「そこでイエスは言われた。『下がれ、サタン。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」と書いてある。』すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。」(マタイ4:10、11新改訳)
荒野での誘惑をみると、三つの誘惑が食欲、名誉心、礼拝からなっていることがわかる。これは人間がからだ、心、霊から成ることと対応し、悪魔がこの三つをイエスにおいて崩そうと計画してきたのである。▼そして、最後にねらったのは人となられた主の霊性を支配することで、「もしひれ伏して私を拝むなら・・・」(9)というのであった。これは私たち人間、神のかたちに造られ、地上で生を受けた存在にとり、最大・最高の問題は「だれを礼拝するのか?」ということなのだという事実を意味している。言いかえれば、悪魔が最大の目標にしているのは、人間の霊性から礼拝を奪うことなのである。特に、キリスト者こそ悪魔の最大の目標で、この人々から礼拝の行為、習慣、霊性と信仰を奪えば、サタンの王国はより鉄壁になること請け合いである。▼不可能と知りながら神の子を「もしひれ伏して私を拝むなら・・」と誘惑したのはそのためであった。そこで浮かび上がるのは、キリスト者は礼拝を最大のものとして生きるべき、ということ。主日礼拝を何かの都合で簡単に休む、などというのは、本当は決してあってはならないことである。▼荒野で40日間断食し、衰弱のきわみ、一本のマッチの軸が支えなしで立っているようなナザレのイエス、そこへ知恵と力で最高に造られた悪魔(もと天使長)が全力で襲いかかった。それでも彼はイエスを倒せなかったのだ。私たちの礼拝はどうあるべきか、を主イエス・キリストは示された。この主の御足跡について行く人々、まことの「礼拝の民」によって、来るべき新天新地は造営されることになろう。