飯守泰次郎指揮の東京シティ・フィル。1曲目はブラームスの「運命の歌」。オーケストラの前奏が始まると、優しく慰撫するような演奏にハッとした。飯守さんの今の境地だろうか。中間の劇的な部分も充実していた。劇的で激しいのだが、ブラームスらしい懐の深さを保っていた。オーケストラによる後奏も前奏と同じ表現。短いのが残念なくらいだ。合唱は東京シティ・フィル・コーア。
この曲でこれほどブラームスと深く触れ合った演奏を聴くのは、いつ以来か。けっして前座ではなく、これを演奏するのだという、はっきりした目的意識をもった演奏。我々聴き手にとっては、時間潰しのような消極的な聴き方ではなく、なにかを得ることのできる演奏だった。
2曲目はブルックナーの交響曲第7番。第1楽章第1主題の前半、天に向かって一音一音登っていくその一音一音が、あたかも階段を踏みしめるように、はっきりと演奏された。そして後半、一転して半音階の動きになる部分では、前半との対比が強調された。さらに注目すべきことは、その主題には一貫して深々とした呼吸感があったことだ。その呼吸感は第2主題、第3主題にも受け継がれ、さらには第2楽章以降にも――この演奏の全体にわたって――脈々と続いた。
もう一つ感じたことは、金管群の充実だ。最近優秀な人が入ったのだろうか。昔と比べると目を見張るほどだ。木管の優秀な若手のソロも楽しんだ。弦の分厚い音は昔からのもの。飯守さんの鍛錬のたまものだ。こうしてオーケストラは、全体として、終始一貫充実した音で鳴り響いた。
そう感じたのは、先日、某オーケストラで生煮えのブルックナーの第5番を聴いたことが一因かもしれない。指揮者のやりたいことはわかるのだが――そしてそれは興味深いのだが――、オーケストラに確信が乏しかった。手探りの部分が残った。それは欲求不満につながった。
今回、東京シティ・フィルの演奏は、確信に満ちていた。飯守さんのやりたいことをすべて心得て、確信をもって演奏していた。飯守さんといえども、このオーケストラでなければ、こういう演奏はできなかったと思う。長年培ってきた関係が、今、実を結んでいるのだ。
飯守さんは、常任指揮者を退任した2012年から、年一回のペースでブルックナーの演奏を始めている。第4番、第5番ときて今回が第7番。毎回、記念碑的な演奏を成し遂げている。これは画期的だ。
(2014.4.15.東京オペラシティ)
この曲でこれほどブラームスと深く触れ合った演奏を聴くのは、いつ以来か。けっして前座ではなく、これを演奏するのだという、はっきりした目的意識をもった演奏。我々聴き手にとっては、時間潰しのような消極的な聴き方ではなく、なにかを得ることのできる演奏だった。
2曲目はブルックナーの交響曲第7番。第1楽章第1主題の前半、天に向かって一音一音登っていくその一音一音が、あたかも階段を踏みしめるように、はっきりと演奏された。そして後半、一転して半音階の動きになる部分では、前半との対比が強調された。さらに注目すべきことは、その主題には一貫して深々とした呼吸感があったことだ。その呼吸感は第2主題、第3主題にも受け継がれ、さらには第2楽章以降にも――この演奏の全体にわたって――脈々と続いた。
もう一つ感じたことは、金管群の充実だ。最近優秀な人が入ったのだろうか。昔と比べると目を見張るほどだ。木管の優秀な若手のソロも楽しんだ。弦の分厚い音は昔からのもの。飯守さんの鍛錬のたまものだ。こうしてオーケストラは、全体として、終始一貫充実した音で鳴り響いた。
そう感じたのは、先日、某オーケストラで生煮えのブルックナーの第5番を聴いたことが一因かもしれない。指揮者のやりたいことはわかるのだが――そしてそれは興味深いのだが――、オーケストラに確信が乏しかった。手探りの部分が残った。それは欲求不満につながった。
今回、東京シティ・フィルの演奏は、確信に満ちていた。飯守さんのやりたいことをすべて心得て、確信をもって演奏していた。飯守さんといえども、このオーケストラでなければ、こういう演奏はできなかったと思う。長年培ってきた関係が、今、実を結んでいるのだ。
飯守さんは、常任指揮者を退任した2012年から、年一回のペースでブルックナーの演奏を始めている。第4番、第5番ときて今回が第7番。毎回、記念碑的な演奏を成し遂げている。これは画期的だ。
(2014.4.15.東京オペラシティ)