Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

下野竜也/東京シティ・フィル

2013年07月20日 | 音楽
 昨日は定期会員になっているオーケストラの定期が重なってしまった。一方は振替がきくので振り替えてもらい、もう一つのほうに行った。下野竜也/東京シティ・フィル。

 下野竜也らしい凝ったプログラムだ。濃いプログラムといったほうがいいか。まずマーラーの交響曲第10番の第1楽章。冒頭のヴィオラの呟きから入念な音づくりが感じられた。だが、後が続かなかった。演奏が進むにつれて中身が薄くなった。練り上げるための時間が足りなかったのか。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン・ソロは竹澤恭子。さすがだ。曲が手中に入っていることはいわずもがな、それ以上に欧米で受け入れられている――欧米に基盤をもつ――演奏家のちがいを見せつけられた。一言でいって、音がちがうのだ。音が抽象的で清潔なものではなく、体温があるというか、あるいは、肉体が乗り移っているというか。音が人間のドラマになっているのだ。

 下野竜也がつけたバックも面白かった。曖昧さのない明快なもの。なので、こんなところにこういう動きがあったのか、という発見があった。下野竜也は昨年12月にもこのオーケストラでシェーンベルクのピアノ協奏曲を取り上げて、鮮やかなバックを聴かせてくれた。それを想い出した。

 3曲目はモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。この曲になると鳴り方がちがった。恰幅のよい堂々たる演奏になった。ちょっと朝比奈隆を連想させた。マーラーもベルクもいいけれど、ほんとうにやりたかったのはこれ、といっているようだった。

 第2楽章アンダンテは、なにをやりたいか、今一つ伝わってこなかったが、第3楽章メヌエットは流れがよく、アンサンブルもよかった。この楽章が一番普通で、かつチャーミングだった。

 そして第4楽章、突進するアレグロ。突進も突進、雄牛のような突進だった。これが下野竜也の流儀なのだろうか。全4楽章のなかでこれがもっとも個性的だった。将来なにかが生まれる素地が顔を出したのかもしれない。

 でも、どうなのだろう、今回の演奏会はもう一つ消化不良だったような気がする。言い換えるなら、表現の練り上げが不足していた。プログラムが重量級だったせいか。そうかもしれないが、プログラムのせいにはできないだろう。オーケストラにも下野竜也にも、反省材料があった――そんな演奏会だった。
(2013.7.19.東京オペラ・シティ)
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