その2 光仁天皇の即位 「新しい皇統の確立」
光仁天皇即位にも、やはりひと騒動あった。天武天皇系の智努王(臣籍降下し文屋浄三)を推す吉備真備一派と、白壁王(光仁天皇)を推す藤原氏一派との対立が始まる。白壁王は、天智天皇の孫だが后が天武系の聖武天皇の皇女(井上内親王)だったので中立の立場と思われた。しかもすでに62歳と高齢で酒好きの政治的野心の無い人物とみなされたようだ。決着は、藤原氏の陰謀体質そのものの、称徳天皇の「遺宣」(天皇の遺言)を偽作するという奇策?であった。加えて反対派への武力での威圧もあり、白壁王の即位で光仁天皇の誕生となった。
当時の藤原氏は北家の永手、式家の良継らが主流で、一族挙げての策略であった。当然、道鏡の放逐と和気清麻呂の復権も成功した。しかし、后の井上内親王がたちまち元凶となる。井上内親王は天武・聖武の正統で自らの子(他戸親王)を皇太子にしていた。しかし、あろうことか夫である光仁天皇を呪詛したという疑いで皇后を廃された。すぐに他戸親王も廃太子され記録には二人同時に死んだことになっているので、殺害されたということだろう。なぜ、夫を呪詛する必要があったのか。実は、光仁天皇にはもう一人長男の山部親王(のちの桓武天皇)がいて藤原氏はそちらについていた。井上内親王とその一派の焦りが原因かと思われるが、その後、井上親子が怨霊となっていることから、むしろ藤原氏が先手を打った陰謀と思う方が妥当だろう。藤原氏の陰謀と権力志向の象徴的手法である。しかし、山部親王が桓武天皇になる(立太子する)のもそう簡単ではなかった。光仁天皇自身、山部以外に意中の親王がいた。それでも山部親王に落ち着くのは、すでに藤原氏の政治力と陰謀力が抜きんでていたことが分かる。
当時の藤原氏は、式家の良継・百川兄弟の全盛期で、北家は魚名が当主で、北家の逆襲はこれからだ。依然として官僚や皇室の権力闘争の中での皇位継承が続き、奈良時代末期は誠に不安定な中にあった。