「祭司は祭壇(さいだん)の上で、全焼のささげ物と穀物(こくもつ)のささげ物を献げる。祭司はその人のために宥め(なだめ)を行い、彼はきよくなる。」(レビ記14:20新改訳)
病気はその症状がなくなり、皮膚(ひふ)から消えたときをもって治癒(ちゆ)したといえる。人はそれで喜び、健康になったというが、聖書は神の前にきよいと宣言され、はじめて完全に癒(いや)されたという。昔のイスラエルでは祭司がその人のために犠牲(ぎせい)をささげ、血と油をからだにぬり、きよいと宣言することが必要であった。▼現代人は病院と医者の治療(ちりょう)が全部と考えるが、人は創造主に造られ、その生命はもちろん、からだのすべてが神の支配下にあることを知らなければならない。したがって、その人の信仰と生きる目的が、ご聖霊の完全な支配の中に明け渡されてこそ、身も心も健全になったということができる。その意味からいえば、キリストを救い主、癒やし主と仰(あお)がない生き方は、たとえ肉体の全部分が「問題なく機能(きのう)していた」としても、健康とはいえない。大祭司キリストを心の王座に迎えてこそ、人ははじめて健(すこ)やかになる。