しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅱ列王記15章 <メナヘム>

2020-08-31 | Ⅱ列王記

「彼は主の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。」(Ⅱ列王記15:18新改訳)

メナヘムは北イスラエル一七代目の王で、彼の治世から二〇年を待たずに、イスラエルは地図から消えて行く。▼この頃、北方には大国アッシリアが興り、イスラエルに襲来するようになった。メナヘムは侵略から国を守ろうとして莫大な金銀をアッシリア王に贈ったが、かえって侵略者たちの征服欲をかき立てたのであろう、とうとうイスラエルは捕囚される結果になった。▼まことの神への信仰と敬虔を土台に据えない国家は、一時的に栄えることはあっても、最後には滅びるしかない。ネバテの子ヤロブアムがベテルとダンに金の子牛を祭り、偶像礼拝を北王国の柱としてから計二〇人の王が立ったが、だれ一人この偶像を廃棄した者はいなかった。人の心深く潜む「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3同)を破る罪は、ただイエス・キリストを内に宿すことによって、きよめられる。◆それにしても、「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」という表現は常套句のように列王記に記されていて、読む者をあきれさせる。人間はどうしてかくも偶像礼拝にしばられるのであろう。そもそもネバテの子ヤロブアムはソロモン王国が分裂したとき、神から十部族を与えられ、北イスラエルの王に指名されたのであった。だから心配せずに感謝して王位を受け、心をこめて国をつかさどるなら何の心配もいらなかったのだ。◆ところが彼は不信仰を起こし、「エルサレム神殿が南王国にある以上、民は毎年礼拝のためそこに上るだろう。そうすれば民心は私から離れ、いつのまにかわが国は南に吸収されてしまう」と心配したのであった。それを防ぐには、エルサレムに上らなくてもいいよう、北王国にエルサレムに匹敵する神殿施設をこしらえるしかない。そうすれば人々はこの国の中で礼拝をするようになるから国は安定する。こう考えた彼は、ベテルとダンに金の子牛を御神体として据え、希望すれば誰でも神殿祭司になれる制度を作った。つまり偶像礼拝の動機は人間的不安と神への不信仰からであり、いったんそのレールが敷かれると、三百年近く続き、とうとうイスラエルはその罪のため滅んだのであった。使徒パウロは短いが、厳粛に宣言している。「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23同)◆私たちはいつも自分の行いを光に照らしていただき、はたして私の行動は本当に信仰の動機からでているだろうか、と問いかけるべきである。

 

 


朝の露 Ⅱ列王記14章 <のぼせたアマツヤ>

2020-08-27 | Ⅱ列王記

「しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。」(Ⅱ列王記14:11新改訳) 

ダビデから数えて11代目にあたるアマツヤは二五歳でユダ王となったが、先祖ダビデのように苦難のなかで訓練されたわけではなかった。今でいえば、大卒で就職したばかりの青年である。王宮でほめられながら育った苦労知らずのお坊ちゃんが、いきなり一国の王になったのだから、へりくだって神を仰ぎ、敬虔に生きることは至難のわざであった。▼そのため、エドム戦で勝利をおさめると心が高ぶり、自分は強い王であると思い込んだ。取り巻きの将軍たちがおだてたのかもしれない。「王様、あなたなら向かうところ敵なしですよ」とかなんとか言って・・・。しかもアマツヤはさらに罪を犯した。征服したエドムの神々に魅せられ、それらを持ってきて自らの神々として立て、礼拝したのである。主の預言者が、偶像礼拝をきびしく責めると、かえって怒り、おどかして黙らせたとは(Ⅱ歴代誌二五章)ごうまんこの上ない態度であった。▼こうなると誰も彼を止められない。アマツヤはエドム戦の余勢をかって北イスラエルをも打ち負かそうと戦いを始めたのである。その結果はみじめな敗北。エルサレムの財宝はみな奪われ、最後は家来に殺されてしまった。まだ54歳で・・・。なにやら、ダビデの息子、アブシャロムやアドニヤの最後と似ている。◆どんなことがあっても主をおそれて歩み、信仰をまもる、それがすべてである。そして若い時は、とにかく自分の未熟さを心に自覚し、おだてにのらず、識者や思慮深い年配者の反対意見、忠言などに謙虚に耳を傾けるべきである。昔から言われているではないか。「聞くはいっときの恥、聞かぬは末代の恥」と。

 

 


朝の露 Ⅱ列王記13章 <エリシャの死>

2020-08-26 | Ⅱ列王記

「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、『わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫んだ。」(Ⅱ列王記13:14新改訳)

危篤のエリシャを見て、その上に覆いかぶさるように伏し、泣いたヨアシュ王(北イスラエル13代目)。偉大な預言者を失い、どんなに心細く感じたことであろう。▼だがヨアシュについて、列王記は「彼は主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた」(13:11同)と記している。 彼がもし以前からエリシャのもとに行き、事あるごとに相談し、神のみむねを伺い、従っていたら、北イスラエルの運命はどんなに変わっていただろう。預言者が死ぬ直前に駆けつけて悲しんでも、すでに遅かったのだ。▼かくしてエリヤ、エリシャという不世出の預言者を与えられた北王国であったが、信仰的な面で愚鈍な王ばかりが続いたため、滅亡への道を引き返すことはできなかった。この点では、南ユダ王国も本質的に変わらなかったといえる。◆両王国の歴史を眺めて感じるのは、偶像礼拝を慕い求める国民の心をストップさせることがいかにむずかしいか、という事実である。それが王たる者の使命であるが、取り巻き連中である首長たちが王を持ち上げ、巧みに操縦して自由宗教への道を歩ませる例が多々みられた(たとえばⅡ歴代誌24:17)。唯一の神とその律法を固く守る道は、大部分の民にとっては窮屈で苦痛であったにちがいない。だれでも好きな神々を拝み、山や森の中に社を作り、いけにえを献げ、ひそかに淫行と肉欲の楽しみにふける、それが人々の望むところであった。王は毅然として、ときには自分のいのちをかけてでもそれをやめさせ、エルサレムにおける礼拝を堅持しなけらばならない、そこに王たるものの天より与えられた使命があった。永遠というスパンで見た時、それ以外に祝福の道はないからだ。◆今日の社会もこれと酷似している。コロナ問題のほんとうの解決は信仰的、霊的、道徳的にあるのだが、そのことは誰も問わないし、問えない。権力の地位にある者たちが選挙によって選出されているからである。民衆の声、民の声を恐れているかぎり、根本的解決は不可能というしかない。もちろんだからといって強権政治、独裁者の出現はさらに悲劇をもたらすことになるであろう。

 

 


朝の露 Ⅱ列王記12章 <ヨアシュ王>

2020-08-25 | Ⅱ列王記

「ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。『なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならない。』」(Ⅱ列王記12:7新改訳)

ヨアシュ王の功績は、神殿で献げられる金銭を聖別し、宮の修繕や施設維持の経費と祭司たちの収入を明確に分けて管理したことである。これは大切なことで、民が喜んでささげる献金を、祭司たちがいろいろな理由をこしらえて自分たちのふところに入れ、神殿施設の修理に当てなかったことから、ヨアシュが規則を作って聖別したのであった。▼主イエス御在世の頃になると、祭司やパリサイ人といった指導階級が神殿経済を支配し、かってな律法解釈をもって利益を全部自分たちのものにしていたのであった。そこで主は、『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」(マタイ21:13同)と非難された。神のものを私する罪はひじょうに大きい。キリスト者はこの点において、良心が鋭敏でなければならない。▼新約の光に従えば、私たちキリスト者のからだは神の宮であり、真の所有者は内に住まわれる御聖霊である(Ⅰコリント3:16,17同)。しかし今日、このことを自覚して真面目に信仰生活をしようと考えている者は少ないのではなかろうか。神社仏閣など偶像の施設ですら、人々はきれいに清掃し、樹木や草花を大切に管理し、清浄な雰囲気を醸し出すため大きな労を払っている。まして私たちの神は唯一にして永遠のお方である。その神を内に宿しているキリスト者が、神殿である自分の心とからだを粗末に扱っていいはずがない。やがて来る再臨の日には、私たちをキリストの御前に立たせようと、日々内住し、導いてくださる御霊をどれほど尊び、心から喜んで従うのが当然ではあるまいか。▼自分のからだを自分が好き勝手にして当然、と思い、暴飲暴食、あるいは不道徳やさまざまな汚れにわたすなら、かならずその実を刈り取るのは当然であろう。使徒パウロはおごそかに警戒している。「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。だれも自分を欺いてはいけません。」(Ⅰコリント3:17,18同)

 


朝の露 Ⅱ列王記11章 <アタルヤ>

2020-08-24 | Ⅱ列王記

「彼は乳母とともに、主の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤが国を治めていた。」(Ⅱ列王記11:3新改訳)

アタルヤは北イスラエル王アハブとイゼベルの娘で、ユダ王国に嫁ぎ、王妃としての地位を占めたのだが、性格も親ゆずりの残虐さを持っていた。息子が死ぬと、ただちに王の一族全員を滅ぼし、自分が王位についた。どんなに権力欲に満ちていたかわかる。ユダで女性が一時的にせよ、王になったのはこのときだけであった。▼それだけでなく、彼女はユダをバアル礼拝に導こうとして神殿を造営、祭司マタンを重用した。これは王国にとり、最大の危機だったといえよう。しかし神の御手は不思議さに満ちている。王の子どもヨアシュがただひとり救い出され、乳母と共に小部屋に隠され、六年間秘密に過ごしたのであった。もしヨアシュが生き延びなかったらダビデの血筋は絶え、その子孫から救い主が出現するという神の約束は実現不可能になったはずである。かくてアタルヤのもくろみは外れ、祭司エホヤダの革命により殺されてしまう。人がどんなに策を講じても神のご計画は崩れない、ということがわかる。▼さて、ここで思い出すのはダビデから6代目、ユダ王ヨシャファテのこと。彼は敬虔にして信仰あつく、名君として名高い王であったが、ただひとつ、大きな失敗を犯したのである。それは不敬虔で偶像礼拝者である北王国のアハブと姻戚関係を結んだことであった。信仰を第一にしていたら、決してすべきではなかったのに、妥協してしまったのである。そして長男ヨラムにアハブの娘をもらい、妻とさせた。それがアタルヤである。アタルヤは自分の息子アハズヤが戦死したとき、舅であるヨシャファテ王の子どもたちをすべて粛正し、自分自身が女王として君臨したのであった。血も涙もない残酷さといえよう。ヨシャファテがもしアハブ家と姻戚関係を結んでいなければ、これらは起きなかったはずであった。不信仰による行動は悲劇を招く。このことは新約時代の今も真実である。