アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

870 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑬

2021-08-20 08:45:05 | 日記

その3 桓武天皇の即位

桓武天皇 - Wikipedia桓武天皇

この章の主役桓武天皇は、このようなドロドロした激動の奈良王朝の中で誕生する。父の光仁天皇(白壁王)は皇位継承から全く無縁の人であった。親王(天皇直系)でもない王(皇族の子)の身分からの即位は当時珍しく、その子山部王の母は、高野新笠という渡来人でありせいぜい官僚としての出世を望む程度であった。父の即位以前、天皇は、天武天皇系で繋いでいたが、すでに書いたように称徳天皇の弓削道鏡御宣託事件があり、(それを救った和気清麻呂、筆者は清麻呂は万世一系の皇族と日本国にとっての大恩人だと思っている。)このような大混乱にあった為、天武系ではなく天智天皇系に次期天皇を探す事となった。その為、政治的意欲の無い60歳の光仁天皇に大命が下った。そして、皇后は井上内親王で、伊勢斎宮より復帰して皇后となった人だ。この人間模様が複雑な事件を招いた。 既述の通り井上内親王呪詛事件である。もう一度登場人物を整理する。①主役、井上(いがみ)内親王、②夫光仁天皇、③天皇の子(母は井上内親王)他部親王、④天皇の子(母は違う)山部王(桓武天皇)、⑤官僚藤原百川(式家)、以上が主な人物である。まず、井上皇后は、聖武天皇の長女で5歳の時処女を強要される斎宮に任じられその後30歳で帰京した。なんと38歳で内親王を生み45歳で皇太子の他部親王を生んだ。当時では相当の高齢出産だが、困った事に長く男性関係を禁じられていた為、帰京後は性に目覚め盛んに男を求めたらしい。光仁天皇とも関係が良好であったが、天皇はすでに60歳を超えての即位であった為十分にお相手が出来なかったのか多くの男性を物色する中、何と腹違いの息子の山部王と男女の関係を持ったともいう。父の光仁天皇が戯れに紹介したところ本当に閨に連れ込んだらしい。(諸説あります。)そんな中、皇后が天皇を呪詛したという訴えがもたらされる。藤原百川が調べたところ事実と認定され、皇后と皇太子の他部親王が庶民に落とされ、後日同じ日に亡くなった。同時に亡くなったので自然死ではない、扱いに困った光仁天皇の苦肉の策だった。自殺か処刑か不明だが、結局二人は、平安初期「最高の怨霊」になって行くのである。

この人が祟らなければ今の京都はなかった⁉悲運の貴公子早良親王の生涯 ...早良親王 イメージ

結果、朝廷は新たに山部親王(桓武天皇)の立太子と藤原百川始め「藤原式家」の牛耳るところとなった。無論二人の陰謀であろう。(二人が怨霊になったのが何よりの証拠だ。井上皇后と山部王とも何もなかったのではないか。)因みに、井上皇后の娘酒人内親王を桓武天皇は后として迎えている。この親子はいずれも淫乱の癖があったようで、日本後記に以下のように記載されている。「容貌殊麗。柔質窈窕。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛。(中略)性倨傲にして、情操修まらず。天皇禁ぜずして、その欲する所に任す。婬行(あるいは媱行)いよいよ増して、自制する事能はず」と、淫行が自ら制御できないとは・・・・。しかし、古代の淫行は大らかだったのだ。子孫を残していく本源的能力である「性」へのこだわりと旺盛な欲求を抑えきれないのだ。このように、奈良時代の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執と、奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼしていたのだ。正当な皇統である天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。

しかし、またまた大事件が起こる。新都工事責任者の側近中の側近である藤原種継が暗殺された。当然反対派の仕業と疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、無実を訴え長岡の乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて新都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。後日、崇道天皇と追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。遂に長岡を捨てて山城の地に都建設を託す。現在の平安京である。そこは四神相応の地であった。

しかし、筆者が思うのは桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だと思っている。多くの皇子・皇女を作り、姓を与えて臣籍降下させた。ご存知「桓武平氏」の始まりだ。次の功績は、蝦夷の平定だ。坂上田村麻呂の活躍で東北の鎮圧は一時的にせよ実現した。これも大きい、戦費が半端じゃなかったので都の経営に専念できた。三番目は渡来人の登用だ。これもその後の日本に大きく影響する。百済系の母を持つ桓武天皇は、技術力に優れた渡来人を多く使った。都を移したのはむしろ渡来人の多いこの地を選んだと言う説もある。当時の宮廷人の二割以上は渡来人だったようだ。韓国人・朝鮮人と差別するのは如何にナンセンスか、ヤマト朝廷は彼らの祖先の貢献なしには語れないのである。仏教や織物、鋳造術など何でもかんでも取り入れる日本人の柔軟性は古代からあったのだ。ただ、死後まだまだ平安京は安定せず、次期天皇(平城天皇)が大乱を仕掛ける。


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