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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <一人も失うことなく>

2023-08-19 | ヨハネ福音書
「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39新改訳)

天の父は、世界が始まる前から選んでおられた人々をイエスにお与えになった。▼私たちは自分で教会に行き、聖書を信じてキリスト者になったように思っているが、じつはあらかじめ選ばれていたから、そうなったのである。これは考えてみれば、じつに不思議で、人の考えや想像をはるかに超えて働く創造主の摂理という以外に表現する言葉がない。▼さらにすばらしいのは、父がそれらの人々を一人も失うことなく、最後の復活にあずからせようと決めておられることではないだろうか。私たちの信仰生涯は、自己の決心や努力で完成されるものではない。もちろんそれらが不必要というのではなく、すべてを支配し、運んでおられる神のみわざがあるから成就するのだ。▼親ワシが子ワシをつばさに乗せて飛ぶ姿にたとえられようか。子が羽をはばたかせても、実際に飛翔(ひしょう)しているのは親である。だから感謝しながら父のつばさの上で安らごうではないか。

朝の露 <証しの書>

2023-08-18 | ヨハネ福音書
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39,40新改訳)

ユダヤ人ほど聖書(旧約)を大切に保存してきた民族はない。何千年にもわたる彼らの労力と注意深さがなければ、私たちは現在のかたちで聖書を読むことはできなかった。▼だがイエスは言われる。聖書が証ししているのは、イエスが神であり、このお方にいのちがあるという事実なのだ、と。だから人は主イエスを神の子、救い主と信じて聖書を読まなければならない。そのとき初めて聖書は「いのちの書」として私たちを永遠に救い、養うものになるのである。▼聖書を神の言葉として保存し、正確に伝えて来たユダヤ人たちの不思議とともに、それ以上のおどろきは、彼らがイエスをキリスト(メシア)と信じ受け入れなかったことである。しかもそれは二千年以上続いているのだ。この背後(はいご)には人の理解を超えた神の御知恵が存在している。すなわち異邦人が救われる、という奥義の実現である。

朝の露 <父を礼拝する時>

2023-08-12 | ヨハネ福音書
「イエスは彼女に言われた。『女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。』」(ヨハネ4:21新改訳)

この山(サマリア)でもなくエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る、とは何を意味しているのだろうか。キリスト者ならわかるように、主はペンテコステによって始まる福音時代の到来を言われたのである。▼ヨハネ福音書14~16章において主はご聖霊が弟子たちのところに来られることをくわしく話された。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児(こじ)にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」(ヨハネ14:18同)と言われたとおり、御霊によって私たちはいつも主が共におられることを自覚できるのである。それは、エルサレムに行き、神殿で礼拝するよりもはるかにすばらしいことだ。なぜなら、世界中に何億人もいるキリスト者たちの心が実質的なエルサレム神殿になり、四六時中、生きた礼拝がささげられているからだ。まさに今はおどろくべき福音の時代なのである。▼AD70年、ローマ軍によりエルサレム神殿は破壊されたが、現在も神殿は建っていない。そこでユダヤ人たちは神殿の再建を心から望み、そのための努力をしている。なぜならモーセ律法を完全に履行(りこう)するためには実際の神殿が欠かせないからである。が、私たちキリスト者は心の中に神殿をすでに持っているので、というより、御霊によりキリスト者個人が活ける神の宮にされているので、いつも霊と真実をもって礼拝をささげられるのである。▼とはいえ、教会とイスラエルの両方が完全にひとつの礼拝をささげるときがやって来るであろう。それはイエス・キリストの地上再臨で、神殿の本質そのものである主がエルサレムに再建された神殿に現臨したときである。だからこそ教会は「御国を来たらせたまえ」と日夜祈っているのである。


朝の露 <新しく生まれなければ>

2023-08-11 | ヨハネ福音書
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネ3:3新改訳)

主はなぜニコデモに向かってこのような答えをなさったのだろうか。その理由は、ニコデモが主を「神のもとから来られた教師」と考えていた(2)ことからわかる。▼彼にしてみれば、主を律法の教師と言ったのは、精いっぱいの賛辞のつもりだったのである。長年、教師として生涯を送った高齢の学者が、三十代の青年大工に向かってこう挨拶したのは、ふつうではありえないことだ。しかしニコデモはわかっていなかった。いま目の前にいる青年がただの人ではなく、「わたしはある」(出エジプト記3:14)とモーセにおおせられた神ご自身である、ということを。そしてそれは、天の父が啓示なさらないかぎり不可能なことでもあった。だから主は、「新しく生まれなければ、わたしを知ること(つまり神の国を見ること)はできない」と答えられたのである。▼考えてみれば、異邦人で罪の奴隷だった私たちが、イエスを神の子と信じられたのは奇蹟以外のなにものでもない。その幸せを思うべきなのだ。それにしてもバプテスマのヨハネの告白は尊い。彼は「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30同)と弟子たちに証しした。およそ人として生まれた者で、自分が衰え、消えていくことを喜ぶ者はいない。だがヨハネは「自分は主イエスの前では、太陽の前のろうそくと同じであり、比較する価値すらない」と言明し、消滅(しょうめつ)することを言い現わしたのであった。そのとおり、彼はヘロデにより投獄(とうごく)され、死んでいった。彼が残したのは、ただ一本の指だけ・・。「見なさい、あの方こそが天からおいでになった救い主だ」という人差し指だけを残して・・・。▼ここにキリスト者の生きるべき姿が暗示されている。私たちは自分を人前に見せびらかし、その働きを記念するというような「醜(みにく)い生き方」を捨てなければならない。あの方こそ「すべてのすべてであられる」とイエスを指し示し、使命を果たし終えたら喜んでろうそくのように溶け去り、消えていくべきである。


朝の露 <良いぶどう酒>

2023-08-05 | ヨハネ福音書
「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」(ヨハネ2:10新改訳)
この章にはイエスの持つ全知全能者としての栄光があらわれている。▼人間は水とぶどう酒を混ぜることはできても、水を瞬間的(しゅんかんてき)にぶどう酒に変えることはできない。ところが主は「ただのひと声」で水を上等なぶどう酒に変えられた。これは自然界の法則を支配しておられる創造者の栄光である。さらに時間すら主のご支配下にある。なぜなら、最高のワインを作るためには、ふつう、何年も熟成(じゅくせい)させる時間が必要なのに、即座(そくざ)にそれをなさったのだから。▼さらにヨハネは、主が「人のうちに何があるかを知っておられた」(25)と記しているが、これは主が持っておられた全知の栄光を指している。何十年もつれそった仲のよい夫婦でも、心の奥まで互いに知りつくすことは不可能なのに、主イエスは人の心をすべて完全に見ぬいておられた。全知全能の神は百億近い人間一人一人の心を、透明(とうめい)な水の底まで見通すように知っておられる。信じない人々にとって、これは恐ろしい事実であろう。しかし主を救い主と仰ぐ者にとっては、限りなく慰めに満ちた事実である。▼「主イエスよ、あなたは私の生涯も心の思いも、すべてを完全に知っておられます。今なにを悩み苦しんでいるかも、ほんとうは何がほしいかも、ありとあらゆる心の真相もご存じです。そしてその上で愛しておられ、いつも最善をなしてくださっているのです。ですから私は平安で嬉しく、あなたの手の上で毎日安らいでいます。地上生涯を終え、御国に行くまで、すなわち、あなたと顔と顔を合わせて相見(あいまみ)ゆるときまでそうなのです。主よ、感謝です。すべての栄光があなたにありますように」