの桜も観賞しておきたいものだ、と今から狙っている。
先週郡山に出かけたときは、まだ固いつぼみの状態だった。

今週末は三春の滝桜が満開だ、と聞いているけれど、この桜はもう少し遅いかもしれない。

もちろん、桜ばかり追いかけていないで、庭に咲いた桃の花でも活けて、家でゆっくり花見酒などをいただくのも一興なのだが、いかんせん子どもの頃からの「多動児性」が抜けておらず、自分の庭より他所の花、がありがたいらしい。
なにせ動きたくて仕方がない性分は、脳みそとともに神様から授かったものなので、いかんともしがたいのです(笑)。

さて、この土日、やっぱり偵察してこないといけないかな……。


大剣公園に行ってきた。。

2014年04月17日 21時30分51秒 | 大震災の中で
小名浜の大剣公園に行ってきた。
桜がとても綺麗なところなのだが、今はもう散り際だ。



だが、木によってはまだ花をいっぱい付けているものもある。

こういう比較的目立たないところにある公園の常として、駐車場は営業のクルマの一時休憩所になっている。
おじさんが一人でやってきて、隅っこにクルマを止め、桜も見ずに背もたれを倒す……。おじさんたちは疲れているのだねぇ。


今は桜の淡いピンクと若芽の新緑とが絶妙のコントラストを作っていて、桜餅もかなわない爽やかな風景でした。

ユニクロの「限定正社員」とIKEAのパート全員無期雇用

2014年04月16日 23時20分43秒 | 大震災の中で
とにかく、雇い止めを前提にした非正規雇用ばかりでは生活の展望が全く持てない。

そういう意味で、IKEAの、パートの全員無期雇用と、ユニクロの限定正社員の動きは注目していきたい。

非正規雇用の改善につながる可能性もある、という意見と同時に、場合によっては限定的縛り付けに利用されて、最後に放り出される危険も孕むとの指摘も。

結局は運用次第、ということだろうが、将来に向かってある程度の「計算」が立つかどうかは、(無論程度問題だが)給料の多寡以上に重要だ。少なくてもその一点では歓迎しつつ様子を注視したい。


「震災を語る本当の言葉を捜して」

2014年04月15日 10時21分04秒 | 大震災の中で
今、福島県を代表する「語り手」の中の2人、開沼博と和合亮一が、この(福島の)震災を語る言葉について考えていくトークが4/14からJFNで始まった。

http://www.jfn.jp/News/view/place_thu/11733

非常に興味深い。

私自身、 誰に頼まれたわけでも期待されたわけでもないのに、大震災と原発事故を契機として福島の中に住む住民として、発信を続けていきたいと思うようになった。

それは震災から一年半ぐらい経ってからのことだ。

震災直後は、語る言葉を持たなかった。
語ることの困難とかいったこじゃれたことをかんがえる隙間もなかった、ということかもしれない。

メモは残そう、と思っていたが、それは単なる忘備録程度の意味だったと思う。

だって、社会的な意味付けを自分の語りに背負わせるなんてことは考えられるはずもないわけで、震災前も震災以後も、私たちは与えられた環境条件を生きていく外はないわけだし。

ただ、それでも考えるようになったことはある。

日常生活をしていくなかで、あたかも放射性物質が私たちの身近な山や林・森などに蓄積されて寄り添いつつ存在しているのと同じように、私たちの日常生活の中に、ある種の「自覚」が生まれてしまっていて、その「自覚」と共に生きていくことになるのだな、という予感というか、「自覚」を「自覚」する、という感覚と共に生きるようになった、ということを考える。

べつにそんなことを考えてみてもしょうがないのかもしれないけれど。

人は、環境に対する根底的な信頼を損なうと、ある種の「裂け目」を感じて生きていくことになる、ととりあえずは言ってもいいのかもしれないが、そういう言い方を前提にしてしまうと、この二人の「語り手」の言葉のような場所にたってしまうような気がして、それはチョット、とも思う。

原発という産業に「依存」しているのは震災以前も以後も変わらない、ともいえる。過疎の問題も、地方の雇用の課題も、事故以前から存在していて、事件以後に「顕在化」しただけ、とも言ってみることだってできる。

個人的な感覚で言うと、声高に言えば顰蹙を買うのを承知でいうなら、矛盾を抱えるというよりもむしろ、世界の前提であった「底」が抜けてしまったような感覚が、この大震災と原発事故には伴っているような気がしてしまうのだ。

「人為」の底が抜けて、その結果として立ち現れる「自然」と向き合わされてしまった感じ、とでもいおうか。それはいわゆる
人間/自然
という対立項としての自然ではなく、人間の営みがある種の限界を見せたその挙句に現れてしまった不可視の自然とでも言うべきもの、だろうか。

まあ、そんなものは「不可視」なのだから、所詮レトリックに過ぎない、とも言える。


とはいえ、仮に「環境とはそこで生活をしていく私たちの「可能性条件」を支えるものである」、とするならば、大震災と原発事故は、私たちが日常生活を営んできたその「可能性条件」を根底から変えてしまった。

「語り得ないもの/語り得ないもの」

という二分法には収まらない、何か得体の知れないものと向き合わされてしまった、あるいはなにかよく分からない領域とすれ違ったような気がする体験、とでも言えばいいだろうか。

ただし、それは単に震災が究極の「非常時」であり「未曽有の巨大な体験だった」ということではない。

私たちの体験の多様さは、常に変わることがない。災害の中であっても日常の中であっても、私たちの体験は常に意識されるものよりずっと多様であり、豊かでもある。

私たちはいつも、その多様な環境の中で小さな眼鏡で世界を覗き、かぎられた範囲の合理性に則って思考し、語りあっている。

得体の知れないものとは、その意識された範囲内で思考するその仕方そのものが傷を負ってしまった感じ、でもあるのかもしれない。

個人的な体験としては、忘れていくこと、語らないことも選択肢のひとつではあるのかもしれない、とも思う。黙っていられるのなら、忘却できるのなら、それが良く生きることにつながるのなら、忘却する力もあながち捨てたものではないとさえ思う。

だが、どこかでその「人為の裂け目から顔を覗かせた自然」と出会ってしまった以上、そのことをなしにして何かを考えることはもう考えられなくなってしまった。

どこかで?

もちろんとりあえずは福島で出会ったにはちがいない。
だが、それは福島という檻に閉じ込めておける種類のものでもないだろうと感じる。

いささか逆説めくけれど、ことばが「開かれてしまった」といってもいいのかもしれない。


この二人が「語りだす」ことはだから、私にとっても非常に興味深いのだ。

一方は詩=文学というところから、他方は社会学というところから出かけてきて、この福島でフィールドワークをしながらことばを捜していってくれるとしたら、おそらく彼らの意図を裏切る形で「それ」と出会った痕跡を共有しできるかもしれない、と思うから。

彼ら自身の専門の仕事の貴重さとは別の可能性が、これからみえてくるかもしない。そういうことを期待している。

まあ、もしかすると、おじいちゃん予備軍で(も)ある私の思考には、宗教的な香りがどうしても漂ってきてしまう、ということだって考えられるんだけどね(笑)







大河原町の、「一目千本桜」を観てきました。

2014年04月14日 18時11分38秒 | 観光

4/13(日)、大河原町の
「一目千本桜」
を観てきました。

全長8キロに及ぶ白石川の桜堤です。
快晴にも恵まれ、桜も満開。
ソメイヨシノの一斉開花は、遺伝子的に当然なのかもしれませんが、これだけの株が一気に開くと、一大スペクタクルです。





月末には弘前公園にも行く予定。

できれば夏井の夏井川堤の桜も見にいきたいな。昨日高速から観たら、まだ固いツボミでした。

『精神看護』に連載している國分功一郎氏の「中動態の世界」(1)(2)が面白い!

2014年04月10日 01時28分08秒 | 大震災の中で
『精神看護』という業界専門誌に連載している國分功一郎氏の、

「中動態の世界」が面白い。

第1回は2014年1月号、第2回は2014年3月号に掲載されています。


昔インド=ヨーロッパ言語には中動態という文法的カテゴリーがあったのに、それがなぜ「消えてしまった」のか。能動/受動というカテゴリーは少しも普遍的ではなかったのだ……

ってところから説き起こしていく。

ターゲットの一つは「意志」の見直しだ。

意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、

「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。

どこまでも思考の線が伸び、かつ広がり、深まっていく心地よさを、ぜひ味わってみてほしい。

自身でも認めているように、國分氏は大の文法好きだ。
この研究のためにギリシャ語を習い始めた、と去年漏れ聞いた。

この文法問題から世界の可能な「条件」を示していく思考の歩みは、私たちを見慣れた風景から、少しずつ別の「世界」にずらしつつ誘ってくれる。この書き手と同時代を生きることができる悦びを、よろしかったら、ぜひ。

ちなみに、以前その文章を読むことが私にとって無上に楽しかった書き手が、かつての緊張感を失った語りを漏らしているのを読んで、切ない気持ちになった。

浅田彰と蓮實重彦である。
浅田彰はSPA!で福田和也氏と対談していた。
蓮實重彦は、文藝で千葉雅也氏と対談している。
どちらも、かつて(35年前)貪るようにその文章を読んだ書き手だった。

詳しいことはまた後日ここに書くけれど、二人には、昨年11月に表象文化学会で行われた(表象8号に掲載予定?)國分×千葉の対話に比して、全く緊張感もなければ、共に時代を生きる覚悟も感じられない。

まあ、浅田彰も蓮實重彦も、彼ら自身にとってはそれでいいのかもしれない。
ただ、私は、私たちはもう少しこの世界で思考をつづけて行かねばならない。たとえ微力・無力ではあっても、ね。

私は國分功一郎氏のこの「中動態の世界」に、つよい「教育性」を感じている。
それは『ドゥルーズの哲学原理』でも感じたことだし、『スピノザの方法』でも感じたことだ。
「教育性」というのが、雑駁な感想だということは分かっている。
今はメモ書きとして書き留めることしかできないが、ここのところはもう少し自分で思考しながら詰めて行かなければならない。

「教育性」ということばで考えて見たいのはたとえば
精神看護2014年1月号p82の

「本稿はむしろ、様々な分野が既に明らかにしていたことの総合のようなものである。だから、「そんなことは分かっている」と思われる論点も多々あろう。だが、そのような総合が
試みられなかったが故に、ある一つの世界が垣間見られつつも、像を結ばなかったのである。その世界は失われた世界ではないし、未知の世界でもない。ある意味では身近であるが、しかし、手をかざしていつもの日の光を遮るか、別の光を当ててみなければ見えてこない、そんな世界である。」

のような身振りである。
スピノザの研究者である國分先生の姿勢が垣間見える、ともいえるかも知れない。
それを「教育性」というのはおかしな話だろうか。

まあ、その辺りをもう少し、ゆっくり考えていきたいのです。





能面の展覧会を見た

2014年04月08日 22時12分40秒 | メディア日記
水戸の偕楽園公園センターで
能面の展覧会をやっていたので覗いてみた。
これがなかなか面白い。
多分カルチャーセンターのようなところで作っている人の作品ばかりかと思ったらそうではなく、コンクールで入選(そういうコンクールがあるんですね)した面なども展示されていた。

とか

とか

とか
とか。

ぼおっと流して眺めているうちはどれも似たようにも見える。

だがいったん立ち止まって表情に見入りはじめると、ほんの少しの加減で晴れやかに見えたり陰がさしたりする。能面の微妙な差異もさることながら、こちらの見る角度や思い入れで全く違って見えてしまいそうだ。

こんな微妙な差異をゆっくりしたリズムで刻む「能」は、私にとってはすぐ脳みそが飽和して眠くなってしまうのも道理に違いない。

実際、「能」は実に眠い芸術である。

つまらないから寝る、というのではない。なにか特殊な光線に当てられたかのように魂が持って行かれるのだ。

間近に能面の表情をみると、さらに納得がいった。

焼き芋焼き器(鍋?)を買ったら

2014年04月08日 00時00分56秒 | 
 ネットで検索すると、焼き芋を焼く装置というか鍋というか、いわゆる「焼き芋焼き器」はたくさん出てくる。
 どれがいいのか分からないけれど、この冬、断固うまい焼き芋が食べたくなって大ぶりの焼き物の土鍋に石を敷き詰めて芋を焼く、石焼いも器を買った。

商品はこれ。

「いも太郎」
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dpopular&field-keywords=%E3%81%84%E3%82%82%E5%A4%AA%E9%83%8E

写真はこちら。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/61P9xOiCmtL.jpg

焼き上がるのに1時間ほど、器の大きさの割には太い芋3本しか入らず、強火弱火の調整も必要、ということで、確かにいろいろ手間はかかる。

しかし!

できあがった焼き芋を焼きたてで食べると、焼き上がってから時間の経ったプロの焼き芋なんか比べものにならないぐらいうまい(ときが多い)。

まあ当然のことながら、常にプロの焼き芋を越えた味になる、というわけでもない。

焼き芋焼き器の基本能力は間違いない、と実感できると、今度はさつまいも自体を選ぶ必要が出てくる。

3~4本で200円のサツマイモもそれなりにおいしいけれど、紅あずま、安納芋、紅こがねとか、ひめなんとかとか、いろいろ試してみると、それぞれ特徴があってしかもその特徴が良く出ていてかつ美味い、というところに連れて行ってもらえる。

焼き芋器は、人生を幸せにしてくれる道具の一つだと思いました。

 島生樹郎「津波と原発事故 小さな希望」(文芸思潮54号に掲載)を読みはじめた。

2014年04月07日 14時03分46秒 | メディア日記
筆者の島生樹郎氏は、今年3月で福島県立双葉高等学校を退職した数学教師。
家は請戸の浜辺にある。

東日本大震災の被災者の中で、私にとってはもっとも身近な人の一人であり、津波とのカーチェイスの末、生死を分ける瞬間をご家族で体験した人でもある。

文芸思潮52号では、エッセイ賞の最優秀賞を受賞している。
ただし、受賞した文章は十数枚と短いものだったため、原発関係には触れていなかった。
そこで、文藝思潮54号に改めて80枚あまりの原稿を全文を掲載。

これは、請戸に住む住民の一人としての個人的経験を、きわめて冷静かつヴィヴィッドに描いた文章であり、一読して損のない文章である。

大震災関連の文章はたくさん目にする。

どれを読んでも切実さは伝わってくるが、この文章は特にいい。
記録としても貴重だし、そのときの「臨場感」の再現としても他にないようなリアリティを感じる。

今、

『記者たちは海に向かった』門田隆将

という民友新聞の記者が直面した東日本大震災についてのノンフィクションを読んでいるところだが、リアリティにおいては数段こちらのエッセイが勝っている。

書き手の「人生を楽しく生きる」という知性的な「遊び」が底流に感じられる、といったら言い過ぎか。
よろしかったら一読を。

ブログトップの写真はトレドです(たぶん)。

2014年04月06日 13時40分49秒 | 観光
とりあえず、なんか横長にふさわしい写真をPICTUREフォルダから引っ張ってきたものです。スペインに旅行したときマドリード近郊にバスで移動したときのものだから、トレドの街並みを川向こうから取った写真(だと思います)です。

最近、震災前のことはあたかも遠い「前世の記憶」のような気がしてしまいます。
そういう意味ではこれも「前世の記憶」の一枚。

都市が長い歴史を経て、私たち共同の記憶の「場所」としての価値を身にまとうことになる、というのは観光地によくあることです。

たとえその城壁や石畳、水路や教会など、当時の身分の高い階層や富裕な人間たちの手で、場合によっては種庶民が搾取されたり虐げられたりもしつつ創り上げたものであっても、長い時を経てそれが私たちが共有しえる「豊かさ」になる、ということはある。

そういう「贅沢」=「遊び」は、その当時は宗教への敬虔な帰依とか、権力の示威行為そのものであったり、富裕層の「堕落」であったりもするのかもしれない。

それでもなお、「贅沢」はすてきだ。

原子力発電所の事故をここに重ねるのは本当にどうかな、とも私自身思うけれど、それならこの「不幸」は、100年単位の時を隔てたなら、私たちが共有できる「贅沢」=「遊び」になり得るだろうか、とついつい考えてしまうのです。

つまりね、原発事故は本当に貧乏くさい、「取り攫われた」精神の無思考の結果ではないのか、と、お金の使われ方からして納得がいかないんです。

ことほど左様に、楽しかったはずのスペイン旅行の一コマ(トレドの写真)を観てすら、私の思考は原発事故から離れられないのでした。