下野竜也が指揮する東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」と「交響曲第1番」そして伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」。バーバーと伊福部昭の組み合わせが意表を突くが、プログラム・ノートによると、二人は同世代で、バーバーの2曲は1936年の作曲、伊福部昭の曲は1941年の作曲なので、作曲時期も近接している。日米開戦前夜の日米双方の作品だ。もっとも、バーバーの2曲はイタリアで作曲された。当時のイタリアはムッソリーニ率いるファシスト党の全盛期だったが、どんな世相だったのだろう。
「弦楽のためのアダージョ」は、しっとりした弦楽器の音が胸に沁みる演奏だった。前日に聴いた鈴木雅明指揮読響の、とくにボロディンの演奏での、弦楽器のギスギスした音にショックを受けたので、この弦楽器の音にホッとした。余談だが、当日は東京の新型コロナの新規感染者数が3,177人と急増し、不安が広がる中だったので、この曲が昨年来の新型コロナで亡くなった方々への追悼のように聴こえた。
次の「交響曲第1番」は2005年にデプリースト指揮都響で聴いて以来だ。そのときはバーバーの曲で埋め尽くした演奏会だった。いまでも鮮明に覚えている。久しぶりに聴く今回は、冒頭の絢爛豪華なオーケストラの音や、続くスケルツォ的な部分でのスリリングな演奏もさることながら、最後のパッサカリアでの熱い演奏がとくに印象的だった。
最後の伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」は、2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルで初めて聴いたが、そのときわたしは仰天した。伊福部昭の曲はそれなりに聴いてきたつもりだが、この曲の存在を知らなかったし、かつ実際に聴いてみると、これは紛れもない傑作だったからだ。リズムの執拗な繰り返しと日本的な音律という伊福部昭の特徴が、新鮮な形で詰まっていた。
2017年のときも今回も、指揮は下野竜也、ピアノは小山実稚恵だ(2017年のときのオーケストラは東京フィルだった)。下野竜也と小山実稚恵は広島交響楽団でもこの曲を演奏したそうなので、今回が3度目だ。そのためか、2017年のときの印象と比べると、手慣れた感じがした。それを聴くわたしも2度目なので、落ち着いて聴けた。
今回は意外に抒情的な部分が散見されることに気が付いた。また第2楽章はラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を連想させた。伊福部昭のこの曲では第2楽章にフルート・ソロが出てくるが、首席奏者の竹山愛が名演を聴かせた。第3楽章の迫力満点のコーダでは、ピアノとオーケストラが見事に合った演奏を聴かせた。
(2021.7.28.東京オペラシティ)
「弦楽のためのアダージョ」は、しっとりした弦楽器の音が胸に沁みる演奏だった。前日に聴いた鈴木雅明指揮読響の、とくにボロディンの演奏での、弦楽器のギスギスした音にショックを受けたので、この弦楽器の音にホッとした。余談だが、当日は東京の新型コロナの新規感染者数が3,177人と急増し、不安が広がる中だったので、この曲が昨年来の新型コロナで亡くなった方々への追悼のように聴こえた。
次の「交響曲第1番」は2005年にデプリースト指揮都響で聴いて以来だ。そのときはバーバーの曲で埋め尽くした演奏会だった。いまでも鮮明に覚えている。久しぶりに聴く今回は、冒頭の絢爛豪華なオーケストラの音や、続くスケルツォ的な部分でのスリリングな演奏もさることながら、最後のパッサカリアでの熱い演奏がとくに印象的だった。
最後の伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」は、2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルで初めて聴いたが、そのときわたしは仰天した。伊福部昭の曲はそれなりに聴いてきたつもりだが、この曲の存在を知らなかったし、かつ実際に聴いてみると、これは紛れもない傑作だったからだ。リズムの執拗な繰り返しと日本的な音律という伊福部昭の特徴が、新鮮な形で詰まっていた。
2017年のときも今回も、指揮は下野竜也、ピアノは小山実稚恵だ(2017年のときのオーケストラは東京フィルだった)。下野竜也と小山実稚恵は広島交響楽団でもこの曲を演奏したそうなので、今回が3度目だ。そのためか、2017年のときの印象と比べると、手慣れた感じがした。それを聴くわたしも2度目なので、落ち着いて聴けた。
今回は意外に抒情的な部分が散見されることに気が付いた。また第2楽章はラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を連想させた。伊福部昭のこの曲では第2楽章にフルート・ソロが出てくるが、首席奏者の竹山愛が名演を聴かせた。第3楽章の迫力満点のコーダでは、ピアノとオーケストラが見事に合った演奏を聴かせた。
(2021.7.28.東京オペラシティ)