ラザレフ/日本フィルの東京定期。1曲目はグラズノフのバレエ音楽「四季」。秋のバッカナールが有名だが、ラザレフの指揮だと、秋に至るまでの冬~春~夏も面白い。各場を切らずに演奏したので、どこからどこまでが冬で、どこからは春で、ということは分からなかったが、音楽の流れと変化が適度にあり、バレエ音楽の楽しさを十分に味わうことができた。
ラザレフはバレエ音楽がうまいと思う。2012年5月には横浜定期でグラズノフのバレエ音楽「ライモンダ」の抜粋を演奏したが、これもよかった。バレエが専門の職人的指揮者だとそうはいかないが、ラザレフくらいの大指揮者だと、演奏会でもバレエ音楽を面白く聴かせることができるようだ。
ラザレフは来シーズンからグラズノフを取り上げる。期待大だ。ラザレフがまだ読響を振っていた頃に、グラズノフの交響曲第5番を演奏したことがある。その印象は今でも鮮明に残っている。大河の流れのように雄大な演奏だった。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第15番。ピアノ、ピアニッシモの部分を徹底的にコントロールし、フォルテ、フォルテッシモの炸裂と明確に対比させた。こういう演奏が平気で(日常的に)できるところまでラザレフ/日本フィルは来たようだ。
トロンボーン、チェロをはじめとする各楽器のソロがはっきり浮き上がった。オーケストラのための協奏曲というと言い過ぎだが、そこに接近した音楽のように聴こえた。ソリスティックな遊びがこの曲にはあると思った。そんな演奏が新鮮だった。いうまでもないが、ラザレフの解釈によるのだろう。
ラザレフはショスタコーヴィチ解釈では世界でも第一人者だと思う。ショスタコーヴィチが抱いていた自曲の演奏のイメージ(ムラヴィンスキーなどのイメージ)を今に伝える指揮者ではないだろうか。正統的な解釈という言葉が今でも意味を持つなら、ショスタコーヴィチに関してはその最後の指揮者だろう。
今回の定期はラザレフの首席指揮者としての最後の定期だった。ソロ・カーテンコールとか花束贈呈とか、なにかその類のことがあるだろうと思っていたが、特別のことはなかった。それはそれでいいのかもしれない。ラザレフとの関係は今後も続くのだから。
ラザレフは日本フィルの聴衆からほんとうに愛されている。スクロヴァチェフスキが読響の聴衆から愛されているのと似ている感じがする。
(2016.7.8.サントリーホール)
ラザレフはバレエ音楽がうまいと思う。2012年5月には横浜定期でグラズノフのバレエ音楽「ライモンダ」の抜粋を演奏したが、これもよかった。バレエが専門の職人的指揮者だとそうはいかないが、ラザレフくらいの大指揮者だと、演奏会でもバレエ音楽を面白く聴かせることができるようだ。
ラザレフは来シーズンからグラズノフを取り上げる。期待大だ。ラザレフがまだ読響を振っていた頃に、グラズノフの交響曲第5番を演奏したことがある。その印象は今でも鮮明に残っている。大河の流れのように雄大な演奏だった。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第15番。ピアノ、ピアニッシモの部分を徹底的にコントロールし、フォルテ、フォルテッシモの炸裂と明確に対比させた。こういう演奏が平気で(日常的に)できるところまでラザレフ/日本フィルは来たようだ。
トロンボーン、チェロをはじめとする各楽器のソロがはっきり浮き上がった。オーケストラのための協奏曲というと言い過ぎだが、そこに接近した音楽のように聴こえた。ソリスティックな遊びがこの曲にはあると思った。そんな演奏が新鮮だった。いうまでもないが、ラザレフの解釈によるのだろう。
ラザレフはショスタコーヴィチ解釈では世界でも第一人者だと思う。ショスタコーヴィチが抱いていた自曲の演奏のイメージ(ムラヴィンスキーなどのイメージ)を今に伝える指揮者ではないだろうか。正統的な解釈という言葉が今でも意味を持つなら、ショスタコーヴィチに関してはその最後の指揮者だろう。
今回の定期はラザレフの首席指揮者としての最後の定期だった。ソロ・カーテンコールとか花束贈呈とか、なにかその類のことがあるだろうと思っていたが、特別のことはなかった。それはそれでいいのかもしれない。ラザレフとの関係は今後も続くのだから。
ラザレフは日本フィルの聴衆からほんとうに愛されている。スクロヴァチェフスキが読響の聴衆から愛されているのと似ている感じがする。
(2016.7.8.サントリーホール)