しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <御霊が望むこと>

2022-01-14 | ガラテヤ

「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」(ガラテヤ5:17新改訳)

パウロが宣べ伝えた福音は、「人は律法を守ることによっては救われず、ただキリストを信じることにより救われる」というものであった。それなら、救われた人は律法を行う必要はなく、罪を自由に犯してもよいのか?ということになるが、答えは否である。▼キリスト者の人格中には御霊(聖霊)が来て住み給う。このお方は、キリスト者が肉の行いをするのを喜ばれない。未信者のときには肉欲にふけることを喜んでいた私たちだが、御霊は私たちの良心を内側から覚醒し、罪の行為に対する嫌悪の情を新しく燃え立たせるのだ。すなわち、神の律法が新しい生命として喜びをもって宿る状態になる、これが新創造されたキリスト者の歩みである。▼何と大きな変化であろう。外から押し付けられた律法の縛りではなく、内側から愛するお方といっしょに、喜びにあふれつつ主の望まれる道を行く、これが御国への道である。

主イエスは仰せられた。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです」(ヨハネ10:4,5同)と。▼御聖霊が来てくださると、私たちの心には主イエスの声を聞き、そのあとについて行くことを喜ぶ心が生まれる。思えばふしぎな変化である。こうしてキリスト者は毎日、いそいそと信仰の道を歩んで行けるのだ。それは楽しく、満ち足りた心をともなう歩みである。同時に、未信者時代よろこんでいた不道徳やさまざまな暗闇の行いに対する興味を失い、むしろそれに嫌悪感を抱くようになる。かくして、心を一新された信仰者は力から力へとシオンの大路を歩み、ついて神にまみえることになる。詩篇の作者たちが歌っているように。