アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

861 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ④

2021-08-06 07:47:08 | 日記
  • 皇位継承の決定権が武家に委ねられた結果の両統迭立

後醍醐天皇とは?政治や吉野、隠岐の島への島流しや家系図について解説!

 次に、鎌倉時代後期の両統迭立から南北朝戦乱の時代も注目だ。ここまで見て来たように親子相続をしているうちは良いが、兄弟相続を行えば必ずその後は「兄の子」か「弟の子」かで必ず争いは起こる。しかし、88代後嵯峨天皇の場合は後継者を自ら決められない事情があった。82代後鳥羽上皇の承久の乱の記憶がまだ残る頃だった為、幕府が主導して幕府に反乱の意思が薄かった皇子の血統から後嵯峨を選んだ。その為、自らの二人の子のどちらの血統に継いでいくかが決められなかったので、幕府に委ねたところ2系統交互の皇位継承と定めた。大覚寺統、持明院統の両統迭立の始まりだ。しかも幕府自体も元寇を挟んで北条得宗家の権力基盤の弱体化が進み、朝廷(公家)・幕府(武家)両方の内部抗争が激化して行く。ある公家の日記に、「帝位の事、なほ東夷(あずまえびす)の計(はかり)なり。末代の事、悲しむべし。」と嘆いていて、結果、2系統は幕府が鎌倉から室町に移る時には、それぞれが正統の朝廷と主張しあった。南北朝時代と言う「末代」の様相を呈する。

 

  • 皇室権威の衰退

坂東玉三郎、『麒麟がくる』正親町天皇役「挑戦だと感じています ...正親町天皇(坂東玉三郎)

 後醍醐天皇は希代の傑物で、空前絶後の天皇だ。その建武新政は、前進的だったのか単なる復古政治だったのかは評価が分かれるが、いずれにしても「天皇の時代」と言う意味では別格の時代である。そして南北朝統一後は、皇室の権威は財政難とともに著しく低下した。もはや皇位は争うものではなくなった。遂に、戦国時代には、即位式どころか後土御門天皇が崩御しても子の後柏原天皇などは、朝廷の資金がなく大喪の礼すら出来ない時代を迎える。昨年の大河ドラマでも御所の筑地塀が破壊されて路地から直接御所に出入り出来るシーンがあったが、誇張ではない。当然、応仁の乱から戦国時代の103代後土御門天皇から107代後陽成天皇まで5名の天皇は、譲位し院政を行うことも出来ず、結果皇室の権威を示すすべはなかった。結果、在位平均30年を超えることになる。この間、天皇は歴史の表舞台には出て来ない。それどころか宮中行事の多くがこの時代に一旦断絶している。かろうじて、正親町天皇が織田信長に、後陽成天皇は秀吉に支援を受けているが、下剋上による天下統一には天皇の権威も無くてはならないものであった為である。

 

  • 皇室復古の闘い

20160724170326.jpg現皇室の祖 光格天皇

時代が徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年の子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統の断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結している。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ。つなぐだけではなく帝王学を訓育するなど、知性も人徳も備えた人物であったようで、内親王の場合早くからしかるべき公家に嫁ぐところ二十歳を過ぎても独身のまま宮中に残していた。恐らく、皇位の危機に備えていたものと考えられる。このようにその時代の英知を駆使してあらゆる観点から手を打っていたのである。現代の有識者に望まれるのはまさにこの時の教訓であろう。

結果、119代光格天皇は傍系とは言え東山天皇の3世孫から即位した。現代に続く血統である。この光格天皇はあらゆる点で現代の皇室のあり様を作った偉大な天皇と言える。