4月20~21日に友人と秩父を旅した。男2人の気楽な旅。温泉に入って、ビールを飲み、ワインを飲むうちに眠くなり、持参した地酒には手がつかなかった。
翌日は秩父事件資料館(井上伝蔵邸)を訪れた。友人が探してきた所だが、恥ずかしながら、秩父事件といわれても、ピンとこなかった。そういえば秩父困民党というのを聞いたことがあるなと、そんな程度だった。
そんな状態で訪れた資料館だが、ひじょうに勉強になった。わたしのような無知な者でも、秩父事件とはなにか、また、その中心人物の一人井上伝蔵とはどういう人物だったのかを知ることができた。資料館そのものは復元された建物だが(2004年に秩父事件120年を記念して、神山征二郎監督、緒形直人主演で映画「草の乱」が制作され、そのとき復元された屋敷)、そのなかに佇むと、井上伝蔵が身近に感じられた。
秩父事件は1884年(明治17年)に起きた。もともと秩父一帯では生糸の生産が盛んだったが、明治15年ごろから深刻な不況に見舞われ、多くの農家が高利の借金に苦しむようになった。細かい経過は省くが、結果的に武装蜂起が起きた。それが秩父事件だ。蜂起に加わった者は8千人とも1万人ともいわれている。
秩父事件そのものも興味深いが(今話題の富岡製糸場と同時代の出来事だ)、もっと興味をもったのは井上伝蔵の生涯だ。井上伝蔵(1854‐1918)は、秩父事件の中心人物の一人として死刑を宣告されたが、北海道に逃れた。偽名をつかって石狩原野の開拓民となり、そこで生涯をまっとうした。死の直前に妻と長男に自分が秩父事件の井上伝蔵であることを告げ、3日かけてその来し方を語ったそうだ。
井上伝蔵は俳人でもあった。資料館にはいくつかの句が掲げてあった。そのなかの一つに次の句があった。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」。この句にハッとした。自身の心境をよんだ句だと思った。実際は、妻に先立たれた友人の心境をよんだ句だった。でも、それだけではなく、密かに自身の心境を重ねたものと解釈されている(中嶋幸三著「井上伝蔵~秩父事件と俳句」邑書林)。
もう一つ興味深い句があった。「山路来て其の日も過ぎて不如帰」。一見なんの変哲もない句だが、中嶋幸三氏の前掲書によると、「其の日」とは「秩父事件を核として渦巻く若き日であろう」とのこと。そうであれば、「山路来て」は自らの来し方の比喩だろう。
逃亡者の身であるので、素性がばれるような表現はできなかった。なので、これらの句に、精一杯心境を託したのだろう。
翌日は秩父事件資料館(井上伝蔵邸)を訪れた。友人が探してきた所だが、恥ずかしながら、秩父事件といわれても、ピンとこなかった。そういえば秩父困民党というのを聞いたことがあるなと、そんな程度だった。
そんな状態で訪れた資料館だが、ひじょうに勉強になった。わたしのような無知な者でも、秩父事件とはなにか、また、その中心人物の一人井上伝蔵とはどういう人物だったのかを知ることができた。資料館そのものは復元された建物だが(2004年に秩父事件120年を記念して、神山征二郎監督、緒形直人主演で映画「草の乱」が制作され、そのとき復元された屋敷)、そのなかに佇むと、井上伝蔵が身近に感じられた。
秩父事件は1884年(明治17年)に起きた。もともと秩父一帯では生糸の生産が盛んだったが、明治15年ごろから深刻な不況に見舞われ、多くの農家が高利の借金に苦しむようになった。細かい経過は省くが、結果的に武装蜂起が起きた。それが秩父事件だ。蜂起に加わった者は8千人とも1万人ともいわれている。
秩父事件そのものも興味深いが(今話題の富岡製糸場と同時代の出来事だ)、もっと興味をもったのは井上伝蔵の生涯だ。井上伝蔵(1854‐1918)は、秩父事件の中心人物の一人として死刑を宣告されたが、北海道に逃れた。偽名をつかって石狩原野の開拓民となり、そこで生涯をまっとうした。死の直前に妻と長男に自分が秩父事件の井上伝蔵であることを告げ、3日かけてその来し方を語ったそうだ。
井上伝蔵は俳人でもあった。資料館にはいくつかの句が掲げてあった。そのなかの一つに次の句があった。「思ひ出すこと皆悲し秋の暮」。この句にハッとした。自身の心境をよんだ句だと思った。実際は、妻に先立たれた友人の心境をよんだ句だった。でも、それだけではなく、密かに自身の心境を重ねたものと解釈されている(中嶋幸三著「井上伝蔵~秩父事件と俳句」邑書林)。
もう一つ興味深い句があった。「山路来て其の日も過ぎて不如帰」。一見なんの変哲もない句だが、中嶋幸三氏の前掲書によると、「其の日」とは「秩父事件を核として渦巻く若き日であろう」とのこと。そうであれば、「山路来て」は自らの来し方の比喩だろう。
逃亡者の身であるので、素性がばれるような表現はできなかった。なので、これらの句に、精一杯心境を託したのだろう。