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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <血を食べてはならない>

2024-04-15 | レビ記
「それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。」(レビ記17:12新改訳)

神は犠牲動物に関する規定の中で、その血だけは絶対に食べてはならないと、きびしく命じられた。なぜなら、神に対する宥めを行うのは動物のいのちである血だけだからだ。当時のカナン原住民たちの宗教では、犠牲動物や人間の血を飲むことが、ふつうに行われていたと想像される。▼これはひじょうに深遠な意味を持っている。つまり、いのちとして宥めを行うのは血であると神がお定めになったのは、イエス・キリストの血こそが、永遠の宥めを行うことができるとの宣言なのである。動物の血はあくまでも型にすぎない。しかし型にすぎない動物の血ですら決して食べてはならないほどの重要性を持つのであれば、神のみ子が十字架に流された宥めの血潮はどんなにすばらしい価値をもっているか想像もできない。▼私たちは十字架で流された御子イエスの血を、聖餐式のとき象徴的に食しているのである。すなわち、象徴とはいえ、イスラエル人たちがきびしく禁じられた血を食べることが、私たちには許されているのである。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54同)

朝の露 <アザゼル>

2024-04-11 | レビ記
「雄やぎは彼らのすべての咎(とが)を負(お)って、不毛(ふもう)の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。」(レビ記16:22新改訳)

罪のあがないには二つの面があり、それを動物犠牲で表したのがアザゼルのやぎである。私たちが犯した罪は行為として実を結んだ以上、神に損害(そんがい)を与えているので、それをつぐなうために犠牲の血が流されなければならない。ところが罪は行為として実を結ばせた元凶(げんきょう)が存在する。それが古き人、罪の腐敗性と呼ばれるもので、悪魔の性質から出たものである。▼そこで罪を真にあがなうためには、犯した罪の結果をゆるす血潮が流れなければならないし、その原因となった悪魔とその性質は、ゆるされるべきものではなく、永遠のゲヘナに投げ込まれなければならない。おそらくこの象徴(しょうちょう)としてアザゼルの雄やぎがある。これはイスラエル人すべての罪を負い、不毛の地に放逐(ほうちく)された。すなわちこれが「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄(いおう)の池に投げ込まれた。・・・彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける」(黙示録20:10同)を示すのであろう。

朝の露 <漏出からのきよめ>

2024-04-10 | レビ記
「漏出(ろうしゅつ)を病む者が漏出からきよめられたときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに新鮮な水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。」(レビ記15:45新改訳)

漏出に関する規定を読むと、今のウイルス感染症に対する注意を見ているような気がする。しかし主が言われたごとく、ほんとうに問題なのは、心の腐敗性から出る霊的漏出であろう。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔(でいすい)、遊興(ゆうきょう)、そういった類(たぐい)のものです」(ガラテヤ5:19~21)とパウロもガラテヤの人々に書き送ったが、このような汚れが社会に渦巻き、混乱と争いが止まるところを知らない。▼なによりも深刻なのは、これらが自分自身を汚す心の漏出だという真相を、現代人がまったく悟らないことである。やがて永遠の世界が到来したとき、主のあがないを信じ、新しい復活のからだをいただかなければ、そこに入ることはできないのだ。「血肉のからだは神の国を相続できません。」(Ⅰコリント15:50同)

朝の露 <癒やし主>

2024-04-09 | レビ記
「祭司は祭壇(さいだん)の上で、全焼のささげ物と穀物(こくもつ)のささげ物を献げる。祭司はその人のために宥め(なだめ)を行い、彼はきよくなる。」(レビ記14:20新改訳)

病気はその症状がなくなり、皮膚(ひふ)から消えたときをもって治癒(ちゆ)したといえる。人はそれで喜び、健康になったというが、聖書は神の前にきよいと宣言され、はじめて完全に癒(いや)されたという。昔のイスラエルでは祭司がその人のために犠牲(ぎせい)をささげ、血と油をからだにぬり、きよいと宣言することが必要であった。▼現代人は病院と医者の治療(ちりょう)が全部と考えるが、人は創造主に造られ、その生命はもちろん、からだのすべてが神の支配下にあることを知らなければならない。したがって、その人の信仰と生きる目的が、ご聖霊の完全な支配の中に明け渡されてこそ、身も心も健全になったということができる。その意味からいえば、キリストを救い主、癒やし主と仰(あお)がない生き方は、たとえ肉体の全部分が「問題なく機能(きのう)していた」としても、健康とはいえない。大祭司キリストを心の王座に迎えてこそ、人ははじめて健(すこ)やかになる。

朝の露 <ツァラアト>

2024-04-08 | レビ記
「その患部(かんぶ)が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。」(レビ記13:46新改訳)

ツァラアトという病気は医学的に治療しなければならないものだが、霊的にみれば罪の腐敗性(ふはいせい)を象徴(しょうちょう)しているといえよう。▼すべての人間はアダムとエバの子孫なので、この腐敗性を持っており、人となられたイエスを除けば、ひとりの例外もない。これほど深刻(しんこく)な事実はほかに存在せず、あらゆる人はこの罪から救われるためなら、どんなことでもしなければならない。ここに「彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる」とあるが、罪から解放されていなければ、来たるべき神の国に入ることはできず、外の暗やみに追放され、永遠に歯がみしつつゲヘナに存在することになる。▼十字架の贖いが、いかにありがたいものかを心から認め、キリスト・イエスのもとにひざまずく者でありたい。主は私たちの罪を十字架に釘づけ、信じる者をだれでも「恐ろしい罪のツァラアト」から解き放って下さったのだ。