アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

872 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑮

2021-08-26 11:25:30 | 日記

その4 皇位継承の基本形 「皇位は奪わない」

藤原氏 - Wikipedia藤原氏の家紋(下り藤)

 この時代重要なことは、「皇位は奪わない」ものにした事だ。藤原氏はいつでも天皇家を滅ぼし自らの一族に皇位を奪うことも出来た。しかし、天皇家の神秘性を利用しその実権をのみ奪い取る方が、合理的で権力と財力を得るにはうま味があることに気づく。これは世界にも例がない日本固有の権力形態となって行く。皇位は奪うのではなく天皇の権威を利用して、権力(実権)を奪うのである。天皇は男系男子という限られた制約の中で継承していくが、藤原氏は増殖を繰り返し政権の中枢のみならず、荘園制度を利用して地方政治にも根を張り、和歌や雅楽などの文化にまで支配が及んで行く。

 

例えば、旧家の本家と分家の関係になぞらえればどうだろうか。本家が如何に衰えて分家が栄えようと、本家は本家であり法事や慶事の時の拠りどころである。分家が如何に財力や権力を持とうと分家には違いがなく、本家の権威には及ばない。天皇家という本家を担いでいれば分家は一族の中で相応に自由に振る舞える。因みに、藤原氏の祖先は神話の「天児屋命」であり「アマテラス」に仕えた。天の岩戸の伝説や天孫降臨の際にも伴っていて、皇室に最初に仕えた「神」ということになっている。従って、大神になるのではなく、大神(皇室)に仕えることで一族の存在意義を見出したのである。その後、藤原氏の嫡流近衛家鷹司家九条家二条家一条家五摂家に分立し、五摂家が交代で摂政関白を独占し続ける。また、五摂家以外にも、三条家西園寺家閑院家花山院家御子左家四条家勧修寺家日野家中御門家など数多くの支流・庶流がありそれぞれ独自の得意分野を誇る。源平藤橘(げんぺいとうきつ)と言われる日本の姓の源流の中でも、藤原氏が圧倒定な存在感と子孫の数を持つに至る。なお、源氏・平家や鎌倉幕府における北条氏、室町幕府の足利氏などと皇族との関係性はまだまだ研究の余地がある。そして江戸幕府においては、「禁中並公家諸法度」でしばりを強め、一方で幕末には皇女和宮を将軍家に迎え公武合体を目指すなど特異な経緯をたどる。最後は、大政奉還により遂に政治の実権を皇室に返上する。まさに、「建武の中興」以来の大変革に至る。


871 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑭

2021-08-23 15:18:27 | 日記

その3 薬子の変 「平安時代の本格的始まり」

平安時代:藤原薬子薬子 イメージ

 薬子の変とは、桓武天皇の子平城天皇(上皇)が弟の嵯峨天皇に対して、再び皇位を狙い奈良の平城京に都を戻すとして謀反を企てた政変である。しかし、経緯を見るとここには皇位継承の難しさが垣間見える。事件のキーウーマンは、藤原薬子(女性)である。長岡京造営の責任者で暗殺された藤原式家の種継の娘で、その娘の珠名を平城天皇の妃として送り込んでいた。しかし、自分が尚侍として天皇の身辺を世話するうち、あろうことか娘より母である薬子の方が寵愛を得る。現代の美魔女というところか。男というのは若いうちは熟女の魅力には勝てない時期があるものだ。さらに薬子の弟である藤原仲成も重用される。藤原四家のうち、南家は仲麻呂(恵美押勝)の乱で衰退し、京家は強力な人材がなく、北家と式家の権力対立の時代だった。事件は平城天皇が体調を崩し、弟の嵯峨天皇に譲位し、奈良の平城に退いたもののその後奇跡的に回復し、自らの復権を狙う、一時は平安京と平城京と「二所朝廷」と言われるほど混乱した。戦いそのものは、坂上田村麻呂の活躍もありあっさりと決着し、薬子は自殺し、平城上皇の第1皇子阿保親王も廃された。これ以降藤原氏は北家の一人勝ちとなって行く。

 事件は以上の経過であるが、皇位継承における諸問題が明らかになっている。まず、兄弟相続である。古代よりいくつか例はあるが、※壬申の乱が典型例だが多くが争いになる。兄から弟の場合、しばしば兄の子がすでに立太子しているケースが多い。しかし、約束が守られず自ら(弟)の子の方が可愛いい為、子への相続となって、結果2系統の争いとなる。次に、閨の問題だ。皇后はもちろん、それ以外の女性の閨における会話で政治が動くことも多い。直前の称徳天皇と道鏡の事件は男女逆ではあるが、閨における(睦言)は寵愛するものの訴えであり無視できない。この2例とも体調のすぐれない天皇の回復を助けた事例であり功績は大きい。薬子がどの程度の意図をもって平城天皇に食い込んだか不明で、歴史上「上皇御謀反」とは言えないので、薬子に全部の責任を被せたと見る向きも多い。もっとも、娘と母親と同時に愛するような事態はそうそうあるものではないが。

 いずれにしても、藤原北家の総帥冬嗣台頭のきっかけとなった事は間違いなく、なにがしかの陰謀があったものと考えられる。歴史とは勝者の記録であって、勝者の不都合な記録は残さない。闇から闇だ。ただ、薬子や平城天皇が死後特に厚遇された形跡はないので、藤原式家と平城上皇の敵失による北家の台頭と見るべきかも知れない。その他の陰謀事件は多くが、敗者の御霊を篤く祀っている。まだ、祟りや怨霊が信じられていた時代なので、その観点から以上のように推察できる。

※「壬申の乱」

中大兄皇子と大海人皇子と言えばわかりやすいか。兄である中大兄皇子と弟大海人皇子、同母同父の兄弟だ。(わざわざこう言わないと理解しにくい古代の姻戚関係)中大兄皇子(天智天皇)の次は大海人皇子(天武天皇)で決まっていたが、天智の息子大友皇子にどうしても皇位を渡したくなった。遠慮(警戒)して大海人皇子が吉野に逃げる。しかし天智の死後、大友皇子と大海人皇子の叔父甥の戦争となる。古代の姻戚関係は誠に理解しがたい。そもそもは天武天皇の后の額田王が天智天皇とも関係があったと言われる。(恋敵対決)また天智の娘持統は叔父である天武の皇后である。(持統の逆襲)さらに大友皇子は恋敵である天武と額田王との間の子(十市皇女)と結婚している。(叔父甥対決)など、誠に複雑な争いであった。すでに理解不能だ。結果、天武天皇が即位しその後その系統で天皇を繋いだが、天智系との争いが延々と続く。その間の詳細はここでは書かないが、女帝の時代がしばらく続くのはこの辺の事情が原因だ。


追悼 笑福亭仁鶴   上方落語中興の祖

2021-08-23 09:07:28 | 日記

笑福亭仁鶴が死んだ。

間寛平が笑福亭仁鶴さんの死悼む「すごく淋しいです、泣いてます ...

古い思い出ではなく、筆者には同時代を生きた人物だ。いよいよ次々に自分の若い時の人格形成に大きく関わったスターが亡くなって行く。エンタツもアチャコも思い出でしかないが、仁鶴は自分には等身大のあこがれの存在だった。今でも手元にカセットテープがある。昭和40年代だと思うが、「ポップス&歌謡曲」というラジオ番組、ABC放送の昼過ぎの番組なので、出演者はまだ寝起きの状態(二日酔い?)で自由にしゃべっておった。仁鶴が司会で、ポップスか歌謡曲かどちらのリクエスト曲を流すか、それぞれの出演者がクイズに答えて正解した方の曲がかかる。ところが、仁鶴が出題して、出演者が回答を出すまでの喋りが面白くてなかなか回答が出ない。結局、時間がなく曲も数秒で終わることもあった。回答者にきん枝(現 小分枝)、八方、小染(先代)などの当時の売り出し中の若手芸人が出ていた。仁鶴は結構真面目に回答を促すが、後輩たちは自由に会話で遊んでいた。仁鶴の人格がそうさせているのがよく分かる。筆者にとっての仁鶴は、ABCヤングリクエスト(深夜)の「仁鶴頭のマッサージ」だ。視聴者のはがきを紹介する現在の深夜放送の原型である。筆者は、幾度もはがきが採用されて記念のボールペンを何本かもらった。当時、持ち物の少ない時代、自分ではそれが至宝だった。結局、仁鶴・三枝・可朝の三羽ガラスに誘発されて上方落語の虜になって行った。米朝研究会に参加するなどのめり込んだが、自分は芸人にはならなかったものの、放送作家や芸能関係者にはなったかも知れない。昨日から仁鶴の当時の落語を聞いて見たが、現在の落語家が、古典落語のネタの中でそれまでにない新たな笑いに誘導する技法が仁鶴の発案だったことが分かった。爆笑への「間」が絶妙なのだ。ヤングオーオーやフィーリングカップルなどその他司会の仁鶴は意外に控えめで、若手の売り出し中の芸人を引き立てていた。その後、最近まで仁鶴は当たり前にテレビで見る「風景」だった。近年は古典落語に専念したようだったが、「お笑い笑百科」は、最後のライフワークだった。「四角い仁鶴が丸くおさめます。」近年、南光に司会を譲っていたが、仁鶴の名前(冠)が欠かせない番組だ。

振り返れば、三枝もさんまもそして、鶴瓶も仁鶴の後を追いかけて今日あるように思う。戦後お笑い界は、ロッパ・エノケン(堺昭二の親)の時代から始まり、エンタツ・アチャコと関西・関東が拮抗して引っ張った。それを、米朝・松鶴・春団治が盤石の時代を築き、ダイマル・ラケットなどの登場で関西優位の時代へと導いた。そして、第1次上方落語ブームをもって完全に東京から関西の時代を築き、それを仁鶴が大成させた。その後、やすし・きよしでピークを迎え、今やダウンタウンも鶴瓶も当たり前のように東京を拠点に活動している。あくまでも関西を離れないトップタレントは、仁鶴をもって最後かも知れない。

生真面目な性格が邪魔をしてか、吉本に遠慮してか、7代目松鶴の名跡は継がなかった。今でも空席だ。その為、笑福亭一門の結束は決して強くはない。吉本への恩義を重視して、芸界全般や笑福亭一門にあまりこだわらなかったことが唯一残念だった。病気も原因かと思うが、副会長は務めたものの上方落語の会長は桂文枝(三枝)に託した。しかし、現会長は、仁鶴の愛弟子仁智である。まだまだ仁鶴の背中を追いかける落語家は多い。


871 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑭

2021-08-23 08:38:49 | 日記

その3 藤原氏の陰謀 「他氏排斥のドロドロ」

藤原鎌足 旧200円紙幣肖像画人物の偉大なる足跡 | GOLDDUST鎌足

 この後、「この世をば、我が世と思う。望月の・・・。」と、藤原氏の全盛期を迎える素地は、この時代に出来た。始祖中臣鎌足が藤原姓を賜り、その子不比等を経て、北家・式家・南家・京家と4兄弟が皇室と複雑に絡み合い、同族間で争い、最終的にほぼ北家が藤原摂関家として天皇以上の権力を把握する。しかし、その権力奪取の歴史はあまりにも暗部が多く解明されない点も多い。ただ、敗者の多くが、怨霊やそれに準じる形で手厚く祀られていることから多くが仕組まれたものと思われる。しかも、権力を得ても天皇家を滅ぼさず、天皇家のパラサイトとなり権力の甘い汁を吸い続ける手法を取った。世界史にもあまり見受けられない巧妙で陰湿な例である。しかも平安時代になると、天皇も藤原氏も武力は持たず、その配下に戦わせるというこれも世界史には見られない体制を作る。自分達は血を流さず、死の穢れにも触れない時代(これを平安時代という)を迎える。さらに荘園制という直轄農地の開拓と自動徴税システムを巧みに操り天皇をも超える私腹を肥やした。血統的には、自らの娘を天皇に送り込みその子が男子なら幼くても即位を強要し男系男子を守りつつ、女系は藤原氏という時代を作り上げた。これは、逆に言うと従来の、「皇后は皇族から」という掟を破る大変な改革だった。従って、これからの時代では、天皇が如何に幼くても、実権は藤原氏が行使するので、つなぎの意味で母が女性天皇となる古代の事例は無くなる。父親をたどると藤原氏になる女性天皇もありえない。このように男系男子を頑なに守る国体の原則を踏み外さず権力を奪取するやり方を藤原氏が確立した。

勢いをのばす藤原良房 | 日本の歴史 解説音声つき藤原良房が皇族以外で初の摂政に就任! そして藤原無双が始まった ...藤原良房

 その典型例を一つ紹介しておく。桓武天皇の後は、「薬子の変」という大きな戦乱があったものの平城、嵯峨、淳和と桓武の子たちで継いでいく。しかし、嵯峨の子の仁明天皇の後に淳和の子(恒貞親王)を皇太子にした。しかし、藤原氏を母に持たない皇太子だった為、陰謀により廃し、仁明の子のうち藤原氏(順子)所生の子(後の文徳天皇)を無理やり立てた。ところがその文徳も自らの子の藤原氏以外の所生の惟喬(これたか)親王を皇太子にする。しかしこれにも藤原氏(良房)は、文徳に自らの娘を送り込み出来た子(後の清和天皇)を幼いながらも天皇にする。その文徳天皇は32歳で早世する。藤原氏の暗殺説まである。諡号に、安徳や崇徳同様に「徳」が付いているので、あり得る事と思う。このように陰湿で執拗に策謀を仕掛けて行くのが藤原氏の歴史である。皇位継承と天皇のあり様はこのように大きく変化して行く。

 

 


870 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑬

2021-08-20 08:45:05 | 日記

その3 桓武天皇の即位

桓武天皇 - Wikipedia桓武天皇

この章の主役桓武天皇は、このようなドロドロした激動の奈良王朝の中で誕生する。父の光仁天皇(白壁王)は皇位継承から全く無縁の人であった。親王(天皇直系)でもない王(皇族の子)の身分からの即位は当時珍しく、その子山部王の母は、高野新笠という渡来人でありせいぜい官僚としての出世を望む程度であった。父の即位以前、天皇は、天武天皇系で繋いでいたが、すでに書いたように称徳天皇の弓削道鏡御宣託事件があり、(それを救った和気清麻呂、筆者は清麻呂は万世一系の皇族と日本国にとっての大恩人だと思っている。)このような大混乱にあった為、天武系ではなく天智天皇系に次期天皇を探す事となった。その為、政治的意欲の無い60歳の光仁天皇に大命が下った。そして、皇后は井上内親王で、伊勢斎宮より復帰して皇后となった人だ。この人間模様が複雑な事件を招いた。 既述の通り井上内親王呪詛事件である。もう一度登場人物を整理する。①主役、井上(いがみ)内親王、②夫光仁天皇、③天皇の子(母は井上内親王)他部親王、④天皇の子(母は違う)山部王(桓武天皇)、⑤官僚藤原百川(式家)、以上が主な人物である。まず、井上皇后は、聖武天皇の長女で5歳の時処女を強要される斎宮に任じられその後30歳で帰京した。なんと38歳で内親王を生み45歳で皇太子の他部親王を生んだ。当時では相当の高齢出産だが、困った事に長く男性関係を禁じられていた為、帰京後は性に目覚め盛んに男を求めたらしい。光仁天皇とも関係が良好であったが、天皇はすでに60歳を超えての即位であった為十分にお相手が出来なかったのか多くの男性を物色する中、何と腹違いの息子の山部王と男女の関係を持ったともいう。父の光仁天皇が戯れに紹介したところ本当に閨に連れ込んだらしい。(諸説あります。)そんな中、皇后が天皇を呪詛したという訴えがもたらされる。藤原百川が調べたところ事実と認定され、皇后と皇太子の他部親王が庶民に落とされ、後日同じ日に亡くなった。同時に亡くなったので自然死ではない、扱いに困った光仁天皇の苦肉の策だった。自殺か処刑か不明だが、結局二人は、平安初期「最高の怨霊」になって行くのである。

この人が祟らなければ今の京都はなかった⁉悲運の貴公子早良親王の生涯 ...早良親王 イメージ

結果、朝廷は新たに山部親王(桓武天皇)の立太子と藤原百川始め「藤原式家」の牛耳るところとなった。無論二人の陰謀であろう。(二人が怨霊になったのが何よりの証拠だ。井上皇后と山部王とも何もなかったのではないか。)因みに、井上皇后の娘酒人内親王を桓武天皇は后として迎えている。この親子はいずれも淫乱の癖があったようで、日本後記に以下のように記載されている。「容貌殊麗。柔質窈窕。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛。(中略)性倨傲にして、情操修まらず。天皇禁ぜずして、その欲する所に任す。婬行(あるいは媱行)いよいよ増して、自制する事能はず」と、淫行が自ら制御できないとは・・・・。しかし、古代の淫行は大らかだったのだ。子孫を残していく本源的能力である「性」へのこだわりと旺盛な欲求を抑えきれないのだ。このように、奈良時代の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執と、奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼしていたのだ。正当な皇統である天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。

しかし、またまた大事件が起こる。新都工事責任者の側近中の側近である藤原種継が暗殺された。当然反対派の仕業と疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、無実を訴え長岡の乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて新都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。後日、崇道天皇と追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。遂に長岡を捨てて山城の地に都建設を託す。現在の平安京である。そこは四神相応の地であった。

しかし、筆者が思うのは桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だと思っている。多くの皇子・皇女を作り、姓を与えて臣籍降下させた。ご存知「桓武平氏」の始まりだ。次の功績は、蝦夷の平定だ。坂上田村麻呂の活躍で東北の鎮圧は一時的にせよ実現した。これも大きい、戦費が半端じゃなかったので都の経営に専念できた。三番目は渡来人の登用だ。これもその後の日本に大きく影響する。百済系の母を持つ桓武天皇は、技術力に優れた渡来人を多く使った。都を移したのはむしろ渡来人の多いこの地を選んだと言う説もある。当時の宮廷人の二割以上は渡来人だったようだ。韓国人・朝鮮人と差別するのは如何にナンセンスか、ヤマト朝廷は彼らの祖先の貢献なしには語れないのである。仏教や織物、鋳造術など何でもかんでも取り入れる日本人の柔軟性は古代からあったのだ。ただ、死後まだまだ平安京は安定せず、次期天皇(平城天皇)が大乱を仕掛ける。