ヴェデルニコフ指揮N響のCプロ。ドヴォルザークのチェロ協奏曲とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というプログラムは、名曲コンサートのようだが、‘ロ短調’のプログラムという面も意識されているのかもしれない。
まずドヴォルザークのチェロ協奏曲。チェロ独奏はアレクサンドル・クニャーゼフ。優秀なチェロ奏者だし、オーケストラもよかったが、その割に(わたしの場合)心は動かなかった。なぜだろう。その要因はヴェデルニコフの個性にあるのかもしれないが、これに関しては後述する。
むしろアンコールが面白かった。パガニーニの「24の奇想曲」作品1から第13番をチェロ(!)で弾いた。さすがにチェロだと弾きにくそうだが、苦労して弾いている姿を見る楽しさ(多少意地の悪い‥)を味わった。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、N響のアンサンブルのよさが表れたという意味で、名演だったと思う。管には瑕疵がなかったわけではないが、そんなことよりも、オーケストラ全体のアンサンブルのよさが際立った。
ヴェデルニコフの指揮もN響のアンサンブルの実力を十分に承知して、それを妨げないよう配慮したものだった。その点はドヴォルザークのチェロ協奏曲も同じだし、もっと端的にいえば、Aプロで演奏したストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうだった。でも、それらの曲とは違って、「悲愴」ではヴェデルニコフの想いが込められていた。一歩踏み込んだ演奏だった。
NHKホールの巨大な空間をN響の音が満たした。あの大空間いっぱいに「悲愴」が鳴り響く様は壮観だった。すごいオーケストラだし、すごい曲だと思った。それを感じさせた指揮者もすごいのかもしれない。
わたしが聴きに行けるわけではないが、ベルリン・フィルの今シーズンの定期に次期首席指揮者のキリル・ペトレンコが登場し、「悲愴」を振る。きっとテンポを揺らし、細やかな表情を施した、表現主義的な演奏になるのではないかと想像する。
それに比べるとヴェデルニコフは、自分を抑え気味で、むしろオーケストラのアンサンブルを優先させる傾向があるようだ。「春の祭典」は、正直にいって、整理整頓の行き届いた演奏だったが、スリルに欠けた。写真を見るとアクが強そうに見えるが、演奏はそのイメージとは必ずしも一致しない。
(2016.10.22.NHKホール)
まずドヴォルザークのチェロ協奏曲。チェロ独奏はアレクサンドル・クニャーゼフ。優秀なチェロ奏者だし、オーケストラもよかったが、その割に(わたしの場合)心は動かなかった。なぜだろう。その要因はヴェデルニコフの個性にあるのかもしれないが、これに関しては後述する。
むしろアンコールが面白かった。パガニーニの「24の奇想曲」作品1から第13番をチェロ(!)で弾いた。さすがにチェロだと弾きにくそうだが、苦労して弾いている姿を見る楽しさ(多少意地の悪い‥)を味わった。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、N響のアンサンブルのよさが表れたという意味で、名演だったと思う。管には瑕疵がなかったわけではないが、そんなことよりも、オーケストラ全体のアンサンブルのよさが際立った。
ヴェデルニコフの指揮もN響のアンサンブルの実力を十分に承知して、それを妨げないよう配慮したものだった。その点はドヴォルザークのチェロ協奏曲も同じだし、もっと端的にいえば、Aプロで演奏したストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうだった。でも、それらの曲とは違って、「悲愴」ではヴェデルニコフの想いが込められていた。一歩踏み込んだ演奏だった。
NHKホールの巨大な空間をN響の音が満たした。あの大空間いっぱいに「悲愴」が鳴り響く様は壮観だった。すごいオーケストラだし、すごい曲だと思った。それを感じさせた指揮者もすごいのかもしれない。
わたしが聴きに行けるわけではないが、ベルリン・フィルの今シーズンの定期に次期首席指揮者のキリル・ペトレンコが登場し、「悲愴」を振る。きっとテンポを揺らし、細やかな表情を施した、表現主義的な演奏になるのではないかと想像する。
それに比べるとヴェデルニコフは、自分を抑え気味で、むしろオーケストラのアンサンブルを優先させる傾向があるようだ。「春の祭典」は、正直にいって、整理整頓の行き届いた演奏だったが、スリルに欠けた。写真を見るとアクが強そうに見えるが、演奏はそのイメージとは必ずしも一致しない。
(2016.10.22.NHKホール)