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青梅線散歩 ~「夏への扉」からスタートです。

2007-12-13 02:23:30 | 日常&時間の旅

 ぼくの飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。かれは、数多いドアのなかの、少くともどれかひとつが、夏に通じていると固く信じているのだ。そして1970年12月3日、かくいうぼくも夏への扉を探していた。あなたならどんな気持になるだろう? もし、最愛の恋人にうらぎられ、仕事は取りあげられ、生命から二番目の発明さえも騙しとられてしまったとしたら・・・(文庫本裏表紙より)


 

 ロバート・A・ハインライン著『夏への扉』の文庫本を数十年ぶりに本棚から取り出して、電車に飛び乗った。目的地は青梅。鉄道公園に向かう道の途中に、このSF小説から名前を借りた喫茶店「夏への扉」があると聞いたからだ。立川駅で僕を待っていたのは「柿色」の201系十両編成。晩秋から冬にかけて、この色が最も似合う季節になったが、それも今年度限りだ。来年から柿の木を見かけるたびに思い出すことになるだろう。この色に出会うため日本全国を旅する自分の姿が今から見える。




 青梅・五日市線内を走り出すと、すぐに201系とすれ違った。ブログの写真ではわかりにくいが、「青梅・五日市線」のステッカーが貼られた専用車だ。この路線内でも、半数近くがE233系に変わっている。青梅・五日市線は、拝島までこのように複線になっているが、正確には単線が2本並んだもの。その昔、国鉄に買収されるまでは、五日市鉄道(当時は非電化)と青梅電気鉄道が、それぞれ自前の線路を走っていた。元私鉄だけに(四つの私鉄が合併した飯田線のように)駅間の距離が短く、一駅歩きにちょうどいい。


                   

 拝島駅を過ぎた地点で、【左←五日市線/青梅線→真っすぐ】に分岐する。青梅線は拝島から先、東青梅まで複線化された。ここには写っていないが、青梅線の右側をJR八高線の線路が走っており、右に大きく曲がってゆく。シャッターのタイミングが悪くて、五日市線の線路が隠れてしまった。御岳山に行ったときよりも、線路と線路の間にある雑木林で紅葉が進んでいた。


     

 青梅に近づくと、にわかに空気が澄んできて、奥多摩の山々が見えてくる。麓はまだ紅葉が残っている。というか、本格化? 同じ距離から撮影したが、右の写真は望遠レンズの圧縮効果で、電柱が隙間なく立っているようにみえる。青梅まで約30分、いつでも一番前に立ってしまう。何度見ても飽きない。自分の「テツ」分は、去年「むかしみち」を歩くなど、青梅線を二度訪れたときに出来上がっていた?


 駅を降りれば、手描きの映画看板が迎えてくれる。ホームの待合室の壁と、連絡通路に6枚の看板が掛けられている。雑誌などでよく紹介されるのは、向い側に掛かっている『鉄道員』(ペトロ・ジェルミ監督)『ティファニーで朝食を』『終着駅』。同じオドーリーでも鉄道絡みで、ラストシーンがパリ北駅だった『昼下がりの情事』の看板にしてほしかったなあ~。こちら側の看板で、一番向こうに見えているのは『旅路』。元はNHKの朝ドラだった(ヒロインは日色ともゑ)。どんなお話だったのだろう?


                   

 オリンパス・ブルーじゃないけど、雲一つない見事な青空に映える青梅の駅舎。ちなみに、トシ子のデジタル一眼レフカメラは、オリンパスのE-3にほぼ決定(フルサイズ機はキャノンにする予定)。あとは金の算段だ~


     

 駅のロータリーを左に道なりに行き、鉄道公園へ向かう坂道の手間、青梅線を跨ぐ陸橋を渡ったところに喫茶『夏への扉』がある。看板の上にピートのシルエット。扉を引くと・・・夏に続いていたか?


           

 天井の扇風機、だるまストーブ。時代を感じさせるスピーカーからジャズ・カルテットの演奏が流れる。カウンターの隣にある居室は純和風。畳と炬燵が嬉しい。淹れたてのコーヒーを飲んで、持参した文庫本を読みながら至福のひとときを過ごした。



           

 このガラス窓の向こうに「青梅キネマ館」があったそうだ。『夏への扉』は昭和7年に建てられた。和洋折衷のモダンな家は(五月とメイが住んだ家にも少し似てる?)、目医者さんの自宅兼診療所だったらしい。今から25年前、『夏への扉』のご主人がここに移り住んだ頃には、すでに映画館は閉鎖され、建物も取り壊されていたそうだ。今、向かいでマンションの建設工事が行われている。


           

 橋を渡って目抜き通りの【昭和幻燈館】で、青梅線を跨ぐキネマ通りが再現されていて、『夏への扉』もちゃんと建っていた。山本高樹さんの素晴しい作品が何点も展示されている【昭和幻燈館】には、必ず寄ってしまう・・・
 山本さんのHP『模型日和下駄』は、 → ここをクリック


 井戸でも有名な本郷の樋口一葉旧居跡も、このように幻想的で懐かしいジオラマで見ることができる。浴衣姿の湯上り美人に目が行ってしまうが、画面のどこかに必ず永井荷風先生がいるので探してみてネ! 今夜はここまで。お休みなさい。


ひとつでも信じてることさえあれば
扉はきっと見つかるさ

あきらめてしまうにはまだ早すぎる
扉の鍵を見つけよう

そしてピートと連れだって
君を迎えに戻るだろう

だから リッキィ ティッキィ ティヴィ 
その日まで お休み 

(『夏への扉』より抜粋。作詞&作曲=山下達郎)
 


御岳山ピクニック ~ピクニックとハイキングの違いは?

2007-11-24 22:50:00 | 日常&時間の旅


立川から50分、201系青梅線の特等席の車窓。
青梅を過ぎると東京都とは思えない景色が広がる。


 連休二日目は、数十年ぶりに御岳山(「御嶽」とも書く)にピクニックに行きました。
 年一回の恒例行事というか、去年は「奥多摩むかしみち」を歩いたので、今年も奥多摩方面に出かけました。山頂から御嶽神社をお参りしたのち、岩と滝を巡る3時間のハイキングコースを歩いたのですが、今回は普段と違ってお供がいるので、横見クン流に「楽しいピクニック」を洒落てみました。

「川遊びしたり、林の中歩いたり、楽しいぞ~」
「それはハイキングじゃないですか。ピクニックじゃなくて」
「何言ってんの! ハイキングよりピクニックって言った方が楽しそうだからピクニックなの!!」
「・・・・・・」
「ところで、ピクニックってナニ?」
(『鉄子の旅』第31旅より)


奥多摩へ向かう201系を見送る


 昨日のミズコール・サムサ(水凍る寒さ)とは打って変わった「暖かさ」だったのですが、お供の者は私が待ち合わせ時刻の7時に5分遅刻しただけで、「この寒さの中、20分も人を待たせるとは、どういう料簡か」と苦情を申し立て、オマケに立川駅で駅弁を買っている間に電車が行ってしまい、7時44分発の奥多摩行を待つしかなくなると、「国立駅に着いてから1時間が経過しようというのに、まだ一駅しか移動していないなんて、お前はいったいどんな計画を立てて、7時集合といったのだ?」と責められました。
 言わんとすることはよくわかるのですが、「何も計画していなかった」のだから、仕方がないじゃん。今日の予定は、立川駅から青梅線に乗って「みたけ」で降りるだけなので、時刻表も見んかったのよ~(もちろん持ってきていないし)。7時ぐらいに集合かけておけば、多少遅れる奴がいても問題ないだろうと・・・

犬も歩けばケーブルカーに乗る・・・


 二人はケータイからインターネットで次の奥多摩行を検索していますが、駅のホームに掲示されている時刻表を見た方が早いのでは? とにもかくにも、44分発の奥多摩行が立川駅に入線してきたので、「自分はやることがあるので、一番前の車両に乗って、暖かい車内で座っているよう」二人に告げました。もうすぐ姿を消す201系の車両が次々やってきたり、特急電車がやってきたりで、わしゃ急がしいんよ。
 「1時間ひと駅」にこだわる友人は、「車内も寒い、どーしてくれる」とブーたれていました。セーターにブレザーといういでたちでは寒いかもしれないので、「コートを取りに戻ったら(国立在住)」と、国立駅で言ってあげたのですが・・・


武蔵御嶽神社は「神社好き」には「たまらない」神社だった・・・


 この先、詳しくは書きませんが、漫画『鉄子の旅』を再現しながら時間が過ぎていきました。漫画と違うのは、キクチさんが二人いたことです。それだけに、横見クンに恥ずかしくないよう、思い切り「横見」化しました。二人は、口が笑うのでなく膝が笑うほど歩かされてしまうなど、私の傍若無人で奇天烈な言動に一日中引っ張りまわされて散々の思いをしたようですが(でも「むかし道」12.7kmより楽勝)、天気は良く景色も良く、空気がおいしいせいか食べ物も飲み物もうまかったと、その点だけは納得してくれたようです。帰りに立川駅の「奥多摩そば」で、おでんそば(おでん卵のトッピング追加)を食べて別れましたが、もう二度と私のお供などしてやるもんかと、思っているかもしれません。


「芸術はバクハツだあ~」
山頂部の紅葉は盛りを過ぎましたが、
光を浴びると一斉に輝きます・・・


 今日24日の東京新聞夕刊に「本埜村の白鳥」の写真が掲載されていました。23日の朝の時点で約190羽だったのですが、寒波と共にやってきて、24日現在、約240羽に増えたそうです。夕方渡ってくるのだろうか? 朝じゃないと思う。夜間飛行はしないと思うから。寒波じゃなくてスゴイ寝気に襲われて、もう・・・


東京の涼を求めて・・・ ~暑い日だからこそ歩く?

2007-08-25 21:49:50 | 日常&時間の旅


棕櫚が咲き誇るこの駅の名は? 
南国にいると思えば暑さも和らぐ? 納涼度45%


 熊本も高松もめちゃくちゃ暑かったが、東京の暑さも半端じゃない。今日の土曜日は、朝こそ過ごし易くて(始発で出かけた)「こりゃあ、助かった」と思った矢先に、じりじりと気温が上がっていき、そのうち〈ゆでだこ〉に・・・幸いにも、お昼前に「亀戸」の駅で自由の身になったので、涼を求めて東京の街を歩き回ることにした。
「涼しいところで休んでいればいいのに・・・」
 全くそのとおりなのですが、8月だけしか見られないものがあって・・・




答えは「鶯谷」。山手線の駅だったなんて・・・
地下コンコースと言葉の響きで、納涼度65%


 北口に降りて、子規庵に向かうために漱石たちが通った道(言問通りなどができたため、うぐいす横丁&たぬき横丁といった楽しい路地は分断されて、ほんの一部しか残っていないらしい)を歩くつもりだった。たぬき横丁と思われる狭い路地を行くと、そこはホテル街だった・・・納涼度 0.2%(写真なし。子規庵にはたどり着けず)。


 言問橋(陸橋)は水ではなくて、10本の線路の上を跨ぐ橋だ。10本並ぶと線路も壮観で、橋そのものもいい形をしているが、橋の上はとにかく暑くて納涼度0%。電車が通ると(山手線を始め頻繁に来る)気持ち涼しくなり、納涼度30%に。


     

 橋を渡って涼しげな竹塀が見えたので路地を曲がってみた。大谷石の塀に古い木造家屋・・・お気に入りの景色に遭遇して暑さを忘れた。納涼度?


                   

 今日は街のあちこちで神輿や山車を見かけた。子供たちが山車を引き、神輿を担ぐ。近所の神社では、わたアメにカキ氷、プールが用意されている。納涼度75%。




                   

 寛永寺の向かいにある浄名院の八万四千体地蔵。浄名院はかつて、寛永寺三十六坊の一つだった。明治12年に地蔵一千体の願が満ち、八万四千体の大誓願をかけた。東京区内の光景とは思えない。納涼度95%。




                   

 浄名院の山門(上)と寛永寺の根本中堂(下)。寛永寺は江戸の鬼門を守ってきたお寺で、かつては上野の山全体が寺の敷地だった。境内は外気温より数度は低い感じだけど納涼度は35%。数字が低いのは、浄名院のインパクトが強かったから。



     

 突然現われた〈朝顔〉ビル。蔦の代わりに朝顔がビルの半分を覆いつくしていた。昼過ぎなのに朝顔が満開。綺麗といえば綺麗だけどかなり暑苦しい? 一鉢の朝顔の方が納涼度は高いが、幽霊屋敷に見えないこともないので30%ぐらいかな?


                   

 最初の一枚は自性院〈愛染堂〉。愛染明王は縁結び&家庭円満の対象として信仰されていて、川口松太郎の『愛染かつら』は、明王像と本堂前にあった桂の古木から着想された作品とのことである。未読。何となく蒸し暑く感じるのは「かつら」という言葉から?(つけ毛じゃなくて木なんだけど・・・)。納涼度25%。
 続く二枚は、これまた偶然訪れた〈長久院〉。一週間前にも京都の〈六道珍皇寺〉の閻魔大王に睨まれたニワトリだが、こちらの閻魔様はどことなく可愛い感じ。江戸時代に六十六部衆の一人だった光誉円心という人物が奉納したもので、六十六部衆とは法華経を六十六部書写し全国六十六箇所の霊場に奉納した聖のことをいい、江戸時代には法華経と一緒に石塔や石仏を収めるようになった。現存する石仏は地蔵仏が圧倒的に多く、閻魔大王は非常に珍しい・・・(台東区&東京都の教育委員会がこうした史蹟に日本語と英語の案内看板を書いてくれていて、とっても便利)。
 納涼度(=意外性)90%。


 ここ谷中は、「ニワトリも歩けばお寺にあたる」ほどお寺があって、先週歩いた「京都」もたじたじだ。散歩しているだけで「六根清浄」できそうだけど、実をいうと、ここ「全生庵」で毎年8月に公開される「幽霊画」を見るのが目的だった。
 現在、中田秀夫監督の映画『怪談』が公開中だけど、怪談噺といえば「牡丹灯籠」「怪談累ヶ淵」で有名な落語家=初代三遊亭圓朝。「全生庵」には彼のお墓があり(墓石を刻んだのは全生庵にゆかりのある山岡鉄舟)、圓朝がコレクションしていた「幽霊画」を毎年8月に開催される「圓朝祭り」の間に見ることができる。公開される絵は年毎に変わるので、毎年楽しめます! 納涼度100%。
 全生庵「幽霊画」ギャラリーはここでも見られるよ~




彼女のような幽霊なら大歓迎? 鰭崎英朋の「蚊帳の前の幽霊」




丸山応挙作と言われている「幽霊図」(左)と、番町皿屋敷のお菊さん(右)




ムンクの絵みたいな「海坊主」(左)と、生首を抱く幽霊サロメ(右)

 



                   

 続いて訪ねたのが根津神社。地下鉄でも行かれるが、団子坂から歩いた。庭のツツジが有名で、花の頃はまともに歩けないほど人で賑わう。今日は数名しかいなかった。団子坂から歩いたので大変暑いが、納涼度(人いない度)75%。


     

 ここから先は、春に紹介した「千駄木ふれあいの森」で涼んだ後、漱石邸跡の「我輩」に挨拶して(ちなみにそのときの記事は、→ここをクリック)、谷中の「夕焼けだんだん」から帰るコースもあるけど、今回は「怪談噺」なので、神社の裏にある「お化け階段」を通って不忍池から帰ることにした。「何度数えても数が合わない」階段を一段ずつ数を数えながら上った。行きと帰りで39段ずつだった。
「何だ、合っているじゃない!」というなかれ。実は39じゃない・・・嘘かまことか、自分でお試しあれ。工事が始まっていて、納涼度(不気味度)0%。(二度も往復したので、いよいよ暑い!)
 最後の写真は不忍池の「涼」たち。たどり着くまでにヘロヘロになったけど、そこはやはり都会のオアシスだった・・・池のほとりにある野外会場では、今宵のお祭りに備えて、ヴァイオリンがリハーサルを重ねていました。納涼度(BGM)100%!


                   



 ピンクの白鳥は暑さにため息をついてる感じだけど、こちらは元気いっぱい獲物を狙う・・・冬の間、水鳥たちで大賑わいだったボート池も、常駐のカルガモ以外の姿はなく、やや寂しい感じ。〈モミの木〉ビルの解体工事が進んでいた。納涼度55%。


                   



                   



 不忍池は蓮で覆いつくされていた。思い切り日差しを浴びる花、日傘を差している花、それぞれの夏。葉っぱにたまった水滴は、蓮のため息かも・・・(蓮の葉っぱが呼吸をしているあかし)。遠くに見える弁天島も蓮の上に咲いているかのよう。
 納涼度73%。ところによりマイナス100%(蓮の葉っぱを吸殻入れにするな!)


 不忍池のほとりに小さな滝があったとは、今の今まで気づかなかった・・・
 納涼度88%。しばし涼んで帰宅。


 ブログを書いてる途中で『ミヨリの森』を見ていたら、爆睡してしまいました。残りの記事は日曜日の早朝書きました。『ミヨリの森』についても後述するつもりですが、書きたい記事がたまってる~~旅日記はどうなった?? 


武蔵国分寺(地元)をゆく ~その2

2007-08-01 23:59:20 | 日常&時間の旅


     


 今から約1300年前の天平時代に、東西900m×南北550mの敷地に鎮護国家の目的で建てられた国分寺&国分尼寺。今のところ「原っぱ」といった様相で、天平の風を感じるにはかなりの「妄想力」が必要だけど、歩くそばからバッタが飛び出す国分寺跡(写真左)から100mほど北上すると、「おや、こんなところに雰囲気たっぷりの門が!」と、木の干からび具合も素敵な国分寺楼門(写真右)が現われ、その奥に、門と同じぐらいの年代を感じさせてくれる万葉植物園が「おいでおいで」をしてくれます。
 国分寺楼門は江戸時代の作。東久留米市の米津寺から明治二十八年に移築されました。そう言われてみると、なるほど唐突な感じもしますが、今では国分寺の玄関門として威風堂々、佇んでいます。
 喉が渇いたので、近くの自販機でパイナップルジュースを買って、門の下で「ぐびぐび」一気飲み、体が涼むと同時にお腹も空いてきたのですが、このあたりには食堂も売店もないので、昼ご飯は当分おあずけです(またしても、食事休憩もない過酷な旅に?)。お弁当を持ってくるべきだった・・・


 万葉植物園は元国分寺市長の星野亮勝氏が、天平時代を偲ぶことができればという意図で、昭和25年~38年の長きにわたり、万葉集に詠われた万葉植物約160種を採集、国分寺境内に造園したもので、集められた万葉植物には名札の代わりに「和歌」がかけられています。以前、飛鳥の甘樫丘を訪ねたときも、散策路のあちこちに「和歌」の表札をぶらさげた万葉植物が植えられていましたが、アイデアはこちらが先かもしれません。いずれにしても、植物好き和歌好き歴史好きには「たまらない」スポットです。上写真のように、国分寺本堂に施された彫刻もなかなか味があります。




                   

(左)園内はこんな感じ。植物名から和歌を詠む【万葉一首】遊びができる!
(右)鶯が鳴く森の中(境内)で和歌を詠む・・・実に優雅だったのですが、何だか足がむずむずする・・・何と、蚊が3匹も生足に止まって吸血中! 暑くても長袖&長ズボンが必要かも・・・自然をなめたらあかんぜよ。


     

 柿本人麻呂(やますげ)と弓削皇子(ゆづるは)の、お気に入りの和歌を発見。人麻呂らしい感情のほとばしった恋歌と、それとは対照的に線の細い弓削皇子の繊細な歌。梅原猛氏によれば、弓削皇子は高松塚古墳埋葬者の最有力候補。万葉最大の歌人=人麻呂についても、そろそろ梅原説(人麻呂刑死説)に耳を傾けてもいい頃では?


                   



 万葉植物園から湧き水の流れる水路に沿って「お鷹の道」を歩きます。ここ国分寺村が尾張徳川家の御鷹場(鷹狩りに使用する)だったこともあって、国分寺崖線から湧き出した水が野川に注ぎ込まれるまでの小径を、いつの間にか「お鷹の道」と呼ぶようになったらしいのですが、私の目には国分寺小町だった「お鷹さん」のいなせな後姿がちらついて・・・


     

 予告編?でも登場した【真姿の池湧水群】は、名水百選にも選ばれており、お鷹の道には、(私自身はまだ見たことがないけど)蛍も生息しているらしく、水路を汚したり餌となるカワニナやタニシを採らないよう、注意書きがところどころにありました。
 〈真姿の池〉の由来は、よくある話かもしれませんが、その昔(841年)不治の病に苦しむ玉造小町が国分寺を訪ね、21日間参詣すると童子が現れ、この池に案内し「池の水で身を清めるように」と言って姿を消し、小町がそのとおりにしたところ病気が癒え、元の美しい小町に戻ったという伝承に従って名付けられました。中央の島には、弁天が祀られています。国分寺崖線から湧き出てくる水はほのかに甘く、「こっちの水は甘いぞ~」と、ホタルに声をがけたくなりました。スイカも冷え頃でおいしそうに泳いでいました・・・

     

 涼んでいるのは「スイカ」だけじゃなくて・・・子供たちは大はしゃぎで水のかっけこ、散歩中の犬も湧水に足を浸してひと休み。実に嬉しそうな顔で佇んでいましたが、水に入れる以前に服を脱がしたほうが・・・




                   

 お鷹の道を歩いて涼んだ後は、蝉の声を聞きながら国分寺仁王門から薬師堂へと階段を上っていきます。万葉植物園の隣にあるのですが、実をいうと、この日初めて訪れました。江戸時代のものですが、目と鼻の先にこんなに素晴らしいお寺があったなんて・・・まったく、灯台下暗しです。薬師堂の本尊「薬師如来」(日光&月光菩薩に十二神将を従えている本格派)は、年一回10月10日に開帳されるとか。今年は見に行くぞ~


     

 格子の隙間から暗闇に浮かびあがる姿を撮らせてもらったけど、なかなかの面構えです。1718年生まれ、身長2.5m(作者は不明)。今にも動き出しそうな阿吽の表情は、運慶・快慶の弟子たちの作品かもしれない?




                   

 隣接する八幡神社の境内に、竪穴式住居の遺跡があります。6.0×4.2mの広さは、当時の標準的な家庭の仕様だそうです。竪穴式モデルルームの次の写真は遺跡ではありません(見ればわかるって!)。


                   

 時刻は午後2時を回っていました。中途半端な時間になってしまったので、西国分寺駅前のファーストフードであわただしく昼食を済ませ、北口に渡り、国分寺崖線湧水群の源泉(野川の水源の一つでもある)【姿見の池】を訪ねました。10万年前の多摩川はこちらを流れていたらしく、5万年前に氷河期が終わると、急な流れが恋ヶ窪谷と姿見の池などの豊富な湧水群を作り出しました。都市化が進み、四十年前に池は埋め立てられてしまったのですが、数万年受け継がれていた環境をわずか40年ほどで失った反省から、再び池が作られました。再生のプロジェクトはまだ始まったばかりですが、カルガモが常駐?しているみたいだし、少しずつ元の姿を取り戻しつつあるのかもしれません。そうなって欲しいです。

 帰宅後、国分寺の湧水群について調べると、大昔の多摩川が武蔵野の台地を削ってできた国分寺崖線は、野川の水源になる日立中央研究所の池(年に一回公開される)から小金井の野川公園まで続いていることがわかりました。次のお休みは、小金井まで歩いてみるのも面白いかも!
 それとも、羽村の堰から玉川上水を下る「江戸の水を巡るPART2」の旅に出ようか? はたまた終戦の日が近づいてきたことだし、多摩に今も残る軍事施設の跡を訪ねてみようか? なんて、遊ぶことばかり考えている今日この頃・・・


 家に帰ってから、市役所で『国分寺の万葉植物』という小冊子を購入していたことを思い出しました。今度、万葉植物園を訪ねるときは、この図鑑を持っていこうと思います。


武蔵国分寺(地元)をゆく ~その1

2007-07-30 23:52:39 | 日常&時間の旅




偶然目の前を通りかかって急停車。展示物を見に行った。
五日間の講習を受ければ、誰もが遺跡発掘に参加できる!
(奇しくも父が申し込んでました・・・)


 予告編に従い?7月28日(土)午前11時、七重塔復元模型のある国分寺市役所を起点に武蔵国分寺巡りの旅(とは大げさな・・・)の始まりです。まずは、西国分寺駅へ。府中街道を下れば簡単に着くのですが、それでは面白くないので、武蔵野台地の谷底を走る中央線(これも大げさな言い回しだけど)を見下ろしながら、舗装されていない土の小道を線路沿いに進み、道が途切れたところにある橋を渡って中央線を跨ぎ、西国分寺駅南口に出ました。


     

(左)八世紀半ばに建てられた高さ60mの七重塔を頭に描きながらスタート。
(右)線路を目指して自転車を走らすと、片手持ちの可愛い鉄塔が・・・東京都とは思えないのどかな光景。それにしても、暑い。これって梅雨明けでは?


     

 駅前には高層マンションや集合住宅が建ち並んでいますが、このあたりは掘れば何かが出てくる場所で、工事着工前には必ず発掘調査が行われていました。そのせいで、団地の中を横切る静かな通りも「史蹟通り」と呼んでいるのかな? 尼寺跡に向かう坂道(昔から裏道に使われていて、すれ違いもやっとなのに交通量が多い)の入口にも小さな彫刻が・・・今日初めて気がつきました。


    

 童女が案内してくれる〈むさしだいこみち〉を下ると、国分尼寺跡に出ます。左の写真の道標に従って林の中を歩いていっても(台鎌倉街道)西国分寺駅に戻れます。林の中は車も来ないし気持ちがいい~! 写真だと、やたら自然が豊かな印象ですが、実際はほんのわずかの空間で、初めてここを訪れたら、がっかりしてしまうかもしれません。でも、東京都に自然と歴史が残っていることがうれしい・・・


                   



(左)国分尼寺。中門のあたりから金堂(緑の台地の部分)を望む。
(右)尼僧たちが暮らしていた尼坊跡。聖武天皇の詔に従い、ここ武蔵国に、国分寺と国分尼寺が建設された。今でいえば、大学院と県庁を兼ねた存在だった?




                   

 尼坊跡の裏の公園では、お母さんと小学生の娘と小さな弟がピクニックを楽しんでいました。炎天下に立つと肌がじりじり焼かれ、たちまち汗が噴き出してくるけど、木陰は気持ちのいい風も吹いて、昼寝に最高~。一歩林の中(台鎌倉街道)に足を踏み入れれば、体感温度はさらに下がります。クーラー要らず。
 そして、遺跡を横切っていく武蔵野線。マイナーだけど雄大な弧を描き、武蔵野の台地に相応しい環状線だと思います。
(武蔵野線経由で東京駅に行くほど「テツ」じゃないけど)
 武蔵野線は、西国分寺の次駅になる府中本町が終点だと思われているけど、実はその先もあって、貨物列車が走っているんだって!
(ずっと地下を走るのも秘密基地的)
 遺跡と鉄道って、意外といいじゃん。そういえばびわちゃさんも平城京の朱雀門と近鉄車両のペア写真を撮っていたっけ(こっちはド田舎の武蔵国だけど)・・・




                   

 武蔵野線の高架をくぐって府中街道を渡ると武蔵国分寺跡に出るのですが、その途中で冒頭の展示室を発見。当たり前の話だけど水のあるところに人の暮らしあり。縄文時代まで人々の暮らしを遡ることができます。


 本日最後の写真は、武蔵国分寺の七重塔跡。是非とも本物を再建してほしい。道路を挟んでこちら側は、今も発掘調査中のため、あちらこちらにブルーシートがかかっているなど、尼寺のように整備されておらず、国分寺跡は毎年この時期になると、草のいきれが強烈な「夏草や~夢のあと」と化します。子供がショウリョウバッタを追いかけていました。国分寺は、分倍河原の戦いで完全に焼失したらしい。
(ということは、新田義貞が?)

 「鉄子の旅」ならぬ「トシ子の旅」は、明日に続きます。数時間の出来事をひっぱるなって・・・


やっぱり「国分寺」だべ! ~ 万葉植物園からお鷹の道を歩く(予告)

2007-07-28 20:50:35 | 日常&時間の旅


名水百選にも選ばれた国分寺の湧水


今日の土曜日は休むことができて、その代わり明日は出勤です。朝からきっぱりました。に乗って市役所で事前投票を済ませた後、久しぶりに近所をしました(途中、例によってとなり、な結果に・・・)。夜はごろごろと、感じで寝過ごしました。日付が変わっちゃった!そろそろ起きてブログを書こう~


          

 国分寺市役所正面玄関前にある七重塔の十分の一模型。武蔵国分寺は全国に建てられた国分寺の中でも最大級の規模を誇ったそうです。建立の詔を出したのは聖武天皇(日本史、覚えてますか?)。高さ60mの七重塔を復元しようという運動もあるらしいのですが、その前にこの庁舎を建て直さなければならなくなってしまいました・・・自分が子供の頃から今の庁舎なんだけど、このたび耐震強度不足が判明して・・・どうなる国分寺市?

 
 ごめんなさい、今日はここまで。残りは日曜日に(って、もう今日ですが)帰ってきてから書きます・・・


自転車に乗って ~ 旧多摩聖蹟記念館から四谷通りへ

2007-07-11 23:58:32 | 日常&時間の旅


 自転車に 夢と希望と 君乗せて 空まで続けと 思う坂道 


 徹夜明けで帰宅すると、写真部だったあんこさんが(愛機はOM-1!)こもっていた暗室の鼻にツーンとくる現像液の香りと、あきざくらさんの素敵な一首が届いていました。うんうん、私も力いっぱい自転車漕いだことがありました(あの日に帰りたい)。あんこさん&あきざくらさん、ありがとう~




丘の上にこんな素敵な場所があったなんて・・・




都立桜ヶ丘公園でナナフシと遊ぶ♪
逃げるのをあきらめてフリーズしたところ
(トシ子さん、指が短いんですね・・・)


 今の若い人は殆ど知らないと思うけど(若くない私も知りませんでした)、「聖蹟桜ヶ丘」の頭についてる「聖蹟」とは、そこを天皇が訪れたことを意味しています。今は都立公園になっている桜ヶ丘公園(連光寺)や多摩川に、明治天皇がウサギ狩りやアユ漁をするために何度も訪れたそうです。昭和5年(1930)、明治天皇の偉業を讃える「旧多摩聖蹟記念館」が丘の上に建てられ、駅名も「関戸」から「聖蹟桜ヶ丘」に変わりました。
 京王線に乗って4年間通学し、桜ヶ丘公園前の道路を百回以上通りながら、記念館&公園をスルーしていたニワトリは、せっかくここまで来たのだから、記念館を訪ねずに帰る訳にはいかないと、丘の上を目指しました。

 川沿いに住む人々が植えたのでしょうか、花が咲き乱れる大栗川に沿って鎌倉街道まで走り、川崎街道のバイパスを上って山頂(大げさか?)にアタックをかけましたが、これがきついのなんのって・・・バイクで一気に駆け上がるのとはわけが違って、全身から汗が噴き出し、息は切れるわ、膝は笑うわ、奥多摩の「昔道」のきつい上りを思い出しました。代休の日に何でこんなに苦しい思いをしているのだろう?
(大栗川はバイパスの橋の下あたりで乞田川と合流して多摩川へ流れこんでいて、川沿いを歩くのも楽しそうでしたが、このときは景観を楽しむ余裕もなし・・・)
 



                    

(上)漕ぐのはあきらめて自転車を押すこと何分、「桜ヶ丘公園」と書かれた広場に前に着きました。
(下)「やった~」と思ったのもつかの間、第2いろは坂と呼びたい「つづら折り」が待ち構えていた・・・ここって、東京都なんですけど?(遥か彼方に街が見える・・・思えば遠くにきたもんだ?)「ゆうひの丘」と呼ばれている分園でした。


     

 都立桜ヶ丘公園は28万平米と広く、高低差が数十メートルもあるので、園内を散歩するというより、森をハイキングする気持ちで訪れた方がよさそうです。聖蹟桜ヶ丘からバスが出ているので、私のように悲鳴を上げながら坂道を上る必要はありませんが、園内散策するならば最低2時間ぐらい時間を確保しておいたほうが良いでしょう。
 私が着いたときは16時半をまわっていたので、旧多摩聖蹟記念館の館内に入ることはできませんでした。大正モダンを感じさせてくれる洒落た建物を設計したのは関根要太郎という方でした。隣の写真は、草木に止まっていれば気がつかなかったのに、白壁で枝のふりをしていたナナフシ。トシ子に見つかってオモチャにされるとは、この時点では思っていなかったでしょう・・・
 新宿の高層ビル街が見えると言われている聖蹟桜ヶ丘ですが、この丘から西に目をやれば、奥多摩山系から南アルプスの山々まで見渡すことができます。


 坂道を一気に下って(あまりにスピードが出るので少し怖かった)鎌倉街道を右折し、関戸橋を渡って中河原駅の高架をくぐりました。後は帰るだけだったのですが、その直後、四谷通りの案内標識に目が止まり・・・洒落た標識の通りを行くと、その先に私が初めて想いを告げた同級生の家があったのです。
 高校一年の秋、彼女のピアノに一目(耳)惚れした私は、バックアップ軍団(恋の悩み?の相談口)に付き添ってもらって(確か男子6人女子3人で)原宿へ遊びに行き、帰りに初めてこの道を通りました。
 冬の日の放課後、軍団に後押しされて想いを告げることになったのですが、約束どおり校舎の屋上に来てくれた彼女と満足に話すこともできず、1時間ほど二人で中央高速を流れていく車や、雪をかぶりだした富士山を眺めていました。
「やはり、トシには無理だったか・・・本当は直接口にすべきなのだが、こうなったら仕方がない。得意の文章?で行け」
 その日の晩に手紙を書きました。それから何度、学校と彼女の家のポストを往復したことでしょう・・・
 『耳をすませば』で、屋上・自転車・図書館・京王線(これはまた別のお話)・ラーメン屋といったアイテムが登場するたびに、胸がドキドキしたり、ズキンと痛みが走ったのも、当然といえば当然だった?


     

 
           

 標識を眺めていたら、母校の都立府中西高の姿を見て帰ろうという気持ちになりました。ここで寄り道するなら燃料が必要だと、たまたま案内標識の向かいにあったお店で二個90円!のお団子を買い、四谷通りを漕ぎ出しました。
 記憶力がすっかりなくなっているのに加えて、景色がものすごく変わってしまったため、学校に向かう道の交差点がわかりません。適当に曲がると見たこともないバイパスに出て、わからないなりにその道を行くと懐かしい学校の前に出ました。あたり一面田んぼだったのに、住宅が立ち並んでいます。それでも、校舎の周りは田んぼが残ったままで、用水路を流れる水の音を聴きながらお団子を食べました。お団子はとてもおいしく、お土産にもっと買くべきだったと後悔・・・みたらし40円あんこ50円だったのに~
(他にきなこ団子や、稲荷寿司など)



                   

 タイムスリップしたみたいに、昔と何ら変わっていなかった風景。正門とグランドへ続く道・・・6時前なのに、生徒の姿を一人も見かけませんでした。期末テストの最中だったのかな?


     

 外周道路(というより通路)を一周してみます。入り組んだ用水路とカルガモが優しく迎えてくれました。ラグビー部時代に何周も走った外周道路は、今と違って埃舞う砂利道だった・・・
 家から高校まで通学路に使っていた道が何種類かあったけど、その中から谷保天神経由の農道を選んで同じように走ってみました。こちらの方が宅地化が進んでいて、かなりの数の田んぼが建売住宅に変わっている・・・変わらないのは人の心だけ?
 いいえ、この景色も不変でしょう。田んぼの水に夕暮れの空が写りこんでいました。写真よりもずっと美しい光景だったのですが・・・



 毎年のように大雨による災害が起きていますが、集中豪雨も温暖化のせいかもしれません。被災地の方々には心からお見舞い申し上げます。


自転車に乗って ~ コンクリートロードを口ずさみながら

2007-07-09 23:56:10 | 日常&時間の旅




地球屋があったロータリー


 『耳をすませば』の熱心なファンが秘密の場所(秘密の場所は耳丘ではないという説もあり)を発見した頃、下の写真に写っている高層ビルは工事中でした。それ以前に、私が昼も夜もいろは坂を上っていた頃は、目線より背の高い建物はなかったような気がします。坂道をぐんぐん上っていきながら、町を見下ろせば鳥の気持ちも味わえた? いや、本当です。今でも・・・
 
                   
                   



 歩いていればたちまち息が切れるし、自転車のペダルも非常に重たくなるのですが、右手に広がる町の景色が「嫌なこと全て」を忘れさせてくれます。思わず「わあ~」と歓声を上げてしまうかもしれません。
 夜は夜でまた素晴らしく、それは夜景が綺麗というのとはちょっと違って(もちろん綺麗なのですが)、明かりのついた部屋や、団地の階段の踊り場、街灯の下を歩いている人、公衆電話ボックスなどがくっきりと浮かび上がって、まるでミニチュア模型のように見える感じがとても好きだったのです。
(ミニチュア模型といえば、ティム・バートンの『ビートル・ジュース』(88)で、主人公が屋根裏部屋で作っていた町の模型がとても素敵でした)
 夜の明かりは、いろいろなことを私に語りかけてくれました。


                   



(上)映画の中では、最初のヘアピンカーブのところに雫が通いつめてる(お父さんの職場でもある)図書館がありましたが、実際は〈いろは坂桜公園〉のいう名の空き地です。今はフェンスがかかっているけど、その先に〈耳丘〉があるんだって・・・
(下)いろは坂のヘアピンカーブ。写真は最初のヘアピンカーブで、右隅にかすかに見える横断歩道の先に、雫が地球屋に向かったとき通った階段が見えます。松の木もそのまま描かれています。


     

 いろは坂を横切る階段。全部で三つある。左が最初と二番目の階段で、右が二番目の階段。位置的には猫を追いかけて上った階段になるのですが、モデルになった竹林の中を行く階段は、いろは坂からやや離れたところにあるそうです。


           

 いろは坂の三番目の階段。ごらんの通り、とても長い。地球屋の帰りに通った道。階段を上がったところに、雫が杉村から告白された神社がある。


           

 いろは坂の頂上にある金比羅宮。小さな神社です。少し先を行くと、関戸城跡の天守台があります。映画の中でも天守台と呼ばれていました。昔は木々が今ほど茂っておらず、ここからの夜景もなかなかのものでした。


                   



(上右)いろは坂を上って道なりに行くと、地球屋があった〈さくら公園〉のロータリーに出ます。駅でもないのにロータリー? 昔から不思議に思っていましたが、いろは坂へUターンするには都合の良い場所でもありました。ロータリーを中心に5本の道が放射状に伸びています。ロータリーの向かいにあるバームクーヘンを三分の一切ったような形をした建物(白地に赤屋根の建物)も大変ユニーク。8店舗が入ってミニ商店街を形成しています。手前に見える自転車はバロン・トシ子が漕いでいたもの。
(下左)地球屋から見える光景は、こんな感じだったでしょうか? 天気の良い日は新宿の高層ビル街も見えたと言われています。五差路の一つから見た光景です。

 聖司には秘密の場所がありましたが、桜通りからロータリーにかけての道が、私の秘密の場所でした。この先の道路を下って雫が住んでいた愛宕団地(給水塔でそれとわかる。聖司が雫を迎えに行く場面は、東寺団地がモデルになっているとか・・・)を尻目にニュータウンに入り、向かいの丘の上のワインディングロードを夜景を眺めながら流して、鎌倉街道と交差する川崎街道の長い坂道を風のように降り、関戸橋を渡って帰宅する・・・
「この道」を、一番大切な人に見せてあげたいと、常々思っていました。

 さくら公園のロータリーで一休みした後は、聖司じゃないけど、雫が作詞した「コンクリートロード」を口ずさみながら、一気にいろは坂を駆け下り、次なる目的地である
旧多摩聖蹟記念館へ向かいます。

 ♪~ コンクリート ロード どこまでも 森を切り 谷を埋め
     ウエスト東京 マウント多摩 ふるさとは コンクリート ロード ~♪

 明日は徹夜工事なので、最終章は水曜日にUPできるといいのですが・・・        


自転車に乗って ~ カントリーロードを聴きながら・・・

2007-07-08 23:50:50 | 日常&時間の旅



 ~~この映画を見ると、自分の心の中にある大切な記憶が蘇ってきます・・・
同じように悩んだり、互いの夢を語り合ったり、
純粋な心で未来と向き合っていたときのことを~~


 mamemoさんから上に記したような素敵なコメントを頂き、背中を押してもらったバロンです(びわちゃさんの近藤さんのことや、まめちゃんの息子さんの話も、ありがとう~)。正確にいうと、坂道を喘ぎながらペダルを漕いでると、後ろからすーっと風が吹いてきて不意にペダルが軽くなった、とでもいいましょうか・・・

 ここから話を始めようとは思っていなかったのですが、自転車と坂道といえば、映画『耳をすませば』のラストシーンにかけて、二人は聖司の自転車で「秘密の場所」に向かいます。
「雫を乗せて坂道を上るって決めたんだ」と言い張る聖司に対して、雫は「お荷物だけなんてヤダ、私だって役に立ちたいんだ」と叫ぶと、荷台から飛び降りて自転車を押しました。二人一緒に力を合わせて坂道を上り、たどり着いた聖司の「秘密の場所」で、雫は聖司からプロポーズされました。
 あの日から12年の月日が流れました。二人はもう27才の大人です。
 口の悪い人は、「どちらかに恋人ができるか、二人とも恋人ができるかして、それっきり別れてしまった」と言いますが、「それっきり」になってしまった約束に覚えのある人は、かすかに生じた痛みと共に微笑んで、「それなら、それでいい。むしろ、人生はそういうものだろう。でも、二人は一緒になったと思うよ」と、答えます。幼馴染の恋人同士が結婚した例もまた、身近にたくさんあるからです。
 
 先ほどの口の悪い人は、「だいたいさ~、聖司があんなに格好良いい奴じゃなくて(中三のくせに、バイオリン作りの職人になりたい、なんて渋すぎだよ)、デブで汗っかきのオタクだったら、ただの気持ち悪いストーカーじゃん。図書カードの件でも異常だと思っていたけど、明け方に他人の家にやって来て、部屋の窓を見上げるなんて、不気味そのもの。たまたま彼女が現れたら、「すごい、奇跡だ」「俺たち、スゴクない?」って、思い込みが怖い。そんでもって、いきなり「結婚してくれ」でしょ。完全な変態じゃん。それとも、ルックスがいい奴は何をしても許されるのか?」と、私に詰め寄ります。

 さすがに中学生の高学年になると、好き=結婚ではなかったのですが、『小さな恋のメロディ』がそうだったように、好きと結婚がイコールだった時期が私にもありました。だから、聖司のプロポーズを論理の飛躍だなんて、思いもしませんでした。
(将来をしっかり見据えている聖司だけど、結婚の約束を交わすなんて、まだ子供だったんだよ。純粋だね~)
 
 聖司や雫が生まれた頃にこの付近を徘徊し、彼らも乗っていた今は無き京王線5000系に乗って通学していたバロン・トシ子の時代は、誰もが聖司や雫(というより、夕子や杉村か)と同じような青春を送っていました。「告白」なんて、友達の助けを借りなければとてもできず(そして夕子や杉村のように片想いを知らされる)、「好きな人ができた」ところで、バス停や駅のホームで待ち伏せして、同じ車両に乗る程度のストーカー行為がやっとのことだったのです。
 今ではそうした慣習はなくなっていると思いますが、私の中学&高校時代には、学校行事(文化&体育祭、遠足&修学旅行など)があると、専属カメラマン(今考えると、撮影者は写真好きの先生だったのかも)が撮影したスナップ写真が廊下に張り出され、自分が写っている写真を探しては一枚幾らという具合に焼いてもらっていました。私は実行できなかったのですが、こっそり「好きな人の写真」を手に入れるには絶好の機会だったと思います。

 こんなこともありました。高校二年生のとき、なぜか写真ブームが起きて(単なるマイブームだったのかも?)、父から借りたオリンパスのOM-2に150mmの望遠ズームと50mmの単焦点レンズを装着して、スナップを撮りまくっていたのですが、そのとき「好きな子の写真を撮るよう」多くの男子に頼まれました。
(女子からは、ラグビー部の格好良い二人の先輩の写真をねだられました。好きな人が誰か知られたくなかったのでしょう、ネガを丸ごと貸してほしいと言われたこともありました。そうそう、キャプテンの写真が欲しいという子も・・・) 
 自分の好きな人の写真も、これ幸いと白昼堂々撮ることができたので、見たこともない他クラスの女子だろうと、片っ端から撮影しました。カラー写真はフィルム&現像料共に高価なので全てモノクロ写真でしたが、いい感じに撮影できた彼女の写真を四つ切りサイズに引き伸ばしたのも、今では懐かしい思い出です。
「何で○○の写真ばっか、あるんだよ~」
 私の気持ちは皆にバレバレだったみたいですが、程度の差こそあれ、誰もがストーカーだったような気がします。理想や夢を語るかたわら、実に小さなことで悩んだり、やきもきしていたあの頃・・・

 いろは坂の手前から話が全然進まないので、ここで一端切りますが、実際の自分は大栗川を渡る霞ヶ関橋から一気に自転車を漕ぎ出しました。
 先日疑問に思った桜通りの桜の木の大きさですが、今の小さい桜は植替えられたものだそうです。5000系に続いて6000系も殆ど引退したそうですが、自分が撮影した「関戸橋を渡る京王線」がクリーム色の車体であることから、たまたま珍しい6000系が通りかかったのでしょう。ラッキ~♪





 駅周辺の上空に突然出現した巨大な「怪獣雲」が、いろは坂を越えていきます・・・
 私にとっての『耳をすませば』は、まず第一に、青空に浮かんでいた幾つもの白い雲が思い出される作品ですが、ここ聖蹟桜ヶ丘では、このような感じの不思議な雲がよく現われるのです。
(まず、空が広いというのがあるんだけど)


『自転車に乗って~』の記事を続ける前に・・・

2007-07-07 23:57:30 | 日常&時間の旅


この日、最後に訪ねた母校・・・


 まず最初に、『耳をすませば』の聖地を走る・・・なんて、軽々しく書いてしまったことをお許しください。というのも、あれからブログを書く際の参考にしようと、作品に関連したHPを閲覧したところ・・・

【閑話休題】 何しろ、情けない話ですが、物語の内容を殆ど忘れてしまい、スタッフ&キャストを眺めていたら、雫のお父さんを演じていたのは、あの立花隆さんではありませんか! そういえば映画館で鑑賞した際に、「『となりのトトロ』で、五月とメイのお父さんを演じた糸井重里も悪くなかったけど、立花さんのお父さんもなかなかいいじゃん(お母さんは室井滋!)。図書館員の仕事も、本の虫の彼にお似合いだし・・・」という感想を抱いたことを思い出しました。ちなみに、予告編の「好きなひとができました」というキャッチコピーを作ったのは、かくいう糸井さんでした。

 あるわあるわ、それも非常に熱心なファンによるものばかり。
 例えば、物語の舞台となった聖蹟桜ヶ丘の案内マップにしても、ヒロインが住んでいた団地や、よく利用していたコンビニやラーメン屋、猫を追いかけた階段(実は、いろは坂の階段ではなかった・・・)、高台から望む景色が素晴らしい通学路、(実際はいろは坂にはない)雫が通う図書館のモデルになった図書館まで探し出した人が結構いて、映画の中で出てきた風景と実際の風景との対照表を作ってまとめた人や、自分が撮影した電車の車内や聖蹟桜ヶ丘の風景を背景にヒロインの雫を歩かせた人とか、よくぞここまでと感心するばかりの凝った内容でした。
 
 皆が皆、この作品に相当な思い入れを持っているのでしょう、実に細かい物語の筋と感想が書き込まれたHPや(おかげで、DVDをレンタルせずに内容を把握できました)、はるばる九州から来られた方の「耳すま」訪問記など、微笑ましいものも多かったのですが、私などはすっかり忘れてしまい、単に地球屋の裏から眺めた景色だと思っていたクライマックスの「秘密の場所」への想いは半端でなく、その地はいつしか「耳丘」と呼ばれ、正しく『耳をすませば』の「聖地」となりました。訪れた人が書き込みができるように、大学ノート=「耳ノート」が置かれましたが、何度か「耳ノート」が盗まれる事件が発生し、2004年以降はフェンスが張られ、「耳丘」に立ち入ることができなくなってしまったとか・・・

 こうした「ことの次第」を知るにつけ、「いい加減なことは書けないぞ」という気持ちになったのですが、これから綴る文章は「映画について思い出すこと」ではなくて、自分の高校&大学時代に見たことのある風景が映画の中に出てきたことから生じた思い」についてです。雫や聖司が映画の中では中学三年生だったのに、自分の記憶の中では高校生になってしまっていたのも、きっとそのせいです。この映画の中で起きた出来事は、事実関係に多少の違いこそあれ、全て高校時代に起きた出来事だったことを、今はっきり思い出しました。

 それでは、改めてのちほどお目にかかりましょう。

                                    By バロン・とし子


 おっ、今宵は七夕だったんですね~