インキネン/日本フィルが続けているシベリウス&マーラー・シリーズも今回で6回目となった。今回もシベリウスはレア物が選曲されている。
1曲目の「歴史的情景第1番」は「フィンランディア」と同時期の作品。全3曲からなり、第1曲と第2曲はバラード風の曲だ。いかにも初期のシベリウス。そう思って聴いていると、第3曲になってカスタネットが出てきた。これはショックだった。シベリウスとカスタネットとが結び付かなかった。
2曲目の組曲「ベルシャザールの饗宴」は1906年に作曲された劇音楽。組曲への編曲は1907年。交響曲でいえば、第3番の直前の作品だ。劇音楽とはいえ、民族主義的ロマン主義からの脱皮が感じられる。全4曲からなるが、中でも第2曲と第3曲の内向的な音楽に強い印象を受けた。
演奏は、その第2曲と第3曲で、弱音への集中力がすごかった。すべての雑念を捨てて音楽に沈潜していく演奏。このような集中力がインキネンの美質の一つだ。
組曲「ベルシャザールの饗宴」は当初発表の交響詩「ルオンノタール」から変更になったものだ。「ルオンノタール」に出演予定だったヘレナ・ユントゥネンという歌手(「ルオンノタール」は声楽を伴う交響詩だ)が、出産のため来日できなくなったから。
ユントゥネンはプログラム後半のマーラーの「大地の歌」にも出演予定だったが、こちらはバリトンの河野克典に変更になった。「大地の歌」は、通常はアルトとテノールで歌われるが、アルトがバリトンに替わることもあるので、あぁ、そうかと思っていた。
ところが、プレトークだったか、アフタートークだったか、いずれかでユントゥネンはソプラノであることを知った。えっ、ソプラノ?と思った。わたしの知識不足のせいだろうが、「大地の歌」をソプラノで歌うケースがあるとは知らなかった。
代役の河野克典は、いうまでもなくドイツ歌曲の世界をしっかり持った歌手だが、今回はオーケストラに埋もれ気味だった。それは仕方ないかもしれないが、もっと気になったことは、ドイツ語の発音がこもり気味だったことだ。一方、テノールの西村悟は若いパワーが炸裂した。
インキネン指揮の日本フィルは、過去のマーラー演奏と同様、肌理の細かいテクスチュアを織る演奏。さらに一段と磨きがかかってきた。第6楽章「告別」でのオーボエが見事だった。
(2015.11.7.サントリーホール)
1曲目の「歴史的情景第1番」は「フィンランディア」と同時期の作品。全3曲からなり、第1曲と第2曲はバラード風の曲だ。いかにも初期のシベリウス。そう思って聴いていると、第3曲になってカスタネットが出てきた。これはショックだった。シベリウスとカスタネットとが結び付かなかった。
2曲目の組曲「ベルシャザールの饗宴」は1906年に作曲された劇音楽。組曲への編曲は1907年。交響曲でいえば、第3番の直前の作品だ。劇音楽とはいえ、民族主義的ロマン主義からの脱皮が感じられる。全4曲からなるが、中でも第2曲と第3曲の内向的な音楽に強い印象を受けた。
演奏は、その第2曲と第3曲で、弱音への集中力がすごかった。すべての雑念を捨てて音楽に沈潜していく演奏。このような集中力がインキネンの美質の一つだ。
組曲「ベルシャザールの饗宴」は当初発表の交響詩「ルオンノタール」から変更になったものだ。「ルオンノタール」に出演予定だったヘレナ・ユントゥネンという歌手(「ルオンノタール」は声楽を伴う交響詩だ)が、出産のため来日できなくなったから。
ユントゥネンはプログラム後半のマーラーの「大地の歌」にも出演予定だったが、こちらはバリトンの河野克典に変更になった。「大地の歌」は、通常はアルトとテノールで歌われるが、アルトがバリトンに替わることもあるので、あぁ、そうかと思っていた。
ところが、プレトークだったか、アフタートークだったか、いずれかでユントゥネンはソプラノであることを知った。えっ、ソプラノ?と思った。わたしの知識不足のせいだろうが、「大地の歌」をソプラノで歌うケースがあるとは知らなかった。
代役の河野克典は、いうまでもなくドイツ歌曲の世界をしっかり持った歌手だが、今回はオーケストラに埋もれ気味だった。それは仕方ないかもしれないが、もっと気になったことは、ドイツ語の発音がこもり気味だったことだ。一方、テノールの西村悟は若いパワーが炸裂した。
インキネン指揮の日本フィルは、過去のマーラー演奏と同様、肌理の細かいテクスチュアを織る演奏。さらに一段と磨きがかかってきた。第6楽章「告別」でのオーボエが見事だった。
(2015.11.7.サントリーホール)