今夏は7月に外山雄三さんが亡くなり、8月に飯守泰次郎さんが亡くなった。まったく何ていう夏だろうと思っていたら、10月にチェコ・フィルの元首席指揮者のズデニェク・マーツァルが亡くなり、11月に読響の名誉指揮者のユーリ・テミルカーノフが亡くなった。
マーツァルは2003年にチェコ・フィルの首席指揮者に就任した。チェコが1989年にビロード革命を成し遂げた後、チェコ・フィルの首席指揮者は、短命に終わった第一次ビエロフラーヴェク時代を経て、ゲルト・アルブレヒト、ウラジミール・アシュケナージと外国人指揮者が続いた。その後を受けてのチェコ人・マーツァルの就任だった。だが2007年には退任した。
わたしは2008年にプラハを訪れた。チェコ・フィルの定期演奏会があるので、聴きにいった。指揮はマーツァルだった。プログラムは1曲目がラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はアレクサンドル・トラーゼ。脂の乗り切ったトラーゼの豪快な演奏に満員の聴衆は総立ちだった。2曲目はチャイコフスキーの交響曲第3番。きっちりまとまった演奏だったが、トラーゼの余韻が覚めないためか、大人しく感じた。ただ、はっきり焦点の合った音像が記憶に残った。
後日驚いたことには、チャイコフスキーの交響曲第3番の演奏がEXTONレーベルからライブ録音のCDになって発売された。それを聴いてみると、当日の印象とは異なり、堂々と構築され、情感も豊かな演奏と思われた。その違いをどう考えたらよいのか。
一方、テミルカーノフは(わたしは読響の定期会員なので)よく聴いた。前のめりの打点がオーケストラとかみ合ったとき、独特の高揚感が生まれた。最後の共演となった2019年10月の一連の演奏会では、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」が演奏された定期演奏会を聴いた。合唱は新国立劇場合唱団だった。正直にいうと、粗雑な合唱にがっかりした。当時、新国立劇場では「エウゲニ・オネーギン」が上演中だった。当日も公演があった。メンバーを分散させたのかもしれない。
だがオーケストラは凄みのある演奏だった。凄みという言葉では不十分なくらいの、むしろ恐ろしさがあった。これが専制国家に生きる恐ろしさかと思った。わたしがテミルカーノフを聴くのはそれが最後になった。最後の機会にテミルカーノフは音楽を超えた体験をもたらした。
マーツァルはわたしの人生で一度出会っただけの指揮者。テミルカーノフは何度も出会った指揮者。だが出会った回数に関係なく、それぞれが残した印象は鮮烈だ。それは人生での人との出会いに似ている。
マーツァルは2003年にチェコ・フィルの首席指揮者に就任した。チェコが1989年にビロード革命を成し遂げた後、チェコ・フィルの首席指揮者は、短命に終わった第一次ビエロフラーヴェク時代を経て、ゲルト・アルブレヒト、ウラジミール・アシュケナージと外国人指揮者が続いた。その後を受けてのチェコ人・マーツァルの就任だった。だが2007年には退任した。
わたしは2008年にプラハを訪れた。チェコ・フィルの定期演奏会があるので、聴きにいった。指揮はマーツァルだった。プログラムは1曲目がラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はアレクサンドル・トラーゼ。脂の乗り切ったトラーゼの豪快な演奏に満員の聴衆は総立ちだった。2曲目はチャイコフスキーの交響曲第3番。きっちりまとまった演奏だったが、トラーゼの余韻が覚めないためか、大人しく感じた。ただ、はっきり焦点の合った音像が記憶に残った。
後日驚いたことには、チャイコフスキーの交響曲第3番の演奏がEXTONレーベルからライブ録音のCDになって発売された。それを聴いてみると、当日の印象とは異なり、堂々と構築され、情感も豊かな演奏と思われた。その違いをどう考えたらよいのか。
一方、テミルカーノフは(わたしは読響の定期会員なので)よく聴いた。前のめりの打点がオーケストラとかみ合ったとき、独特の高揚感が生まれた。最後の共演となった2019年10月の一連の演奏会では、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」が演奏された定期演奏会を聴いた。合唱は新国立劇場合唱団だった。正直にいうと、粗雑な合唱にがっかりした。当時、新国立劇場では「エウゲニ・オネーギン」が上演中だった。当日も公演があった。メンバーを分散させたのかもしれない。
だがオーケストラは凄みのある演奏だった。凄みという言葉では不十分なくらいの、むしろ恐ろしさがあった。これが専制国家に生きる恐ろしさかと思った。わたしがテミルカーノフを聴くのはそれが最後になった。最後の機会にテミルカーノフは音楽を超えた体験をもたらした。
マーツァルはわたしの人生で一度出会っただけの指揮者。テミルカーノフは何度も出会った指揮者。だが出会った回数に関係なく、それぞれが残した印象は鮮烈だ。それは人生での人との出会いに似ている。