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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <大きなしるしが天に>

2022-10-29 | 黙示録
「また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。」(黙示録12:1,2新改訳)
この女はたぶん患難時代におけるイスラエルをあらわしている。この時代を「ヤコブの悩み」と言うように、イスラエルは世界中から受ける迫害で苦しむのであろう。かつてのヒトラー時代のように・・。しかしその中で、イエスを信じるイスラエル人たちが誕生し、殉教の後、天に上げられるのではないだろうか(5)。▼またそのとき天に戦いが起こり、敗北した悪魔が完全に天の居場所を失い、地上に落とされる。そして反キリストの出現となるのであろう(9)。それ以後の数年間(たぶん四二ヶ月)、地上は空前絶後の苦しみの期間を迎える。主イエスが弟子たちに「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです」(マタイ24:21同)とお語りになったのはこの期間のことにちがいない。▼しかし私たち・主イエスによるほんとうの救いにあずかった者には、すばらしい希望が与えられている。それはキリストの空中再臨である。主は愛するご自身のはなよめたちを、この患難に会わせないため、あらかじめ迎えに来られるのだ。かつて、エノクは大洪水が来る前に、死を見ずに天に移された。エリヤも北王国が崩壊する前に、火の車と天使たちに迎えられ、天に移されたのであった。これらは携挙のひな型と見ることができよう。だから私たちは患難時代から逃れ、空中再臨によって携挙にあずかるよう、また、最後まで信仰生活を全うできるよう祈らなければならない。

・賜物より癒しより さらに勝る与え主 主を心に入れまつり 我に足らぬことあらじ
・己が願い己がわざ 皆み旨にうち任せ 主を用いず主のために 我は絶えず用いらる
・我がものなる主は近く 再び世に来り給う 火に油を整えて 我は絶えず待ち望まん
[折返]我がすべてのすべてなる 主をほめばや 永遠(とこしなえ)に
 <たまものよりいやしより インマヌエル讃美歌343 詞:A.B.Simpson,1843-1919>


朝の露 <口には甘く、腹には苦く>

2022-10-22 | 黙示録
「そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」(黙示録10:10新改訳)
ヨハネはここで、み使いから巻物を受け取り、食べるよう命じられた。たぶん患難時代の後半に起きる出来事を詳細(しょうさい)に記録するための準備と思われる。特に後半は大患難時代と言われているので、地上の苦難は最高潮に達するであろう。それを書き留めるヨハネの「腹が苦くなった」のはそのためであった。▼それにしても、ここで太陽のように照り輝く御使いが大声で叫んだ宣言は厳粛(げんしゅく)である。「もはや時は残されておらず、第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10:6,7同)▼この書を記したヨハネは患難期を目撃した証人で、それを記録させた神は、「人類が迎える終末はまちがいなくこの通りになる」と宣言しておられるのである。しかし私たちはむやみにおびえるのでなく、内容をしっかり心に刻みつける者でありたい。それがほんとうの備えなのだから。

思えば、この二千年間、ヨハネ黙示録が新約聖書からはずされなかったのは奇蹟的であった。なぜなら、20世紀に入るまで、そこに記されている内容は現実に起きることだといっても、だれにも説明できなかったのだから・・・。意味不明の書を正典に入れておいてよいのか、との批判者が現れたのもうなずける。そこでこの書は象徴文学だという説明がなされた。▼ところが産業革命が起き、科学機械文明が発達した結果、あれよあれよという間に20世紀になり、黙示録の内容が現実と接近して来た。そしていまなら、人類の三分の一が滅亡するといっても誰も笑わないが、江戸時代にそう言ったなら狂人扱いされたであろう。封じられた預言書・ヨハネ黙示録、それが今や現実世界の描写であることが理解され始めている。まさに主の来臨は近いことのしるしではないだろうか。▼むろん、主のおいでの時は父なる神がご自身の権威のうちに置いておられるから、いかなる人にも定め、予知することはできないし、ゆるされない。にもかかわらず、ときがじりじりと迫って来ていることはたしかである。同時にそれは救い、携挙、復活の確信を神からいただいた者にとっては、ものすごい喜びであり希望である。どんなに恐るべきことが起きても、その後に来る永遠の御国、新しい復活の世界は、ロウソクのあとの太陽の光のごとく、圧倒的なものだということも本書は告げているからだ。




朝の露 <雷鳴と声が>

2022-10-15 | 黙示録
「それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。」(黙示録8:5新改訳)
患難時代に入ると七つの封印が開かれ、大災害が地上に起きるとともに、イスラエルをはじめ、大勢の諸国民の信仰が覚醒(かくせい)され、天には殉教者たちの数が満ちた。その光景が7章に記されている。▼だが地上には、依然(いぜん)として心をかたくなにして神に反抗する人々が多い。そのため、災害は第二段階に移り、いっそうきびしく深刻な患難がもたらされる、それが本章から始まる七つのラッパの審判である。この章では第一から第四までのラッパが吹き鳴らされ、地の三分の一、海の三分の一、天体の三分の一が打たれて大勢の人たちが死ぬという想像を絶する災害が記される。焼けただれた砂漠、火山の溶岩が海陸を問わず噴出し、不気味な暗黒宇宙が天空をおおう、と形容したらよいだろうか。平常心ではいられない自然界の姿である。しかし何千年にわたり、ささげられて来た「御国を来たらせたまえ」との祈りは無駄には終わらない。必ず答えられ、新天新地が到来する。黙示録はそれを私たちに告げるのだから。

この章の背後には人類がたがいに滅ぼし合う核戦争があるのかもしれない。そのように想像することも可能であろう。地球の三分の一が焼き尽くされて、生物が大量に絶滅するのは核ミサイルが飛び交い、メガトン級の爆発が一面に起きた結果だと思えば、十分考えられることだ。▼チェルノブイリ原発が爆発し、放射性物質が多量にまき散らされたことは記憶に新しいが、チェルノブイリとは「苦よもぎ」の意味だと知って、多くの人々が黙示録8:11を思い浮かべたことであった。▼想像を絶する患難時代だが、その前に天に移される教会(あるいはキリスト者たち)があることもたしかだ。「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る」(黙示録3:10同)。すなわち、「神と子羊の御怒りの、大いなる日」(黙示録6:17同)と呼ばれる患難時代に会うことなく、子羊の花嫁、妻である教会は天に復活栄化して召されるのである。1世紀に生きた真のキリスト者たちは、みな、その信仰と希望を抱いていたのである。マラナ・タを合言葉に・・。「人もし主を愛せずば呪われよ、われらの主、来たり給う!」


朝の露 <屠られた姿で>

2022-10-07 | 黙示録
「また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。」(黙示録5:6新改訳)
御霊によって天に上らせられたヨハネが見たのは、神の御手にある巻物を受け取れる者が誰もいない光景であった。この巻物は新天新地が出現するまでの経綸(プログラム)を記したものであろう。これを開くと、地上には罪に対する仮借なき審判が実行される。そのままでは世界が完全に滅びてしまう。だから、そこから人々が救い出されることが必要である。▼しかしそれを実行できる者がいない。このままでは永遠に神の国は到来せず、完全な行き詰まりだ。だからヨハネは激しく泣いたのであった(4)。しかし、ヨハネのかたわらにいた長老のひとりが彼を慰め、その資格を持つ者が現れたと言う(5)。ヨハネが目を上げると、「屠られた姿」で子羊が神の前に立っているではないか。この主の姿を、今の私たちが納得できるよう具体的に描写することは誰にもできない。ただひとつハッキリしているのは、「あれは確かに、ゴルゴタの丘で十字架につけられた、愛する主イエスだ、」とヨハネが確信できた御姿だった。かつてヨハネは十字架のそばで、それをまざまざと見たのだから。「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。」(ヨハネ19:34,35同)▼それにしても、復活し、天におられるイエス・キリストはおからだを持ち、しかもそれには十字架で受けた傷がある。なんと感動的な事実であろう。私たちは御傷を仰ぎながら、永遠に主を賛美するのだ。


朝の露 <神の七つの御霊>

2022-10-01 | 黙示録
「御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」(黙示録4:5新改訳)
ヨハネは御霊に捕らえられ、第三の天にのぼった。そこには中心に神ご自身がおられ、ケルビムが「聖なるかな」と叫び続ける荘厳きわまりない光景が繰り広げられていた。彼はどれほど驚いたことだろう。▼本章をつぶさに見ると、モーセの幕屋と良く似ていることがわかる。つまりモーセはヨハネより千年以上前に第三の天を示され、その型として幕屋を造営したのであった。それはいわば天のひな型だったが、それでも聖別された祭司以外は入れず、不敬虔なまま近づいた者は神に撃たれて死んだのである。▼すべての人間は死後、このお方のいます天に出なければならない。だが罪を持ったまま、どうして近づくことができよう。神の聖に焼き尽くされ、永遠のゲヘナに行くのが落ちである。しかし驚くべきことに、こひつじイエスの血潮を心にいただいた者は恐れなく近づけるのである。なんという奇蹟であろう。

・けがれをきよむる血のいずみは その深さ広さ 測りがたし
・罪の性質は全く死にて あらたなるものと 造られたり
・罪の世に勝ちてきよく歩む この身は永遠(ときわ)に 主のものなり
・主を知りまつりし この喜び さながら御国にある心地す
   おおほめよ たたえよ 十字架の血潮は
   すべての罪より われをさえ きよむ
             <インマヌエル讃美歌316 詞:P.P.Knap 1839-1908>