アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

867 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑩

2021-08-16 11:13:27 | 日記

その5 継体天皇の意味  継体天皇以降は女系天皇?

皇位継承の危機① 武烈天皇から継体天皇へ | 月刊誌『祖国と青年』応援 ...

 継体天皇の皇位継承は、現代の皇位継承議論の大いに参考になる。継体が応神天皇から5世隔てた子孫であるとされたことから、当然、地方の有力豪族による王朝交代説が疑われている。しかし重要なのは天皇の血筋であることが天皇の条件であったことだ。記紀の記載に非現実的な記載があることは否定できない。しかし、王朝はその後を考えて最大限の努力をしている。それは、王妃だ。継体もその子安閑天皇・宣化天皇も王妃に、2代前の仁賢天皇の皇女を迎えている。つまり男系ではないが、女系(天皇の実子である女性)で繋ごうと必死の策をとっている。結果、宣化天皇との間に生まれた石比姫命と継体のもう一人の子である欽明天皇とが結婚し男子(敏達天皇)を産んでいる。ややこしい話だが、女系では見事に血統は繋がった。嫁と姑が姉妹という事になるが、古代では近親相関が多く、むしろ高貴な血筋はその中で守って行こうと考えていた。

 現在の皇室典範では、女系天皇は認めないがむしろ古代では女系天皇も女性天皇もあったという事を知っておきたい。ただし、その為には重要な原則と現在ではありえない血の濃い結婚が繰り返された事と、さらに歴史の改ざんがあったことは認めざるを得ない。ただし、後者は現代でもあるようだ。

 さらに、まだまだ豪族たちが天皇の地位を奪うチャンスはあった。九州地方などに大きな内乱があった事や、継体天皇崩御後、兄弟たちで皇位を争うがことになったようだ。継体が苦労して大和に入る過程で力を付けた新興勢力の蘇我氏が推す欽明天皇と、大伴氏・物部氏が推す安閑天皇と宣化天皇とが対立した。それぞれの朝廷が並立した可能性もある。安閑・宣化天皇の在位がそれぞれ4年であり当時では短命すぎる事と、お二人とも相次いで亡くなっていることから、争いは短期的に収束したようだ。重要なのは、豪族が権力を争うのは、どの天皇を担ぐかであり、自らが天皇の地位を奪いあうのではない事だ。戦争に至るまで、有力豪族は自らの血筋の女性を天皇に送り込んで天皇の祖父の立場を目論む時代になって行く。

 従って、天皇が絶対的権力を武力によって保持するという時代も変化する。豪族に担がれた欽明天皇は、豪族たちの合議制によって政治が決められていて、天皇発案の新羅征伐は却下され、また仏教を取り入れることにも長く反対された。このように他国では当たり前である前の王朝を武力で滅ぼして新たな王朝が立ち上がる王朝革命はなく、万世一系の天皇を頂く日本の国家形態が確立したのがこの時代だ。鎌倉時代に慈円が『愚管抄』で述べたように「この日本国は初めより王胤は外へ移ることなし。」と、単に個人的器量のみが国王になれる要素ではないことはこの時代に成立した。また、慈円は、継体天皇の即位についても、「武烈失せ給いて継体天皇を臣下どもの求めに応じて参らせし、」と、悪い王を替え適任の王を立てたのでその結果これらの天皇の子孫は今に至るまで皇位を継ぎ栄えていると称えている。決して謀反や革命とは言っていない。

 そしてその後、数々の皇位継承の危機には重要な先例となった。その際の重要なことは、いかなる場合でも天皇家以外の人物が即位してはならない、抜きんでた勢力を持った臣下の者がいても決して天皇にはならないのである。また、継体天皇は臣下によって推戴された初めての天皇としても重要な先例となって行く。