アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

860 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ③

2021-08-05 11:36:13 | 日記
  • 神話の時代は、親子相続が原則で順調に継承した。

日本神話のストーリー】アマテラスをはじめとした神々から天皇までの ...天孫降臨

 その前にまず大雑把に皇位継承の歴史を振り返る。太古の日本は、今から13000年くらい前から2300年くらい前までの縄文時代を経て、約2000年前の弥生時代中期以降になって、多くの豪族の中から九州高千穂あたりに大きな勢力を貯えていた者たちが、何らかの理由で東征して大和地方に拠点を移した。その勇敢な豪族が大和政権を営み、その初代の統治者こそが神武天皇ということになっている。『古事記』には、神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこのみこと)。『日本書紀』では、始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされその後、諡号の神武天皇が贈られる。その時、九州に残った同じ豪族の一部が当時の中国の魏と交流したのが、邪馬台国と考えられる。その女王卑弥呼とアマテラスを同一視する学者も多い。

 

  • 古代は、有力豪族と血縁を強め、男系男子を確立する。

古事記に7名、日本書紀に8名みられる継体天皇の妻、正妃は誰なのか ...継体天皇

 その後、大王家は有力豪族との婚姻を繰り返し、時には同族婚(異母兄妹など)も辞さず血脈を守りつないで来た。その結果、王位は大和王族の血脈の中から選ぶと言う通念が確立していった。当初は親子相続が当たり前だったが、継体天皇の子たちの3兄弟や欽明天皇の子の4兄弟姉、さらに舒明天皇もその後3代(重祚あり)2名の天皇は姉弟であり、飛鳥時代にはむしろ兄弟相続が当たり前のようになって行った。その結果、天智天皇が子の大友皇子へ直系相続を目指したら、弟の後の天武天皇と大乱になってしまった。後に壬申の乱と言う大規模な戦闘の結果、天武天皇の勝利となったもののその反省から、嫡子相続が基本になって行く。

 

  • 天皇は相応の年齢と素養を求められた。

 

 ただ、直系の皇子が幼少なら即位は認められず、例えば天武天皇の皇太子草壁皇子は25歳とは言えまだ十分ではないとの事で、皇太后の鵜野が称制(後の摂政)で補助し結果的には草壁皇子が早世したたため甥の軽皇子(文武天皇)7歳の成長を待つ間、その鵜野が女帝持統天皇となっている。その文武天皇即位時には、意見が分かれ、「神代より以来、子孫相承」とし争いを収めたという。また、母が皇族ではない聖武天皇(藤原氏出身)あたりから、生母が皇族以外でも、その皇子・皇女が天皇の直系であれば皇位を継承できるとなった。その後、藤原氏が天皇の外祖父の地位を利用して皇室を牛耳る素地が出来て行く。

 

  • 皇室最大の危機を乗り越え平安時代には幼帝の時代へ。

安徳天皇 - Wikipedia安徳天皇

 そして、奈良時代末期の称徳天皇の時、皇位を狙う弓削道鏡への御宣託に対して和気清麻呂が「天つ日嗣は必ず皇儲」を建てるべしとの復奏で防いだという大事件があった。この後、皇室以外の者が表立って皇位を狙ったのは、平安中期の平将門以外には無くなる。しかし、58代光孝天皇は、前天皇の陽成天皇の別系統から選ばざるを得なかったため、その子59代宇多天皇は、臣籍降下(皇室外に)していたいわば「只の人」から即位している。このような危機はしばしば訪れる。一方で、藤原摂関家の台頭、その後の院政の出現など天皇の権威や神秘性を利用しその存在が形骸化して行く中で天皇即位の若年化が進む。61代朱雀天皇は3歳で皇太子になり8歳で即位した。63代冷泉天皇の即位は18歳だが、皇太子には生後間もなくなっている。いずれも藤原忠平や実頼と言う摂関家の長が摂政や関白にあった時代である。その後、64代円融天皇11歳、66代一条天皇7歳、68代後一条天皇も9歳で即位している。時代は道長・頼通の藤原摂関家の全盛であった。さらに、73代堀河天皇は8歳、74代鳥羽天皇は5歳、75代崇徳天皇などは5歳で即位し、いずれも白河院制の時代で幼少の即位が続き、平清盛政権での81代安徳天皇3歳での即位の前例となった。この流れは、82代後鳥羽天皇4歳とその子たちまで続くいわば「幼帝時代」と言っても過言ではない。同時に天皇権威の危機でもあった。