アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

871 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑭

2021-08-23 15:18:27 | 日記

その3 薬子の変 「平安時代の本格的始まり」

平安時代:藤原薬子薬子 イメージ

 薬子の変とは、桓武天皇の子平城天皇(上皇)が弟の嵯峨天皇に対して、再び皇位を狙い奈良の平城京に都を戻すとして謀反を企てた政変である。しかし、経緯を見るとここには皇位継承の難しさが垣間見える。事件のキーウーマンは、藤原薬子(女性)である。長岡京造営の責任者で暗殺された藤原式家の種継の娘で、その娘の珠名を平城天皇の妃として送り込んでいた。しかし、自分が尚侍として天皇の身辺を世話するうち、あろうことか娘より母である薬子の方が寵愛を得る。現代の美魔女というところか。男というのは若いうちは熟女の魅力には勝てない時期があるものだ。さらに薬子の弟である藤原仲成も重用される。藤原四家のうち、南家は仲麻呂(恵美押勝)の乱で衰退し、京家は強力な人材がなく、北家と式家の権力対立の時代だった。事件は平城天皇が体調を崩し、弟の嵯峨天皇に譲位し、奈良の平城に退いたもののその後奇跡的に回復し、自らの復権を狙う、一時は平安京と平城京と「二所朝廷」と言われるほど混乱した。戦いそのものは、坂上田村麻呂の活躍もありあっさりと決着し、薬子は自殺し、平城上皇の第1皇子阿保親王も廃された。これ以降藤原氏は北家の一人勝ちとなって行く。

 事件は以上の経過であるが、皇位継承における諸問題が明らかになっている。まず、兄弟相続である。古代よりいくつか例はあるが、※壬申の乱が典型例だが多くが争いになる。兄から弟の場合、しばしば兄の子がすでに立太子しているケースが多い。しかし、約束が守られず自ら(弟)の子の方が可愛いい為、子への相続となって、結果2系統の争いとなる。次に、閨の問題だ。皇后はもちろん、それ以外の女性の閨における会話で政治が動くことも多い。直前の称徳天皇と道鏡の事件は男女逆ではあるが、閨における(睦言)は寵愛するものの訴えであり無視できない。この2例とも体調のすぐれない天皇の回復を助けた事例であり功績は大きい。薬子がどの程度の意図をもって平城天皇に食い込んだか不明で、歴史上「上皇御謀反」とは言えないので、薬子に全部の責任を被せたと見る向きも多い。もっとも、娘と母親と同時に愛するような事態はそうそうあるものではないが。

 いずれにしても、藤原北家の総帥冬嗣台頭のきっかけとなった事は間違いなく、なにがしかの陰謀があったものと考えられる。歴史とは勝者の記録であって、勝者の不都合な記録は残さない。闇から闇だ。ただ、薬子や平城天皇が死後特に厚遇された形跡はないので、藤原式家と平城上皇の敵失による北家の台頭と見るべきかも知れない。その他の陰謀事件は多くが、敗者の御霊を篤く祀っている。まだ、祟りや怨霊が信じられていた時代なので、その観点から以上のように推察できる。

※「壬申の乱」

中大兄皇子と大海人皇子と言えばわかりやすいか。兄である中大兄皇子と弟大海人皇子、同母同父の兄弟だ。(わざわざこう言わないと理解しにくい古代の姻戚関係)中大兄皇子(天智天皇)の次は大海人皇子(天武天皇)で決まっていたが、天智の息子大友皇子にどうしても皇位を渡したくなった。遠慮(警戒)して大海人皇子が吉野に逃げる。しかし天智の死後、大友皇子と大海人皇子の叔父甥の戦争となる。古代の姻戚関係は誠に理解しがたい。そもそもは天武天皇の后の額田王が天智天皇とも関係があったと言われる。(恋敵対決)また天智の娘持統は叔父である天武の皇后である。(持統の逆襲)さらに大友皇子は恋敵である天武と額田王との間の子(十市皇女)と結婚している。(叔父甥対決)など、誠に複雑な争いであった。すでに理解不能だ。結果、天武天皇が即位しその後その系統で天皇を繋いだが、天智系との争いが延々と続く。その間の詳細はここでは書かないが、女帝の時代がしばらく続くのはこの辺の事情が原因だ。


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