アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

869 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑫

2021-08-19 08:52:30 | 日記

その2 光仁天皇の即位 「新しい皇統の確立」

 光仁天皇即位にも、やはりひと騒動あった。天武天皇系の智努王(臣籍降下し文屋浄三)を推す吉備真備一派と、白壁王(光仁天皇)を推す藤原氏一派との対立が始まる。白壁王は、天智天皇の孫だが后が天武系の聖武天皇の皇女(井上内親王)だったので中立の立場と思われた。しかもすでに62歳と高齢で酒好きの政治的野心の無い人物とみなされたようだ。決着は、藤原氏の陰謀体質そのものの、称徳天皇の「遺宣」(天皇の遺言)を偽作するという奇策?であった。加えて反対派への武力での威圧もあり、白壁王の即位で光仁天皇の誕生となった。

本当は怖い上皇陛下 | 調布 妖怪通信 - teacup.ブログ“AutoPage”

当時の藤原氏は北家の永手、式家の良継らが主流で、一族挙げての策略であった。当然、道鏡の放逐と和気清麻呂の復権も成功した。しかし、后の井上内親王がたちまち元凶となる。井上内親王は天武・聖武の正統で自らの子(他戸親王)を皇太子にしていた。しかし、あろうことか夫である光仁天皇を呪詛したという疑いで皇后を廃された。すぐに他戸親王も廃太子され記録には二人同時に死んだことになっているので、殺害されたということだろう。なぜ、夫を呪詛する必要があったのか。実は、光仁天皇にはもう一人長男の山部親王(のちの桓武天皇)がいて藤原氏はそちらについていた。井上内親王とその一派の焦りが原因かと思われるが、その後、井上親子が怨霊となっていることから、むしろ藤原氏が先手を打った陰謀と思う方が妥当だろう。藤原氏の陰謀と権力志向の象徴的手法である。しかし、山部親王が桓武天皇になる(立太子する)のもそう簡単ではなかった。光仁天皇自身、山部以外に意中の親王がいた。それでも山部親王に落ち着くのは、すでに藤原氏の政治力と陰謀力が抜きんでていたことが分かる。

桓武天皇が恐れた怨霊 | 西陣に住んでます

当時の藤原氏は、式家の良継・百川兄弟の全盛期で、北家は魚名が当主で、北家の逆襲はこれからだ。依然として官僚や皇室の権力闘争の中での皇位継承が続き、奈良時代末期は誠に不安定な中にあった。


868 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑪

2021-08-18 12:34:54 | 日記

49代光仁天皇~50代桓武天皇 ドロドロの奈良王朝からの独立

 

その1 時代背景 「貴種を守る為の闘いの果てに」

 

 継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながら、一方で皇室内では同族婚姻を繰り返し身内で皇位を守って来た。その結果、男系男子の原則を守ることは出来たが、一方で権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も辞さず歴史を繋いでいる。

女系天皇を立てる野望は1251年前の道鏡の野望と同じですよね? - 女帝 ...

 例えば35代皇極天皇は、途中弟の(軽皇子)孝徳天皇に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲る。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を握っていた天智天皇である。その天智の皇女鵜野讃良姫は弟の天武天皇の后で持統天皇なので、姪との結婚である。また持統と天武のお子の草壁皇子の后は持統の妹の元明天皇なのでこちらは甥と叔母の結婚だ。兄妹でも腹違いなら結婚した例もあり、正に貴種の血は貴種の中で守る姿勢が鮮明であった。

 しかし、むしろ血脈内の争いはすさまじく常に争いの種が絶えなかった。特に、壬申の乱(※)後、天武系、天智系の確執は残り、奈良時代は皇統の落ち付かない時代を過ごす。極めつけは孝謙天皇(重祚して称徳天皇)である。聖武天皇の皇女阿倍内親王は、女性で唯一の皇太子に擁立された方で早くから天皇になるように育てられた。従って、生涯独身でありその為に晩年、祈祷僧弓削道鏡との醜聞をうわさされる。最初の即位時は母の光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)に実権があり、その仲麻呂に推された淳仁天皇(天武の孫)に譲るが、仲麻呂失脚の後再び即位(重祚)し実権を振るおうとするが、体調を壊しその治療に当たった道鏡にすべてを任せた。あろうことか、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を天皇にしようとした。その為、和気清麻呂が改めて神託を受けに行くと、「臣をもって君とする、いまだこれあらず。」と報告し、なんと清麻呂は、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名され左遷された。結果、称徳天皇の崩御により実現しなかったが、日本の歴上唯一皇位簒奪の危機が現実的に迫っていたのだ。後に清麻呂の名誉は回復され現在まで、京都の護王神社に祀られている。日本の国体を守った大英雄である。

光仁天皇~天武系から天智系へ | 日本の歴史 解説音声つき

 このように大混乱の時代を治める次の天皇は光仁天皇(白壁皇子)が選ばれる。天智天皇の孫で、后が聖武天皇の皇女井上内親王で天武天皇にも血統が近い事から選出された。すでに62歳だったが、この時期40歳以上の大人(壮年)でなければ天皇になれないという考え方であったようだ。皇室はようやく落ち着いたと期待したが、とんでもない事件が相次ぐ。まずは、一番の身内である井上皇后の謀反という重大事件から騒乱が始まる。安定的皇位継承どころではない。


868 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑪

2021-08-18 12:34:54 | 日記

49代光仁天皇~50代桓武天皇 ドロドロの奈良王朝からの独立

 

その1 時代背景 「貴種を守る為の闘いの果てに」

 

 継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながら、一方で皇室内では同族婚姻を繰り返し身内で皇位を守って来た。その結果、男系男子の原則を守ることは出来たが、一方で権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も辞さず歴史を繋いでいる。

女系天皇を立てる野望は1251年前の道鏡の野望と同じですよね? - 女帝 ...

 例えば35代皇極天皇は、途中弟の(軽皇子)孝徳天皇に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲る。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を握っていた天智天皇である。その天智の皇女鵜野讃良姫は弟の天武天皇の后で持統天皇なので、姪との結婚である。また持統と天武のお子の草壁皇子の后は持統の妹の元明天皇なのでこちらは甥と叔母の結婚だ。兄妹でも腹違いなら結婚した例もあり、正に貴種の血は貴種の中で守る姿勢が鮮明であった。

 しかし、むしろ血脈内の争いはすさまじく常に争いの種が絶えなかった。特に、壬申の乱(※)後、天武系、天智系の確執は残り、奈良時代は皇統の落ち付かない時代を過ごす。極めつけは孝謙天皇(重祚して称徳天皇)である。聖武天皇の皇女阿倍内親王は、女性で唯一の皇太子に擁立された方で早くから天皇になるように育てられた。従って、生涯独身でありその為に晩年、祈祷僧弓削道鏡との醜聞をうわさされる。最初の即位時は母の光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)に実権があり、その仲麻呂に推された淳仁天皇(天武の孫)に譲るが、仲麻呂失脚の後再び即位(重祚)し実権を振るおうとするが、体調を壊しその治療に当たった道鏡にすべてを任せた。あろうことか、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を天皇にしようとした。その為、和気清麻呂が改めて神託を受けに行くと、「臣をもって君とする、いまだこれあらず。」と報告し、なんと清麻呂は、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名され左遷された。結果、称徳天皇の崩御により実現しなかったが、日本の歴上唯一皇位簒奪の危機が現実的に迫っていたのだ。後に清麻呂の名誉は回復され現在まで、京都の護王神社に祀られている。日本の国体を守った大英雄である。

光仁天皇~天武系から天智系へ | 日本の歴史 解説音声つき

 このように大混乱の時代を治める次の天皇は光仁天皇(白壁皇子)が選ばれる。天智天皇の孫で、后が聖武天皇の皇女井上内親王で天武天皇にも血統が近い事から選出された。すでに62歳だったが、この時期40歳以上の大人(壮年)でなければ天皇になれないという考え方であったようだ。皇室はようやく落ち着いたと期待したが、とんでもない事件が相次ぐ。まずは、一番の身内である井上皇后の謀反という重大事件から騒乱が始まる。安定的皇位継承どころではない。


867 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑩

2021-08-16 11:13:27 | 日記

その5 継体天皇の意味  継体天皇以降は女系天皇?

皇位継承の危機① 武烈天皇から継体天皇へ | 月刊誌『祖国と青年』応援 ...

 継体天皇の皇位継承は、現代の皇位継承議論の大いに参考になる。継体が応神天皇から5世隔てた子孫であるとされたことから、当然、地方の有力豪族による王朝交代説が疑われている。しかし重要なのは天皇の血筋であることが天皇の条件であったことだ。記紀の記載に非現実的な記載があることは否定できない。しかし、王朝はその後を考えて最大限の努力をしている。それは、王妃だ。継体もその子安閑天皇・宣化天皇も王妃に、2代前の仁賢天皇の皇女を迎えている。つまり男系ではないが、女系(天皇の実子である女性)で繋ごうと必死の策をとっている。結果、宣化天皇との間に生まれた石比姫命と継体のもう一人の子である欽明天皇とが結婚し男子(敏達天皇)を産んでいる。ややこしい話だが、女系では見事に血統は繋がった。嫁と姑が姉妹という事になるが、古代では近親相関が多く、むしろ高貴な血筋はその中で守って行こうと考えていた。

 現在の皇室典範では、女系天皇は認めないがむしろ古代では女系天皇も女性天皇もあったという事を知っておきたい。ただし、その為には重要な原則と現在ではありえない血の濃い結婚が繰り返された事と、さらに歴史の改ざんがあったことは認めざるを得ない。ただし、後者は現代でもあるようだ。

 さらに、まだまだ豪族たちが天皇の地位を奪うチャンスはあった。九州地方などに大きな内乱があった事や、継体天皇崩御後、兄弟たちで皇位を争うがことになったようだ。継体が苦労して大和に入る過程で力を付けた新興勢力の蘇我氏が推す欽明天皇と、大伴氏・物部氏が推す安閑天皇と宣化天皇とが対立した。それぞれの朝廷が並立した可能性もある。安閑・宣化天皇の在位がそれぞれ4年であり当時では短命すぎる事と、お二人とも相次いで亡くなっていることから、争いは短期的に収束したようだ。重要なのは、豪族が権力を争うのは、どの天皇を担ぐかであり、自らが天皇の地位を奪いあうのではない事だ。戦争に至るまで、有力豪族は自らの血筋の女性を天皇に送り込んで天皇の祖父の立場を目論む時代になって行く。

 従って、天皇が絶対的権力を武力によって保持するという時代も変化する。豪族に担がれた欽明天皇は、豪族たちの合議制によって政治が決められていて、天皇発案の新羅征伐は却下され、また仏教を取り入れることにも長く反対された。このように他国では当たり前である前の王朝を武力で滅ぼして新たな王朝が立ち上がる王朝革命はなく、万世一系の天皇を頂く日本の国家形態が確立したのがこの時代だ。鎌倉時代に慈円が『愚管抄』で述べたように「この日本国は初めより王胤は外へ移ることなし。」と、単に個人的器量のみが国王になれる要素ではないことはこの時代に成立した。また、慈円は、継体天皇の即位についても、「武烈失せ給いて継体天皇を臣下どもの求めに応じて参らせし、」と、悪い王を替え適任の王を立てたのでその結果これらの天皇の子孫は今に至るまで皇位を継ぎ栄えていると称えている。決して謀反や革命とは言っていない。

 そしてその後、数々の皇位継承の危機には重要な先例となった。その際の重要なことは、いかなる場合でも天皇家以外の人物が即位してはならない、抜きんでた勢力を持った臣下の者がいても決して天皇にはならないのである。また、継体天皇は臣下によって推戴された初めての天皇としても重要な先例となって行く。


866 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑨

2021-08-13 12:37:56 | 日記

その4 継体天皇の登場 「皇統が変わる時前天皇を貶める歴史改ざんは当たり前?」

 

  ここまでで、古代から男系男子で繋ぐ「万世一系」の原則を確認しつつ、女性天皇で危機を乗り越えて来た事実を書いた。ダイバシティーを先取りする皇室の歴史が分かった。

継体天皇は新王朝」という万世一系否定論を論破する | アゴラ 言論 ...

『立派なあごひげをたくわえ、弓を手にした巨大な石像。顔や耳たぶが大きく、ユーモラスな印象ですが目の部分には慈悲深さが漂い、威厳を感じます。福井の礎を築いたとされる大王の像は足羽山の三段広場にそびえ立つ。福井平野の大きな潟を切り開き、排水をよくしたという越前平野治水伝説に基づき、像は三国町の同川河口を見すえています。』

 さて、河内王朝の最後の天皇である武烈天皇は、誠に勇ましい尊号だが、「悪逆非道」の天皇と言われている。これは、中国にある辛酉革命の考え方で、「王朝の最後は徳の無い大王だったので、次は有徳の大王が新王朝を立ち上げた。」ことにしたのである。例えば、北条幕府最後の執権北条高時、足利幕府最後の将軍義昭など、政権交代にはよくある話で、特に創作の多い「日本書紀」の記載はそのまま信じられない。現代の財務省始め高級官僚の公的文書改ざんなど可愛いものだ。

 さらに、「日本書紀」には、武烈天皇崩御後、大連大伴金村という豪族の長が、仲哀天皇5世の孫、倭彦王に大王としてお迎えに行ったところ、倭彦王は「迎えに来た兵を見て恐れて山谷に逃げた。」と、一方、応神天皇5世孫の男大迹(おほど)王は、「慈悲深く孝行篤い人格で、兵を整え礼を尽くして迎えに行くと、泰然自若としてすでにもう大王のようだった。」ので、一同忠誠を尽くすことを誓ったという。このあたりも架空の物語を創作した可能性が高い。ただ、不思議なのは継体天皇がまず、樟葉宮(現在の枚方)に入った事だ。大和の地を踏むのは、その後20年を要する。これは継体にとって不利な話なので、事実に基づくと思う。

 聖王と称えられた仁徳天皇ではなく、その親である応神天皇の5世の孫としたのは、仁徳王朝の否定でありやはり、王朝交代があったと考えるべきかも知れない。しかし、あまた有力豪族がいる中で極めて薄いとはいえ血族の男子を指名した事、王朝交代という解釈にはしなかった事、あくまでも男系にこだわった事、さらに、取り巻きの豪族の長たちが実質の政権運営を行っていたらしい事など、その後の皇室継承の原則と世界に例のない政権運営システムの原型がうかがえる。重要なのは、決して武力だけで天皇になるわけではないということだ。

 一方、仁徳天皇の血統をつなぐ王たちも存在したはずであり、恐らくそれらを担ぐ抵抗勢力との間に20年の長きにわたる闘争があったのだ。継体天皇は即位時すでに57歳で、20年かけて大和に入った時はすでに老齢で、82歳で崩御するまでわずか4~5年しかなかった。嘘も誠もありながら、今に続く皇統の伝統的継承の始まりはこの天皇のもとで実現したということだ。この事は大変重要なことだ。

「武烈天皇の悪逆非道」日本書紀より現代語訳

妊婦の腹を裂いてその胎児を見た。

人の爪を抜いて、芋を掘らせた。

人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落とし殺して面白がった。

人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。

人を木に登らせて、弓で射落として笑った。

女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して女らの面前で馬に交尾させた。女性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった。※筆者注・明らかに悪意のある他愛もない創作に思える。中国の殷の紂王(酒池肉林の逸話で有名)に似た話がある。