Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大野和士/都響

2019年01月16日 | 音楽
 大野和士指揮都響のAプロ。1曲目はブゾーニの「喜劇序曲」。ある架空の喜劇のための序曲というか、実際の喜劇は存在せず、序曲だけが書かれたもの。「これからどんな喜劇が始まるんだろう」というワクワク感がある。そう感じたのは、演奏がよかったからでもあるだろう。大野和士のオペラ指揮者としての蓄積が滲んでいた。

 2曲目はマーラーの「少年の不思議な角笛」からの抜粋。テノール独唱はイアン・ボストリッジ。「ラインの伝説」と「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」では、往年のボストリッジの声の伸びがなく、もう峠を越えたかと思われた。続く「死んだ鼓手」と「少年鼓手」では、声の伸びには欠けるものの、寂寥感の表出が意欲的で、ボストリッジのやりたいことが感じられた。最後の「美しいトランペットの鳴り渡るところ」では、往年の声の伸びが垣間見られた。

 ボストリッジは、ピーター・ピアーズの現役時代を知らないわたしには、現役では最高のブリテン歌いだった。その歌唱には今でも深い敬意を払っている。そのボストリッジの「今」に接したこともまた意味があると思う。

 大野和士が振る都響の演奏は、ボストリッジ以上に雄弁だった。たとえば「少年鼓手」で最後に残る小太鼓の寂しそうな音、また「美しいトランペットの……」での透明な空気感。

 3曲目はプロコフィエフの交響曲第6番。オペラ「炎の天使」のスペシャリストである大野和士なので、当然ながら、堂に入った解釈だ。Aプロのブルックナーの交響曲第6番では、どこか気負いが感じられたが、プロコフィエフのこの曲では、自然体でドラマトゥルギーを追っているように感じられた。

 全体的に、楽観的なのか、悲観的なのか、どちらともつかないような曲想だが、まさにその曖昧さを捉えた演奏。そして、それにとどまらず、終楽章の末尾近くでの絶叫には、底が抜けたような悲劇性があった。ジダーノフ批判で槍玉にあげられた曲だが、そのときソ連共産党は(同党の立場から)この曲の真の意味を見抜いていたと思った。

 余談だが、会場入り口で受け取ったチラシで、今年のサントリーホール・サマーフェスティヴァルの「ザ・プロデューサー」は大野和士の担当で、ジョージ・ベンジャミンのオペラ「リトゥン・オン・スキン」をやることを知った。なるほど、そういう手があったか!と(新国立劇場ではこのオペラはやれないだろうから)。
(2019.1.15.東京文化会館)
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