しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <口には甘く、腹には苦く>

2022-10-22 | 黙示録
「そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」(黙示録10:10新改訳)
ヨハネはここで、み使いから巻物を受け取り、食べるよう命じられた。たぶん患難時代の後半に起きる出来事を詳細(しょうさい)に記録するための準備と思われる。特に後半は大患難時代と言われているので、地上の苦難は最高潮に達するであろう。それを書き留めるヨハネの「腹が苦くなった」のはそのためであった。▼それにしても、ここで太陽のように照り輝く御使いが大声で叫んだ宣言は厳粛(げんしゅく)である。「もはや時は残されておらず、第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10:6,7同)▼この書を記したヨハネは患難期を目撃した証人で、それを記録させた神は、「人類が迎える終末はまちがいなくこの通りになる」と宣言しておられるのである。しかし私たちはむやみにおびえるのでなく、内容をしっかり心に刻みつける者でありたい。それがほんとうの備えなのだから。

思えば、この二千年間、ヨハネ黙示録が新約聖書からはずされなかったのは奇蹟的であった。なぜなら、20世紀に入るまで、そこに記されている内容は現実に起きることだといっても、だれにも説明できなかったのだから・・・。意味不明の書を正典に入れておいてよいのか、との批判者が現れたのもうなずける。そこでこの書は象徴文学だという説明がなされた。▼ところが産業革命が起き、科学機械文明が発達した結果、あれよあれよという間に20世紀になり、黙示録の内容が現実と接近して来た。そしていまなら、人類の三分の一が滅亡するといっても誰も笑わないが、江戸時代にそう言ったなら狂人扱いされたであろう。封じられた預言書・ヨハネ黙示録、それが今や現実世界の描写であることが理解され始めている。まさに主の来臨は近いことのしるしではないだろうか。▼むろん、主のおいでの時は父なる神がご自身の権威のうちに置いておられるから、いかなる人にも定め、予知することはできないし、ゆるされない。にもかかわらず、ときがじりじりと迫って来ていることはたしかである。同時にそれは救い、携挙、復活の確信を神からいただいた者にとっては、ものすごい喜びであり希望である。どんなに恐るべきことが起きても、その後に来る永遠の御国、新しい復活の世界は、ロウソクのあとの太陽の光のごとく、圧倒的なものだということも本書は告げているからだ。




朝の露 <雷鳴と声が>

2022-10-15 | 黙示録
「それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。」(黙示録8:5新改訳)
患難時代に入ると七つの封印が開かれ、大災害が地上に起きるとともに、イスラエルをはじめ、大勢の諸国民の信仰が覚醒(かくせい)され、天には殉教者たちの数が満ちた。その光景が7章に記されている。▼だが地上には、依然(いぜん)として心をかたくなにして神に反抗する人々が多い。そのため、災害は第二段階に移り、いっそうきびしく深刻な患難がもたらされる、それが本章から始まる七つのラッパの審判である。この章では第一から第四までのラッパが吹き鳴らされ、地の三分の一、海の三分の一、天体の三分の一が打たれて大勢の人たちが死ぬという想像を絶する災害が記される。焼けただれた砂漠、火山の溶岩が海陸を問わず噴出し、不気味な暗黒宇宙が天空をおおう、と形容したらよいだろうか。平常心ではいられない自然界の姿である。しかし何千年にわたり、ささげられて来た「御国を来たらせたまえ」との祈りは無駄には終わらない。必ず答えられ、新天新地が到来する。黙示録はそれを私たちに告げるのだから。

この章の背後には人類がたがいに滅ぼし合う核戦争があるのかもしれない。そのように想像することも可能であろう。地球の三分の一が焼き尽くされて、生物が大量に絶滅するのは核ミサイルが飛び交い、メガトン級の爆発が一面に起きた結果だと思えば、十分考えられることだ。▼チェルノブイリ原発が爆発し、放射性物質が多量にまき散らされたことは記憶に新しいが、チェルノブイリとは「苦よもぎ」の意味だと知って、多くの人々が黙示録8:11を思い浮かべたことであった。▼想像を絶する患難時代だが、その前に天に移される教会(あるいはキリスト者たち)があることもたしかだ。「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る」(黙示録3:10同)。すなわち、「神と子羊の御怒りの、大いなる日」(黙示録6:17同)と呼ばれる患難時代に会うことなく、子羊の花嫁、妻である教会は天に復活栄化して召されるのである。1世紀に生きた真のキリスト者たちは、みな、その信仰と希望を抱いていたのである。マラナ・タを合言葉に・・。「人もし主を愛せずば呪われよ、われらの主、来たり給う!」


朝の露 <屠られた姿で>

2022-10-07 | 黙示録
「また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。」(黙示録5:6新改訳)
御霊によって天に上らせられたヨハネが見たのは、神の御手にある巻物を受け取れる者が誰もいない光景であった。この巻物は新天新地が出現するまでの経綸(プログラム)を記したものであろう。これを開くと、地上には罪に対する仮借なき審判が実行される。そのままでは世界が完全に滅びてしまう。だから、そこから人々が救い出されることが必要である。▼しかしそれを実行できる者がいない。このままでは永遠に神の国は到来せず、完全な行き詰まりだ。だからヨハネは激しく泣いたのであった(4)。しかし、ヨハネのかたわらにいた長老のひとりが彼を慰め、その資格を持つ者が現れたと言う(5)。ヨハネが目を上げると、「屠られた姿」で子羊が神の前に立っているではないか。この主の姿を、今の私たちが納得できるよう具体的に描写することは誰にもできない。ただひとつハッキリしているのは、「あれは確かに、ゴルゴタの丘で十字架につけられた、愛する主イエスだ、」とヨハネが確信できた御姿だった。かつてヨハネは十字架のそばで、それをまざまざと見たのだから。「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。」(ヨハネ19:34,35同)▼それにしても、復活し、天におられるイエス・キリストはおからだを持ち、しかもそれには十字架で受けた傷がある。なんと感動的な事実であろう。私たちは御傷を仰ぎながら、永遠に主を賛美するのだ。


朝の露 <神の七つの御霊>

2022-10-01 | 黙示録
「御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」(黙示録4:5新改訳)
ヨハネは御霊に捕らえられ、第三の天にのぼった。そこには中心に神ご自身がおられ、ケルビムが「聖なるかな」と叫び続ける荘厳きわまりない光景が繰り広げられていた。彼はどれほど驚いたことだろう。▼本章をつぶさに見ると、モーセの幕屋と良く似ていることがわかる。つまりモーセはヨハネより千年以上前に第三の天を示され、その型として幕屋を造営したのであった。それはいわば天のひな型だったが、それでも聖別された祭司以外は入れず、不敬虔なまま近づいた者は神に撃たれて死んだのである。▼すべての人間は死後、このお方のいます天に出なければならない。だが罪を持ったまま、どうして近づくことができよう。神の聖に焼き尽くされ、永遠のゲヘナに行くのが落ちである。しかし驚くべきことに、こひつじイエスの血潮を心にいただいた者は恐れなく近づけるのである。なんという奇蹟であろう。

・けがれをきよむる血のいずみは その深さ広さ 測りがたし
・罪の性質は全く死にて あらたなるものと 造られたり
・罪の世に勝ちてきよく歩む この身は永遠(ときわ)に 主のものなり
・主を知りまつりし この喜び さながら御国にある心地す
   おおほめよ たたえよ 十字架の血潮は
   すべての罪より われをさえ きよむ
             <インマヌエル讃美歌316 詞:P.P.Knap 1839-1908>


朝の露 <勝利を得る者を>

2022-09-30 | 黙示録
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3:21新改訳)
七つの教会へのメッセージを読んで気がつくのは、「勝利を得る者を(は)」という語がかならず記されていること。つまり、私たちが地上で教会の会員として登録されていることが、そのまま天における身分を保障するものではない、という事実である。▼キリスト者として、地上の信仰生涯を勝利のうちに走り抜いたかどうかが、天に於ける永遠の祝福を決める。だから全会員が栄光にあずかる教会もあれば、わずかな人しかあずかれない教会も出るということだ。考えてみればこれはおごそかな事実だと思う。そしてなぜパウロが次のように告白したかもわかってくる。「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」(Ⅰコリント9:24同)▼願わくは主が、私たちを信仰の勝利者として天に迎えてくださるように。

もうひとつ、七つの教会へのメッセージを読んで気がつくのは、そのどれもがかならず、「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」で終っていることである。▼すなわち、勝利を得る必須条件は「御霊が言われることを、信仰と謙遜に満ちた心で受け止め、おそれおののいて御霊と共に歩む」ことであろう。それが競争を走るということであって、自己努力で必死に何かをするということではないと思う。「聞く耳を持たない」とよく言われるが、高ぶりに支配された人は忠告に耳を貸さないものである。▼まして、キリスト者の心に、いつもみことばをもって静かに語りかける御霊のお声を、残らず聞こうとする従順な霊性を備えることは、どんなに大切であろうか。

われと主の間に隔てはなし み顔仰ぎ み声聞くは いかなる幸(さち)ぞや
世の騒がしさより逃れ出でて いと静けき細きみ声 今しもわれ聞く
疑わず恐れず私(わたくし)なく 何事をもありのままに み前に披瀝(ひれき)す
主の語りたもうを我は聞けり この世はなく我またなく ただ君いませり
<新聖歌36 詞:E.H.H(UN)>