国立西洋美術館でハンマースホイ展が開かれている。早く行きたいと思いながらも、なかなか行けずにいたが、夜間開館日の昨日、やっと行くことができた。
おそらく多くの人たちと同じだろうが、私がハンマースホイの名前を知ったのは、2007年の「オルセー美術館展」(東京都美術館で開催)のときだった。あのときは、並みいる印象派の画家たちにまじって、ハンマースホイという未知の画家の絵が一枚ぽつんと展示されていた。題名は「室内、ストランゲーゼ30番地」となっていた。開いたドアから誰もいない室内をのぞいた絵で、印象派の明るい色彩とは異なり、沈んだ灰色の絵だった。
ハンマースホイって誰、ストランゲーゼって何処、というのが私の正直な感想だった。調べてみると、デンマークの画家で、コペンハーゲンの一角にあった。私はこの画家をもっと知りたいと思った。
幸運なことに、その年の夏、コペンハーゲンのデンマーク国立美術館を訪れることができた。行ってみると、ハンマースホイのための一室があった。デンマークでは高く評価されている画家であることが分かった。
そのハンマースホイの展覧会が今年日本で開催されると知ったときには驚いた。まさに望外の喜びだった。そして昨日、実際に行ってみると、ハンマースホイの全貌が分かる大規模なものだった。
私がもっとも感心したのは、この画家の主要分野である室内画の展示が、「人のいる室内」と「誰もいない室内」に分かれていたことだ。同じ室内画でも、両者には微妙なちがいがあることが分かった。
人のいる室内では、人物は背を向けて、本を読むなり、ピアノに向かうなりしていて、こちらには無関心だ。背中をみつめている画家、そして私たちは、意思の疎通ができないため、孤独感を味わう。
一方、誰もいない、がらんとした室内は、孤独にはちがいないが、不思議な安らぎが感じられる。人物に代わって、窓から射しこむ陽光が主役になり、何かを解放する。
ハンマースホイの室内画はフェルメールと比較されるが、その印象はかなりちがう。フェルメールの場合は、日常生活の中の一瞬のドラマが定着されているが、ハンマースホイの場合は、ドラマの不在がその本質だ。
また背中を向けた人物が、ドイツ・ロマン派の画家フリードリッヒと比較されるが、両者の本質もかなりちがう。フリードリッヒの場合は、信仰、愛、死、再生、その他の何かが世界を満たしているが、ハンマースホイの場合は、空しい現実をそのまま受容している。
ハンマースホイの絵は、象徴主義的な作品といわれることがあるが、たしかにうなずけるところがある。そして私は、その中で表現されているものは、生の孤独であり、孤独の受容ではないかと感じるが、どうだろうか。
今回の展覧会は、国立西洋美術館が「ピアノを弾くイーダのいる室内」を購入したことがきっかけだという。実に嬉しい。同作品も展示されているが、大変完成度が高い。今後この作品がいつでもみられることになるとは、何という喜びだろう。
同じようなケースとして、同美術館が「聖トマス」を購入したことがきっかけとなって、2005年にジョルジュ・ド・ラ・トゥール展が開催されたことを思い出す。あの展覧会も感動的だった。今、同作品は常設展示されている。
(2008.11.07.国立西洋美術館)
おそらく多くの人たちと同じだろうが、私がハンマースホイの名前を知ったのは、2007年の「オルセー美術館展」(東京都美術館で開催)のときだった。あのときは、並みいる印象派の画家たちにまじって、ハンマースホイという未知の画家の絵が一枚ぽつんと展示されていた。題名は「室内、ストランゲーゼ30番地」となっていた。開いたドアから誰もいない室内をのぞいた絵で、印象派の明るい色彩とは異なり、沈んだ灰色の絵だった。
ハンマースホイって誰、ストランゲーゼって何処、というのが私の正直な感想だった。調べてみると、デンマークの画家で、コペンハーゲンの一角にあった。私はこの画家をもっと知りたいと思った。
幸運なことに、その年の夏、コペンハーゲンのデンマーク国立美術館を訪れることができた。行ってみると、ハンマースホイのための一室があった。デンマークでは高く評価されている画家であることが分かった。
そのハンマースホイの展覧会が今年日本で開催されると知ったときには驚いた。まさに望外の喜びだった。そして昨日、実際に行ってみると、ハンマースホイの全貌が分かる大規模なものだった。
私がもっとも感心したのは、この画家の主要分野である室内画の展示が、「人のいる室内」と「誰もいない室内」に分かれていたことだ。同じ室内画でも、両者には微妙なちがいがあることが分かった。
人のいる室内では、人物は背を向けて、本を読むなり、ピアノに向かうなりしていて、こちらには無関心だ。背中をみつめている画家、そして私たちは、意思の疎通ができないため、孤独感を味わう。
一方、誰もいない、がらんとした室内は、孤独にはちがいないが、不思議な安らぎが感じられる。人物に代わって、窓から射しこむ陽光が主役になり、何かを解放する。
ハンマースホイの室内画はフェルメールと比較されるが、その印象はかなりちがう。フェルメールの場合は、日常生活の中の一瞬のドラマが定着されているが、ハンマースホイの場合は、ドラマの不在がその本質だ。
また背中を向けた人物が、ドイツ・ロマン派の画家フリードリッヒと比較されるが、両者の本質もかなりちがう。フリードリッヒの場合は、信仰、愛、死、再生、その他の何かが世界を満たしているが、ハンマースホイの場合は、空しい現実をそのまま受容している。
ハンマースホイの絵は、象徴主義的な作品といわれることがあるが、たしかにうなずけるところがある。そして私は、その中で表現されているものは、生の孤独であり、孤独の受容ではないかと感じるが、どうだろうか。
今回の展覧会は、国立西洋美術館が「ピアノを弾くイーダのいる室内」を購入したことがきっかけだという。実に嬉しい。同作品も展示されているが、大変完成度が高い。今後この作品がいつでもみられることになるとは、何という喜びだろう。
同じようなケースとして、同美術館が「聖トマス」を購入したことがきっかけとなって、2005年にジョルジュ・ド・ラ・トゥール展が開催されたことを思い出す。あの展覧会も感動的だった。今、同作品は常設展示されている。
(2008.11.07.国立西洋美術館)
ハンマースホイ展には行かなかったのですが、2008年9月20日付日経新聞の「アート・ライフ」欄でも紹介されていました。
「背を向けた若い女性のいる室内」に関して、紙面から一部抜粋させてください。
「一見すると写実的な美しい絵と感じられる。しかし、よく見るとどこか非現実的で、釈然としない雰囲気が漂う。」
「その物憂げな後姿で鑑賞者を画中へと引き込んでいく。しかし同時に、その背中や壁の存在によって、見る者はそれ以上先へ踏み込むことを許されないまま、その場に置き去りにされたような不安感に捕らわれてしまう。(中略)絵からは何も語られず、時間がそのまま止まってしまったかのようである。」
「謎めいた静寂に包まれた(作風)」
紙面と回顧展のサイトで見た彼の作品から、私も同様の印象を受けました。
確かに美しいのだけれど、同時に苛立ちとも居心地の悪さともつかない感情を覚えます。
それは、鑑賞者が作中人物に注ぐ視線を、正にその絵が目撃しているように感じるからではないかと思いました。
現場を捕らえられたようなバツの悪さを覚え、その絵の前に立つことで画家の意図にはまっていると気付く。
人物が描かれていない部屋にも、「見られていることを知っている」気配が漂っている気がします。その過剰な自意識に取り込まれたことが癪に触るのかもしれません。
しかしその取り残された空間で、遅過ぎた時間にすでに飲み込まれてしまっている。そしてそれすらも絵によって目撃されている。
取り残され、目撃されるための場所としての絵。
そんな印象を受けました。
Eno様の、「フェルメールの場合は、日常生活の中の一瞬のドラマが定着されているが、ハンマースホイの場合は、ドラマの不在がその本質だ」とのご指摘は、正に的を得ているように思います。
いきなりの長文かつディープなコメントで失礼いたしました。
音楽に関する日記も非常に充実の内容で、楽しく読ませていただいております。
またお邪魔させていただくかと思いますが、よろしくお願いいたします。
もし長すぎるようでしたら、掲載せずに削除していただいて構いません。
失礼いたしました。