先日、樋田毅氏の「彼は早稲田で死んだ」(2021年、文藝春秋社)を読み、ブログを書いた。1972年11月に早稲田大学第一文学部2年生だった川口大三郎君が、キャンパス内で革マル派のリンチにより殺された事件の回想録だ。著者の樋田氏は当時1年生だった。樋田氏はその事件を契機に起きた革マル派を排斥する運動のリーダー格だった。わたしは川口君と同じ2年生だった。わたしはノンポリ学生だったが、川口君の事件は大学を揺るがす大事件だったので、激動の渦中にいた。いまからちょうど50年前になる。わたしの中では時間の厚い堆積に埋もれていたが、本書はその記憶を呼び覚ました。
樋田氏はその後、第一文学部を卒業して大学院に進んだが、中退して朝日新聞社に就職した。新聞記者時代に担当したもっとも印象的な事件は「赤報隊事件」だったようだ。その取材記録を「記者襲撃」(2018年、岩波書店)にまとめている。
赤報隊事件といっても、忘れていたり、知らなかったりする人もいるかもしれない。1987年5月3日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽をかぶった男が現れ、散弾銃で記者ひとりを射殺し、記者ひとりに重傷を負わせた事件だ。当時は社会を震撼させた。警察も懸命に捜査しただろう。朝日新聞社も取材班を編成して犯人を追った。樋田氏はその取材班に加わった。
赤報隊を名乗るテロリスト(たち)は、阪神支局襲撃の前にも、同年1月24日に同社東京本社に散弾銃2発を撃ち込んでいた。また阪神支局襲撃後も、同社の社員寮などを襲い、挙句の果てはリクルートコスモス社を襲い、また愛知韓国人会館を襲った。それらすべての犯行は未解決のまま、2003年に公訴時効をむかえた。
警察もそうだが、朝日新聞取材班も、右翼と、「大規模な合同結婚式などで世間を騒がせた教団」との2つのルートを追った。樋田氏は右翼と同教団のそれぞれの関係者に会い、質問を重ねた。時には朝日新聞への激しい憎悪を感じたり、殺意のようなものを感じたりすることもあったようだ。本書にもその一端が書かれている。
犯人(グループ)からは合計6通の犯行声明文が送られた。本書にはそのすべてが収録されている。どの犯行声明文にも「反日」という言葉が使われている。樋田氏は書く、「「赤報隊」が犯行声明文で頻繁に用いた「反日」という言葉は事件当時、耳慣れない言葉だった。だが、現在はネット上で在日韓国人らを罵倒する用語として飛び交い、ヘイトスピーチ・デモで使われる「スローガン」にもなっている。」と。
わたしも考えてみた。もし阪神支局襲撃事件がいま起きたら、社会はどう反応するだろう。ネット上にはどんな言葉があふれるだろう、と。
樋田氏はその後、第一文学部を卒業して大学院に進んだが、中退して朝日新聞社に就職した。新聞記者時代に担当したもっとも印象的な事件は「赤報隊事件」だったようだ。その取材記録を「記者襲撃」(2018年、岩波書店)にまとめている。
赤報隊事件といっても、忘れていたり、知らなかったりする人もいるかもしれない。1987年5月3日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽をかぶった男が現れ、散弾銃で記者ひとりを射殺し、記者ひとりに重傷を負わせた事件だ。当時は社会を震撼させた。警察も懸命に捜査しただろう。朝日新聞社も取材班を編成して犯人を追った。樋田氏はその取材班に加わった。
赤報隊を名乗るテロリスト(たち)は、阪神支局襲撃の前にも、同年1月24日に同社東京本社に散弾銃2発を撃ち込んでいた。また阪神支局襲撃後も、同社の社員寮などを襲い、挙句の果てはリクルートコスモス社を襲い、また愛知韓国人会館を襲った。それらすべての犯行は未解決のまま、2003年に公訴時効をむかえた。
警察もそうだが、朝日新聞取材班も、右翼と、「大規模な合同結婚式などで世間を騒がせた教団」との2つのルートを追った。樋田氏は右翼と同教団のそれぞれの関係者に会い、質問を重ねた。時には朝日新聞への激しい憎悪を感じたり、殺意のようなものを感じたりすることもあったようだ。本書にもその一端が書かれている。
犯人(グループ)からは合計6通の犯行声明文が送られた。本書にはそのすべてが収録されている。どの犯行声明文にも「反日」という言葉が使われている。樋田氏は書く、「「赤報隊」が犯行声明文で頻繁に用いた「反日」という言葉は事件当時、耳慣れない言葉だった。だが、現在はネット上で在日韓国人らを罵倒する用語として飛び交い、ヘイトスピーチ・デモで使われる「スローガン」にもなっている。」と。
わたしも考えてみた。もし阪神支局襲撃事件がいま起きたら、社会はどう反応するだろう。ネット上にはどんな言葉があふれるだろう、と。