観音崎えとせとら ~近くて遠い過去

2009-04-26 23:50:02 | オートバイ春夏秋冬


 写真は、観音崎内の北門第三砲台跡から眺めた太平洋(東京湾入口)で、右隅の煙突は東京電力横須賀火力発電所のものです。
 観音崎には観音埼灯台があり、隣接しているタワー(東京湾海上交通センター)から浦賀水道を行き来する船舶の動きを管制しています。観音崎が東京湾の海上通行の安全を図る上で重要な地点にあるということは同時に、仮にここを制圧されてしまうと極めて不利な立場に追いこまれてしまうことを意味しています。司馬遼太朗の『竜馬がゆく』を読むと、江戸の千葉道場に剣術修行に来た坂本龍馬が、現在防衛大学校のある横須賀市小原台の高台(観音崎の近く)から黒船を眺めるエピソードが記されていますが、ここを国防上の重要な拠点と考えた明治政府は、前述したように観音寺を移転させ、砲台を設置して観音崎を要塞化し、海上に築いた第一~第三海堡と共に浦賀水道に砲口を向け、睨みを利かせていました。今では自然公園となった観音崎だけど、今でもその一部が防衛省の管轄区域になっているのは、そうした理由によるものでしょう。

【補足】 富津沖の第一&第二海堡に対して、観音崎沖の第三海堡はニ番目に規模が大きく、完成までに30年の年月を要しながら、完成から二年後に生じた関東大震災で崩壊し、暗礁と化してしまいます(魚たちには天国だと思う)。海難事故の原因になっているとの指摘を受け、2000年から撤去工事が始まり2007年に工事終了、引き上げた構造物の一部は安全な場所に再投棄して漁礁として再利用、一部を陸揚げして当時の土木技術の調査を行い、兵舎や弾薬庫などを国土交通省の展示施設で一般公開しているそうです。長崎県の沖合に浮かぶ(通称)軍艦島が35年ぶりに一般公開されることになりましたが、足元に興味津々な人工島が存在しているのですから、機会があったら是非見学してみたいものです。


    

(左)灯台入口に近い岩がこのように切り通しになっている。誰が作ったのだろう。
(右)西脇順三郎の「灯台へ行く道」に出てくるトンネル。トンネルの中に小部屋?が幾つもある(コンクリートで蓋がされているが・・・)。


 多々良浜側から国道を歩き、先ほどのトンネルをくぐって観音崎の中に入ると・・・太平洋戦争が終わるまで、観音崎は旧軍の要塞だった。現在も、5か所の砲台跡が残されている。このようにコンクリートで塞がれているのは元弾薬庫?兵員室? 


(左)多々良浜側から遊歩道になっている坂道を登り、煉瓦造りのトンネルを抜けると北門第三砲台跡に出る。
(右)トンネルの正面に現れてくる砲台跡。砲台跡は5か所残されているらしいが、この日は1か所しか回れなかった。

(右)砲台跡の内部。苔むし、木々が生い茂り、古代遺跡のようにも見える。
(左)同じ砲台跡を横から眺めると・・・塞がれていない空間もあった。掩蔽壕かな?



(左)砲台跡の近く、一番見晴らしの良い丘の上に、先の戦争で亡くなった船員を供養するための「戦没船員の碑」がある。突端の石碑には、大きな字で「安らかに眠れ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれている。確かに、ここから見おろす海は素晴らしい・・・。
(右)山の上に投錨された錨(あるいは、こんなところまで打ち上げられた沈没船の錨だと想像することもできる)。石碑に刻まれた文字と同じことを語りかけている。


    

戦没船員の碑。約六万人が犠牲になった・・・。

 昨晩遅く書き始めたのですが、やはり眠気には勝てず翌朝に・・・29日を乗り切れば休みだあ~♪