しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <強く照り輝く太陽>

2022-09-23 | 黙示録
「また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1:16新改訳)
これは復活し、天におられるイエス・キリストの栄光に満ちた御姿である。▼天におられるとはいえ、主のご関心は常に地上のキリスト教会に向けられている。思えば私たちは強く照り輝く太陽にもまさるキリストの御顔の光を受けながら地上に存在しているのだ。なんと厳粛(げんしゅく)この上ない事実だろう。使徒ヨハネは、「神は光にして少しの暗き所もなし」(Ⅰヨハネ1:5文語)と記したが、パトモスで目撃した主の姿を思い浮かべながらのことばだったと思う。▼その光は活けるみことばとなり、あらゆる時代のキリスト者ひとりひとりに届いている。ある者には外科医のメスのごとく肉的な思いと行いを切り分け、切除する働きとなり、ある者には果物ナイフとして、御霊の果実をより分け、母親が幼子に食べさせるようにやさしい働きとなる。このように教会はキリストのからだであり、中心には主の臨在が満ち渡る。だからこそ我々は今日まで存在し得たのだ。

ヨハネは主の顕現(けんげん)に接した時、「死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。」(黙示録1:17新改訳)。かつてダニエルも「人の子のような姿をした方」に出会ったとき、死んだようになった、と記されている。血肉をもった人間が天の栄光に輝く主イエスを見て、そのままではいられないことがわかる。天上の存在者と地上に存在する者とでは、その聖なる本質においてなんとおおきな隔たりがあるのだろう。▼しかし私たちはやがて、再臨のとき、この主と直接お会いすることになるのだ。それはおどろくべき会見となる。もし私たちが復活、栄化という変貌(へんぼう)を経験しなかったら、来臨の主にお会いすることは不可能であろう。だからこそ、その日には栄化がおきるのである。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51、52同)


朝の露 黙示録20章 <最後の審判>

2020-05-30 | 黙示録

野の花

「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:13新改訳)

これは最後の審判の光景である。▼キリストが再臨されるとき、キリストに属する者たちは世界のあらゆる場所から呼び出され、復活してみもとに集まる。当然、その日に地上で生きている信仰者たちも、そのまま復活栄化して空中に携挙されるから、歓声と喜び、すばらしい勝利の凱歌が天に満ちるであろう。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16,17同)▼もちろんそのとき、墓と地に取り残される人々も数多くいるが、彼らは最後の審判の日、全能者の前に呼び出されるのである。なにしろ、海も山も含め、古い天地がなくなってしまい、死とよみさえ滅ぼされるのだから、隠れていることはできない。ありとあらゆる時代、地域、民族、階級、その他すべてを含む種類の人間がよみがえり、肉体を与えられるが、はだかで神の前に立つことになる。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(ヨハネ5:28,29同)▼ああその日の厳粛さよ。空の星、海の砂より多い人々が泣き悲しみ、震えながら神の法廷に進み出る。人よ、与えられた生涯をもてあそび、せせら笑いつつ生きてはならない。私は牧師として数多くの葬儀を行って来た。いつも思うのは、キリスト・イエスを心から信じて眠った人の葬儀は、司式をしていて言うに言えない「平安」を感じることである。その理由はたぶん「キリストにある死者がよみがえり」との一句が心に去来するからであろう。ああよかった、この方はキリストのお出でになるラッパが響いたとき、復活するのだ、との確信をもって遺族の方々に語りかけられるからであり、いつわりのない喜びと慰めが顔に自然と出るからなのだ。▼その反対も思う。殺人や多くの犯罪を犯し、神のゆるしを得ないまま死を迎えた人たちが、永遠の法廷に立つときの光景を想像するだけで胸が痛む。

 


朝の露 黙示録18章 <大バビロンの滅亡>

2020-05-23 | 黙示録

ヘメロカリス

「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」(黙示録18:20新改訳)

この章にはあざやかなコントラストがある。それは、大都市バビロンの滅亡を悲しむ人々と、反対にそれを大歓声と共に喜ぶ人々である。つまり人間はこのどちらのグループに属するかで自分の永遠を決定している、ということだ。▼今日、世界の大部分の人たちは都市文明のもたらす豊かさと華やかさ、快楽と贅沢に酔いしれることが人生最高の幸福と思い込んでいる。反対にキリストに心から従い、永遠を求める人たちとその教会は、人々の無関心、みことばを無視する風潮に苦しみ、福音を伝える困難にあえぐ。それどころが、社会のあらゆる面で陰に陽に差別と迫害を受け、神への信仰と心の純真さを放棄するよう迫られ、それが日増しに強くなるのを感じている。▼結局、これは淫行の根源に存在する母と天上に存在する信仰の根源に存在する母との戦い、つまりバビロンとエルサレムの戦いにほかならないのだ。私たちはどちらの母の子であろうか。◆本章全体から受ける印象として、大都市バビロンの壊滅は核兵器かそれに類するものによると思われる。人々は遠く離れて滅亡を悲しんでいる(10)のは、そのことを暗示させる。またこの壊滅をもたらしたのは、ほかならぬ獣=反キリストである(黙示録17:16)。つまりおどろくことに、女を背中に乗せ、支えていた獣みずからが、彼女を憎み惨殺するのだ。これはふしぎなことではないだろうか。◆かつてヨーロッパには「自分は第三ローマ帝国の総統である」と豪語したヒトラーが出た。はじめ人々は偉大な指導者を歓迎し、この人こそ救世主、キリストの再来だと歓迎した教会もあったという。一時ヨーロッパは好景気に酔いしれたが、結局最後は第二次世界大戦に突入、数年後には多くの大都市が焼野原となり、数千万かそれ以上の人々が殺され、あるいは病死し、未曾有の破壊となったのである。それから75年が過ぎ、現代はさらに悪魔的な時代になっている。もし世界大戦になれば、人類史上最大の破壊がなされることは確実である。黙示録はそれを預言しているのだ。◆言ってみれば、現代人はギロチンの刃の下で生活している。または弾薬庫の山に座り、マッチを擦って遊んでいる子供のようだ。あまりにも恐ろしい時代が現出しているのに、感覚がマヒして全然気が付こうとしない。終末時計が11時58分とか言われているのに、人々はせせら笑って相手にしない。しかし御聖霊は悔い改めて備えるように、日々呼びかけておられるのである(Ⅱペテロ3:9~12)。

 


朝の露 黙示録17章 <獣の国>

2020-05-22 | 黙示録

あじさい

「あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。」(黙示録17:8新改訳)

終末に現れる悪魔の化身のような獣はローマ帝国であろう。そしてその頂点に立つ王は獣自身を具現化した人物と考えられる。昔、隆盛をきわめた西欧君主の一人が「朕(ちん)は国家なり」と言った。つまり「私こそがこの国そのもの、その体現である」と豪語したのだ。もっとも彼はあえなく滅びて行ったが・・・。▼ヨハネが生きていた頃、ローマ帝国はあらゆる意味で世界最大の国であったが、やがて異民族の侵入を受け、消えて行った。もしこの帝国が現代にそのまま再現されたら、全世界は腰を抜かすほど驚くであろう。ましてや帝王の座に着いた人物が「私はローマであり、ローマは私である」などと宣言したら、主を信じない人々は、ついに待ち望んだ神が現れた!と狂喜乱舞するにちがいない。◆ところで、この獣の上には大バビロンという女が乗っており、その姿は緋色、紫の衣装、あらゆる宝石、金杯という豪華さで、キリスト者を迫害し、淫行に酔っているもの、みるからにおぞましい姿である。ヨハネのころ、ローマは世界最大の都で多くのキリスト者に大迫害を加え、カタコンベ(地下墓所)に追いやった。皇帝を礼拝することが厳命され、あらゆる宗教はそのもとでのみ存続をゆるされた。むろん拒否した者には死が待ち受け、無数のキリスト者たちが殉教して行ったという。ペテロもパウロもこの都で死刑にされたと伝えられる。◆イエス・キリストが神の都・エルサレムを御自身の新婦として持つように、反キリストも自分の妻を持つが、それが世界最大の都バビロンである。まさに彼はキリストの模倣であり、真似なのであり、そのゆえに「反キリスト」または「にせきりすと」とよばれる。私たちに取り、これがよそ事でないのは、すでに現在の教会に「不法の秘密」(Ⅱテサロニケ2:7)として働いているからだ。洗礼を受け、教会の会員となっても「生まれつきのままの人間で、御霊を持っていない」なら、そのようなキリスト者は聖化を嫌悪し、悔い改めと敬虔な生活を遠ざけ、肉欲的な生き方にひそかにあこがれるようになる。高慢で、兄弟たちを批判し、分裂を何とも思わない。◆シロアリはひそかに家に入ってきて住みつき、増殖し、気が付かないうちにその家を占領する。そしてあるとき羽化し、大集団となって飛び立って行き、去ったあとには無残に食い荒らされた倒壊寸前の建物だけが残るのである。悲しいことに、このような教会が無数に存在する。だから再臨の主にお会いするため、真剣に敬虔を求め、聖霊と聖言にあゆむことを喜びとしなければならない。「愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。』この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(ユダ17~21同)

 

 


朝の露 黙示録14章 <永遠の福音>

2020-05-09 | 黙示録

やまぶき

「彼は大声で言った。『神を恐れ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。』」(黙示録14:7新改訳)

大患難期の最後に、永遠の福音が、人ではなく中天を飛ぶ御使いによって全世界に宣べ伝えられる。「また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた」(6同)。じつに壮大な光景である。人は二千年かかっても、まだ福音を世界に完全に満たすことができないのに、御使いはまたたく間に福音を世界に伝えてしまうのだ。▼おそらく、これは人が救われる最後の機会と思われる。というのは、このあとに善と悪の「刈り入れ」が行われるからだ(14~20)。そういえば、昔ローマ軍がエルサレムに最後の攻撃をしかけるとき(AD70年)、一時的に包囲網の一部を解いたときがあり、市内にいたキリスト者たちは主の預言を知っていたため、脱出してベレア方面に逃れることができたといわれる。将軍ティトゥスによる一片の慈悲であったのか。▼神の圧倒的な怒りが次々に注がれる大患難時代、全宇宙を舞台にした審判の光景に、黙示録の読者は絶句する。しかしそうした中にも救いの招きがなされるのを見ると、主を賛美せずにはいられないのだ。神は御自身の創造された人間が、進んで滅びの火に落ちて行くのを決して望んではおられず、むしろ悲しまれるお方である。だからこそ罪に対する怒りのときであっても、何度となく「福音という地引網が引かれる」のだ。このときは、反キリストによる支配が世界の隅々まで行き渡っている、つまり鉄のような偶像礼拝が地上をおおっている。その悪魔礼拝をやめ、天と地と海と水の源を創造した唯一の神を拝みなさい、との呼びかけが御使いによってなされるとき、呼びかけに答える人はもじどおり死を覚悟して福音を告白するのである。▼パウロはコリント教会に「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2同)と書き送ったが、我々は置かれている福音時代の今が、どんなに恵みに満ちた期間であるかを「深く、深く」心に留めなければならない。まちがっても神をあなどり、この機会を軽視し、己が欲望のため生きて無為に時を浪費しないようすべきである。永遠の扉が閉められ、後悔の叫びを上げないために・・・。