「彼は主の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。」(Ⅱ列王記15:18新改訳)
メナヘムは北イスラエル一七代目の王で、彼の治世から二〇年を待たずに、イスラエルは地図から消えて行く。▼この頃、北方には大国アッシリアが興り、イスラエルに襲来するようになった。メナヘムは侵略から国を守ろうとして莫大な金銀をアッシリア王に贈ったが、かえって侵略者たちの征服欲をかき立てたのであろう、とうとうイスラエルは捕囚される結果になった。▼まことの神への信仰と敬虔を土台に据えない国家は、一時的に栄えることはあっても、最後には滅びるしかない。ネバテの子ヤロブアムがベテルとダンに金の子牛を祭り、偶像礼拝を北王国の柱としてから計二〇人の王が立ったが、だれ一人この偶像を廃棄した者はいなかった。人の心深く潜む「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3同)を破る罪は、ただイエス・キリストを内に宿すことによって、きよめられる。◆それにしても、「イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」という表現は常套句のように列王記に記されていて、読む者をあきれさせる。人間はどうしてかくも偶像礼拝にしばられるのであろう。そもそもネバテの子ヤロブアムはソロモン王国が分裂したとき、神から十部族を与えられ、北イスラエルの王に指名されたのであった。だから心配せずに感謝して王位を受け、心をこめて国をつかさどるなら何の心配もいらなかったのだ。◆ところが彼は不信仰を起こし、「エルサレム神殿が南王国にある以上、民は毎年礼拝のためそこに上るだろう。そうすれば民心は私から離れ、いつのまにかわが国は南に吸収されてしまう」と心配したのであった。それを防ぐには、エルサレムに上らなくてもいいよう、北王国にエルサレムに匹敵する神殿施設をこしらえるしかない。そうすれば人々はこの国の中で礼拝をするようになるから国は安定する。こう考えた彼は、ベテルとダンに金の子牛を御神体として据え、希望すれば誰でも神殿祭司になれる制度を作った。つまり偶像礼拝の動機は人間的不安と神への不信仰からであり、いったんそのレールが敷かれると、三百年近く続き、とうとうイスラエルはその罪のため滅んだのであった。使徒パウロは短いが、厳粛に宣言している。「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23同)◆私たちはいつも自分の行いを光に照らしていただき、はたして私の行動は本当に信仰の動機からでているだろうか、と問いかけるべきである。