ファビオ・ルイージがN響の首席指揮者になって初めての定期演奏会。曲目はヴェルディの「レクイエム」。宗教曲ではあるが、実際には祝典的でオペラ的でもあるので、演奏が始まると、首席指揮者就任祝いの曲として違和感はなかった。
わたしには約2年ぶりのNHKホールになるが、内装も音響もとくに変わっていなかった。あのデッドな音響はそのままだ。そこで聴くN響の音も変わらない。N響はこの約2年間、東京芸術劇場に会場を移したが、音響的には癖のある同劇場なので、最初はてこずった風もある。だが、さすがにN響だ、見る見るうちに同劇場を巧みに鳴らすようになった。ところがNHKホールに戻って、N響はふたたび同ホールを鳴らすことにてこずっているように見える。
ファビオ・ルイージの指揮は、激情に身を任すのではなく、沈着に音楽を造形した。とくに第2部「怒りの日」の後半で、最後の「ラクリモーサ」にむけて徐々にテンポを落としていくあたりに、たいへんな凝縮力があった。全般的に首席指揮者就任のお祭り騒ぎにはせずに、じっくり音楽に向き合う点がルイージらしいところだ。
先ほど触れたように、この曲はオペラ的といわれるが、その要因は4人の独唱者の歌唱パートにある(逆にいうと、合唱のパートは「怒りの日」を除いてオペラ的な要素はあまりない)ことがよくわかったのは、4人の独唱者が高水準だったからだろう。
ソプラノのヒブラ・ゲルズマーワとメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァは、ともに声に伸びがあり、とくに第2部「怒りの日」のなかの「リコルダーレ」のような二重唱になると、その密度の濃さがオペラを聴いているようだった。もちろん二人が個々に歌っているときもよくて、とくにこの曲では、第6部の「ルクス・エテルナ」まではメゾ・ソプラノの比重が大きく、最後の第7部「リベラ・メ」ではソプラノが主役になるので、高度な二人の存在はきわめて大きかった。
バスは大ベテランのヨン・グァンチョルだった。深々として、しかも滋味あふれる声だ。もちろんピークは越えているだろうが、またその声を聴けただけでも満足すべきだろう。テノールはルネ・バルベラという人で、若手の有望株らしいが、4人のなかでは印象が薄かった。
合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は冨平恭平)。第7部「リベラ・メ」の最後の部分が、リズムが浮き立つように歌われ、思わず目をみはった。その合唱はいまでも耳に残っている。団員は少しずつ間隔をあけて配置された。コロナのいまだ終息しないご時世での苦労をうかがわせた。
(2022.9.11.NHKホール)
わたしには約2年ぶりのNHKホールになるが、内装も音響もとくに変わっていなかった。あのデッドな音響はそのままだ。そこで聴くN響の音も変わらない。N響はこの約2年間、東京芸術劇場に会場を移したが、音響的には癖のある同劇場なので、最初はてこずった風もある。だが、さすがにN響だ、見る見るうちに同劇場を巧みに鳴らすようになった。ところがNHKホールに戻って、N響はふたたび同ホールを鳴らすことにてこずっているように見える。
ファビオ・ルイージの指揮は、激情に身を任すのではなく、沈着に音楽を造形した。とくに第2部「怒りの日」の後半で、最後の「ラクリモーサ」にむけて徐々にテンポを落としていくあたりに、たいへんな凝縮力があった。全般的に首席指揮者就任のお祭り騒ぎにはせずに、じっくり音楽に向き合う点がルイージらしいところだ。
先ほど触れたように、この曲はオペラ的といわれるが、その要因は4人の独唱者の歌唱パートにある(逆にいうと、合唱のパートは「怒りの日」を除いてオペラ的な要素はあまりない)ことがよくわかったのは、4人の独唱者が高水準だったからだろう。
ソプラノのヒブラ・ゲルズマーワとメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァは、ともに声に伸びがあり、とくに第2部「怒りの日」のなかの「リコルダーレ」のような二重唱になると、その密度の濃さがオペラを聴いているようだった。もちろん二人が個々に歌っているときもよくて、とくにこの曲では、第6部の「ルクス・エテルナ」まではメゾ・ソプラノの比重が大きく、最後の第7部「リベラ・メ」ではソプラノが主役になるので、高度な二人の存在はきわめて大きかった。
バスは大ベテランのヨン・グァンチョルだった。深々として、しかも滋味あふれる声だ。もちろんピークは越えているだろうが、またその声を聴けただけでも満足すべきだろう。テノールはルネ・バルベラという人で、若手の有望株らしいが、4人のなかでは印象が薄かった。
合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮は冨平恭平)。第7部「リベラ・メ」の最後の部分が、リズムが浮き立つように歌われ、思わず目をみはった。その合唱はいまでも耳に残っている。団員は少しずつ間隔をあけて配置された。コロナのいまだ終息しないご時世での苦労をうかがわせた。
(2022.9.11.NHKホール)