Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マーラー交響曲第3番

2010年03月31日 | 音楽
 インバル指揮の都響の3月定期Bシリーズは、マーラーの交響曲第3番。コンサートミストレスに四方恭子さん、その横のフォアシュピーラーには矢部達哉さんという豪華メンバー。そのほかにも都響のスタープレイヤーが総出だった。

 ブルックナーではその様式と自身の資質とのあいだに齟齬を――少なくとも私には――感じさせるインバルだが、マーラーではそんなことはない。水も漏らさぬ同質性がそこにはあると感じられる。

 インバルは若いころからマーラーを振っていて、いわばキャリアを通じてマーラーを振り続けているが、今に至ってついに完成の域に達したようだ。豊かに鳴る音、淀みない語り口、細部へのこだわりと大らかな旋律線の両立、緊密な構築感など。都響も懸命にインバルの要求に応えていた。

 第1楽章の序奏からテンションの高い演奏。コーダの畳み掛けるような運びはインバルらしい。第3楽章中間部はミュートをつけたトランペットによる演奏。ポストホルンの鄙びた音ではないが、このほうが無難なことは確か。第6楽章の息の長い盛り上がりはまったく弛緩しない。途中の強烈な不協和音は、なにかの崩壊ではなく、中間的な頂点として位置づけられていると感じた。

 メゾ・ソプラノはイリス・フェルミリオン。深く澄んだ声は圧倒的だった。いわばすべてがインバルのプログラミングどおりに進んでいる演奏にあって、フェルミリオンの声はその統制を超えて存在しているようだった。

 実は私はフェルミリオンとの再会を心待ちにしていた。このブログにもかいたが、今年2月にドレスデンでオトマール・シェックのオペラ「ペンテジレーア」をみたときに、タイトルロールを歌っていたのがフェルミリオン。私はそのとき魂の裸形をみる思いがして、震えるような感動をおぼえた。
 今回のフェルミリオンも期待にたがわぬ存在感だった。

 プログラム誌に載った舩木篤也さんの訳詩に感心した。明るく、センスがあり、現代感覚に裏打ちされた訳詩。それがどのようなものか、少しでも想像していただくために、第5楽章のペテロの否認の冒頭を引用してみたい。

  あるとき三人の天使が 愛らしい歌をうたっておりました
  いかにも嬉しそうに
   それは天上で浄らかな響きをふりまいていました
  天使たちは愉しげに 歓びの声をあげて言いました
  「ペテロの罪は晴れたよ!」

 私は今までこういう訳詩をみたことがない。
(2010.3.30.サントリーホール)

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