アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

868 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑪

2021-08-18 12:34:54 | 日記

49代光仁天皇~50代桓武天皇 ドロドロの奈良王朝からの独立

 

その1 時代背景 「貴種を守る為の闘いの果てに」

 

 継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながら、一方で皇室内では同族婚姻を繰り返し身内で皇位を守って来た。その結果、男系男子の原則を守ることは出来たが、一方で権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も辞さず歴史を繋いでいる。

女系天皇を立てる野望は1251年前の道鏡の野望と同じですよね? - 女帝 ...

 例えば35代皇極天皇は、途中弟の(軽皇子)孝徳天皇に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲る。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を握っていた天智天皇である。その天智の皇女鵜野讃良姫は弟の天武天皇の后で持統天皇なので、姪との結婚である。また持統と天武のお子の草壁皇子の后は持統の妹の元明天皇なのでこちらは甥と叔母の結婚だ。兄妹でも腹違いなら結婚した例もあり、正に貴種の血は貴種の中で守る姿勢が鮮明であった。

 しかし、むしろ血脈内の争いはすさまじく常に争いの種が絶えなかった。特に、壬申の乱(※)後、天武系、天智系の確執は残り、奈良時代は皇統の落ち付かない時代を過ごす。極めつけは孝謙天皇(重祚して称徳天皇)である。聖武天皇の皇女阿倍内親王は、女性で唯一の皇太子に擁立された方で早くから天皇になるように育てられた。従って、生涯独身でありその為に晩年、祈祷僧弓削道鏡との醜聞をうわさされる。最初の即位時は母の光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)に実権があり、その仲麻呂に推された淳仁天皇(天武の孫)に譲るが、仲麻呂失脚の後再び即位(重祚)し実権を振るおうとするが、体調を壊しその治療に当たった道鏡にすべてを任せた。あろうことか、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を天皇にしようとした。その為、和気清麻呂が改めて神託を受けに行くと、「臣をもって君とする、いまだこれあらず。」と報告し、なんと清麻呂は、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名され左遷された。結果、称徳天皇の崩御により実現しなかったが、日本の歴上唯一皇位簒奪の危機が現実的に迫っていたのだ。後に清麻呂の名誉は回復され現在まで、京都の護王神社に祀られている。日本の国体を守った大英雄である。

光仁天皇~天武系から天智系へ | 日本の歴史 解説音声つき

 このように大混乱の時代を治める次の天皇は光仁天皇(白壁皇子)が選ばれる。天智天皇の孫で、后が聖武天皇の皇女井上内親王で天武天皇にも血統が近い事から選出された。すでに62歳だったが、この時期40歳以上の大人(壮年)でなければ天皇になれないという考え方であったようだ。皇室はようやく落ち着いたと期待したが、とんでもない事件が相次ぐ。まずは、一番の身内である井上皇后の謀反という重大事件から騒乱が始まる。安定的皇位継承どころではない。


868 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑪

2021-08-18 12:34:54 | 日記

49代光仁天皇~50代桓武天皇 ドロドロの奈良王朝からの独立

 

その1 時代背景 「貴種を守る為の闘いの果てに」

 

 継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながら、一方で皇室内では同族婚姻を繰り返し身内で皇位を守って来た。その結果、男系男子の原則を守ることは出来たが、一方で権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も辞さず歴史を繋いでいる。

女系天皇を立てる野望は1251年前の道鏡の野望と同じですよね? - 女帝 ...

 例えば35代皇極天皇は、途中弟の(軽皇子)孝徳天皇に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲る。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を握っていた天智天皇である。その天智の皇女鵜野讃良姫は弟の天武天皇の后で持統天皇なので、姪との結婚である。また持統と天武のお子の草壁皇子の后は持統の妹の元明天皇なのでこちらは甥と叔母の結婚だ。兄妹でも腹違いなら結婚した例もあり、正に貴種の血は貴種の中で守る姿勢が鮮明であった。

 しかし、むしろ血脈内の争いはすさまじく常に争いの種が絶えなかった。特に、壬申の乱(※)後、天武系、天智系の確執は残り、奈良時代は皇統の落ち付かない時代を過ごす。極めつけは孝謙天皇(重祚して称徳天皇)である。聖武天皇の皇女阿倍内親王は、女性で唯一の皇太子に擁立された方で早くから天皇になるように育てられた。従って、生涯独身でありその為に晩年、祈祷僧弓削道鏡との醜聞をうわさされる。最初の即位時は母の光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)に実権があり、その仲麻呂に推された淳仁天皇(天武の孫)に譲るが、仲麻呂失脚の後再び即位(重祚)し実権を振るおうとするが、体調を壊しその治療に当たった道鏡にすべてを任せた。あろうことか、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を天皇にしようとした。その為、和気清麻呂が改めて神託を受けに行くと、「臣をもって君とする、いまだこれあらず。」と報告し、なんと清麻呂は、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名され左遷された。結果、称徳天皇の崩御により実現しなかったが、日本の歴上唯一皇位簒奪の危機が現実的に迫っていたのだ。後に清麻呂の名誉は回復され現在まで、京都の護王神社に祀られている。日本の国体を守った大英雄である。

光仁天皇~天武系から天智系へ | 日本の歴史 解説音声つき

 このように大混乱の時代を治める次の天皇は光仁天皇(白壁皇子)が選ばれる。天智天皇の孫で、后が聖武天皇の皇女井上内親王で天武天皇にも血統が近い事から選出された。すでに62歳だったが、この時期40歳以上の大人(壮年)でなければ天皇になれないという考え方であったようだ。皇室はようやく落ち着いたと期待したが、とんでもない事件が相次ぐ。まずは、一番の身内である井上皇后の謀反という重大事件から騒乱が始まる。安定的皇位継承どころではない。