当時の宗教指導者たちは、神に祈ろうとする者にいろいろな条件と資格を要求したが、今も多くがおなじことをしている。たとえば、祈りを聞かれたいと思うなら、献金せよとか、これこれの犠牲を払えとか…。
だが主は条件をつけずに「だれであっても」祈り求めるなら、必ず聞かれると約束された。これほど私たちに勇気を与えてくれることばはない。だから、どのような時も、主のことばを信じ、期待して祈ろう。
ところでここに、祈りの具体的内容として、求める、捜す、たたくの三つが挙げられているのは大切だ。というのは、求める気持ちがあってこそ祈りは生まれるし、神のことばを調べ、その約束に立って願う、つまり門をたたくという祈りになっていくからだ。今日も「わたしに何をしてほしいのか?」と尋ねておられる主に、「私の願いはこれです」とハッキリ答えようではないか。
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愛の章(文語訳)<o:p></o:p>
愛は寛容にして慈悲あり。<o:p></o:p>
愛は妬(ねた)まず、愛は誇(ほこ)らず、たかぶらず、<o:p></o:p>
非礼をおこなわず、おのれの利を求めず、いきどおらず、人の悪をおもわず、<o:p></o:p>
不義を喜ばずして、真理(まこと)の喜ぶところを喜び、<o:p></o:p>
おおよそ事しのび、おおよそこと信じ、おおよそこと望み、おおよそこと耐うるなり。<o:p></o:p>
愛はいつまでも絶ゆることなし。<o:p></o:p>