「それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。」(ヨハネ21:7新改訳)
▼イエスが愛されたあの弟子(ヨハネ)とペテロの対照的な姿が描かれている。ヨハネはペテロに先走るような行動はしないが、心にするどい洞察力を持ち、復活の主にいち早く気がついた。しかしペテロは直情的で、そそっかしいところがある。それがよく表れているシーンだ。彼は先生(主イエス)を燃えるような熱情で慕っていた。その熱さにかけては一番だった。そして主もペテロを12弟子のリーダーに選んでおられたことは確かであった。◆ただ、私はヨハネに御聖霊の謙虚さを連想する。御聖霊はご自身を決して主張されず、イエスの栄光を私たちに現すことに「心を傾けておられる」。いわば、わき役に徹しておられるのだ。そして復活された主がどんなにすばらしい御方であるかをキリスト者に示し、これを花嫁として整えることに全力を注いでおられるように思えてならない。これはヨハネがペテロの横にいたことにまさって、すばらしい事実である。
▼ここにもうひとつ、御聖霊を象徴するものとして「炭火」がある。寒い朝だったのか、復活の主みずから炭火を熾(お)こし、パンと魚を焼き、弟子たちの体をあたためられた。主に従う者を養い、温め、聖なる愛を燃やす炭火、それは御聖霊の象徴でもあった。イザヤには唇のけがれを焼ききよめ、預言者として再派遣することになった神殿の炭火(イザヤ6:6)、イエスの死が定められた大祭司の庭で焚かれていた炭火は、神の子をさばく人たちを反対にさばいている神の火の姿であった(ヨハネ18:18)、またパウロがステパノの殉教に際し、頭に積まれたのは燃える炭火であり(ローマ12:20)、ダマスコまでこの火によって導かれ、とうとう焼き尽くされ、迫害者から使徒へ変貌せしめられたのであった。
▼今も主のはなよめとして召された人たちの心に、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!」と呼ばわるセラフィムが飛び来たり、神の祭壇にある炭火をもってきよめのわざを行われる。そして赤々と燃え盛っているの炭火に汚れを焼き尽くされた人々が、混乱渦巻く世に出て行き、「神よりの使命」を果たすのである。
「一方マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(ヨハネ20:11新改訳)
空の墓をのぞいたペテロとヨハネは、驚き当惑しながらも、自分たちの所に帰って行った。だがマリアは帰らないで泣いていた。ひと目でよいから先生の亡骸にお会いしたい。そして思う存分泣き崩れたい。▼かつて七つの悪霊につかれ、悲惨極まりない狂女だったマリアは、主に癒していただいてから片時も離れず従っていたのであろう。その主がいない、胸が張り裂けるような悲しみをどうしたらよいのか。すべてが暗黒の底に沈むような墓地の一角で泣いているマリアに、主イエスは現れた。ペテロでもヨハネでもなく、またほかの十二弟子でもなく、泣き止まない哀れな女性に復活のいのちは現れた。▼この事実は今なお変わらない。私たちも、絶望、すなわちいっさいの希望が絶えた墓の前で泣くときがあるかもしれぬ。しかしそこでこそ復活されたイエスにお会いすることができる。「マリアよ」というお声が聞こえて来るのだ。
「イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。『見よ、この人だ。』」(ヨハネ19:5新改訳)
ピラトはイエスが何の罪も犯していないことを知ったので、ユダヤ人たちを落ち着かせ、無罪に持って行こうとした。そのため、思い切り滑稽な姿をさせ、嘲笑の的にしようと茨の冠をかぶらせ、紫の衣を着けさせたのである。霊的に盲目だった総督は、それが救い主に対する恐ろしい反逆と傲慢に満ちた罪であることに気がつかなかった。こうして神の子羊は、人を救うための愛に満ちて来られたのに、馬鹿にされ、捨てられ、最後に十字架に釘打たれたのである。▼しかし大きな目で眺めれば、すべては世の初めから計画され、預言通りに運ばれていた。全世界が神の怒りと呪いで審判される、そこから救い出される神の子どもたちが生まれる、という福音時代が始まるためのみわざであったのだ。やがてキリストが再臨されると、イエスをあざ笑い、死に追いやった人々は墓から呼び出される。そして御手に傷を持ちたもう栄光の主の御顔を見つめることになる。◆それにしても、ゴルゴタの光景はなんと荘厳で不思議さに満ちているのだろう。十字架につけろと狂い叫ぶ群衆と指導者たち、主の衣を分け合い、くじ引きにする兵士たち、彼らが飲ませた酸いぶどう酒、槍で刺し貫かれたおからだ、富める人ヨセフが用意した墓、それらがはるか以前から神のみことばに記されたとおりに運ばれたのであった。人間は神に反抗する者も、そうでない者も、すべて神のことばから外に出ることはできない。ありとあらゆることが天の父の御定めになったとおりに進んで行く。これからの歴史もそのようであろう。だから私たちもパウロとともに讃嘆の声をあげよう。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。・・・すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33~36同)
「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』」(ヨハネ18:13新改訳)
わたしの国とは、来るべき神の国を指す。それに対し、この世とは、今私たちが生きている世界で、ペテロが記したように時が来れば消滅するものである。「その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10同)▼キリスト者はやがてなくなる今の世におりながら、霊的にはすでに新しい世界へ移された存在である。主が「しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです」(ヨハネ15:19同)と言われたように。そこで私たちはふだんの生活において、いつもこの自覚を抱きながら生きる必要があるのは当然であろう。その聖なる思いが、罪深い生き方と歩調を合わせることなく、自分自身を守ることになるからだ(→ローマ12:2)。◆さて本章には印象的な光景がある。主を捕らえに来た人々が、「わたしがそれだ(エゴー.エイミ)」とのことばを聞いたとき、地に倒れてしまったことである(6)。いうまでもなく、エゴー.エイミはモーセに現れた神が、ご自身の名としてお告げになったことばである。5~8節のやり取りにはナザレ人イエス=エゴー.エイミが明確に現わされ、ナザレ出身のユダヤ青年が天地万物を創造された神と御本質を全く一つにされるお方であることが否定できないかたちで記されている。群衆はイエスが神としての権威をもって「わたしがそれだ」と言われたとき、立っていることができなかった。まるで世の終わりに起きる審判さながらの光景であった。◆それに続き、イエスは神の権威を持ちつつ、自らを十字架につけられるために差し出された。人々が主を捕らえることができたのは、主が自分から捕らわれたからであり、人々がイエスを打ち伏せたからではない。私たちキリスト者とともに毎時毎瞬毎日一緒におられる方は、万物の本源、永遠なる神ご自身であられることを、言い知れない感動と敬虔をもって意識しつつ生きる、これが信仰生涯であると堅く心に刻みつけようではないか。