「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3:21新改訳)
七つの教会へのメッセージを読んで気がつくのは、「勝利を得る者を(は)」という語がかならず記されていること。つまり、私たちが地上で教会の会員として登録されていることが、そのまま天における身分を保障するものではない、という事実である。▼キリスト者として、地上の信仰生涯を勝利のうちに走り抜いたかどうかが、天に於ける永遠の祝福を決める。だから全会員が栄光にあずかる教会もあれば、わずかな人しかあずかれない教会も出るということだ。考えてみればこれはおごそかな事実だと思う。そしてなぜパウロが次のように告白したかもわかってくる。「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」(Ⅰコリント9:24同)▼願わくは主が、私たちを信仰の勝利者として天に迎えてくださるように。
もうひとつ、七つの教会へのメッセージを読んで気がつくのは、そのどれもがかならず、「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」で終っていることである。▼すなわち、勝利を得る必須条件は「御霊が言われることを、信仰と謙遜に満ちた心で受け止め、おそれおののいて御霊と共に歩む」ことであろう。それが競争を走るということであって、自己努力で必死に何かをするということではないと思う。「聞く耳を持たない」とよく言われるが、高ぶりに支配された人は忠告に耳を貸さないものである。▼まして、キリスト者の心に、いつもみことばをもって静かに語りかける御霊のお声を、残らず聞こうとする従順な霊性を備えることは、どんなに大切であろうか。
われと主の間に隔てはなし み顔仰ぎ み声聞くは いかなる幸(さち)ぞや
世の騒がしさより逃れ出でて いと静けき細きみ声 今しもわれ聞く
疑わず恐れず私(わたくし)なく 何事をもありのままに み前に披瀝(ひれき)す
主の語りたもうを我は聞けり この世はなく我またなく ただ君いませり
<新聖歌36 詞:E.H.H(UN)>