新卒教師4年目、長男が誕生したときから夫婦で出し始めたミニコミ「啓」(長男の名)がちょうど100号になり、これを持って終刊とすることに2人で決めました。2,3日前に印刷・製本し、全国の読者約100名に発送を済ませました。手渡しの読者は約50名、こちらはゆっくり取りかかるつもりです。
100号の目次は次の通りです。(80ページ)
○終刊の辞(三津夫)
○ヤング夫婦教師の対話(三津夫・緑)
○終刊の辞(緑)
○良い風吹いてるよね(緑)
○写真展を開きます(緑)
○「啓」バックナンバー目次
○テーマ活動づくりの方法論を求めて(三津夫)
○「啓」100号波紋
○ごめんなさい、また本の宣伝です
100号の冒頭に次のような「終刊の辞」をしたためました。「創刊の辞」と合わせてお読みください。
■終刊の辞 福田三津夫
1976年、新卒教師5年目にミニコミ「啓」を連れ合いと創刊しました。当初は「月刊・啓」などと粋がっていたのですが、当然のように持続できず、そそくさと月刊の旗印を下ろしました。最近では年2号出せればいいという感じでした。まさに、気まぐれ発行の気まぐれ通信でした。そのジグザグの軌道はバックナンバーをご覧ください。
1976年から2019年まで、この43年間に発行したのは100号になりました。平均すると年に2、3号ということになります。当初は郵便料金の関係(90円で送れる50グラム以内)で、28頁立てが多かったのですが、宅急便や郵便事情で今は7、80頁になることも多く、発行回数は減りましたが、まあまあ頑張って出し続けてきたということになるのでしょうか。
そもそもなぜミニコミを発行しようとしたのでしょうか。
それは次頁の「創刊の辞」に書かれています。まずはそちらをお読みください。
■創刊の辞(1976、1)
ぼくと妻の緑は、今まで学級の子どもとその父母に、あるいは教師仲間に対して自立したミニコミを目差して学級通信を発行し続けてきた。ぼくは「仮面ライダー」「ゴロゴロストン」、緑「ゴンベ」「みち」「てんとう虫」がその名前である。こうした学級通信に教育実践の一端を書き続けてきたのである。
ところがこの試行は我々の満足いくところではなかった。なぜなら、対象が子ども・父母になれば固有名詞で関係をきりむすぼうとしてもなかなかそうはいかないのが実状である。ここに書かれたことはきれいごとに終わる可能性が強いのだ。同時にこれは我々の実践の弱さでもある。そこで、むしろ鉄筆を握る⊥おもい?などを書きこめる形体はないか模索することになった。
そのような時、既に森下計二氏は「草莽通信」を出していたし、野川清氏は神尾祐治氏と「通路」を発行し始めた。これらに激しく刺激され触発されるなかで「月刊・啓」が生まれた。それはまさに学級通信「仮面ライダー」が大学の友人の山﨑隆夫の「天才男子といたずら女子」に触発されたのと同様であった。人が意欲的にやっている姿に打たれ、自分もそれを取り組み、それらを乗り越えたいと我々は考える。
教育労働者として肉声でその生きざまを語ることによって、他の労働者とのミニコミの交換、交流を図る権利のようなものができたと思う。
さてこうしてできあがろうとしている「月刊・啓」とは何なのか。ぼくと緑には2月11日で一才になる男の子、啓(ひらく)がいる。まさに夫婦で出す通信ということで子どもの名前を取った次第である。啓が成長した時「月刊・啓」の中の親の生きざまをとくと見つめて欲しいのだ。「月刊・啓」には自立した教育労働者の叫び声を載せていきたいものだ。そうなるとこの通信の内容は様々なものになろう。教育現場、地域社会、家庭での生き様の対象化に始まり、授業論、評価論もあるだろうし、実践記録や書評、友人からの声も載せたい。
形式としては月1回で二人は必ず書いていきたい。一応1年間で12号までを目安としたい。批判、助言なども欲しいので「通路」合評会などと合流しようとも考えている。
手づくりの二人での結婚式の案内状、自己紹介の欄にこれからの課題としてぼくは「教育専門職論の止揚と実践」、緑は「婦人教育労働者の生き方」とした。まさにこれらの課題を理論的にも実践的にもこの「月刊・啓」で明らかにしていきたい。
かなり気負った書きぶりで、今読むと赤面の至りです。1975年に長男・啓(遠山啓さんの名前を拝借しました)が誕生しました。その息子に我々の生きている様子を将来読んでもらいたいというのが2人の思いでした。格好を付ければそういうことになります。そこで「啓」というネーミングになりました。1979年に娘が生まれてどうしようかと考えたのですが、馴染んだ名称を変えるのも対外的にも良くないというのでそのままにしてきました。娘の名前は奈々子です。こちらは私の好きな吉野弘の詩「奈々子に」からいただきました。「啓」発行から30年後、埼玉大学で非常勤講師として授業通信を発行したときに「奈々子に」と命名しました。
この「啓」は読みたいという人よりは読んでもらいたい人に一方的に送り届けるというミニコミでした。もちろん、「もういいよ。」という方には送らなくなったのは当然ですが。幸い多くの方からはがきや手紙をいただきました。最近ではメールもいただきます。そうした読者の反応を「波紋」として掲載し、2人の成長の糧にしたいというのが一貫した考え方でした。読者から「今回の号は『波紋』が読み応えありました。」と書かれることもしばしばありました。
勝手に送り届けていた読者はどんな方だったのか、迷惑な方もいらっしゃるかもしれませんが、今回初めて掲載します。(省略)
さて、本100号で終刊にしたいと思います。
我々もまもなく70歳、古希に近づき正直エネルギーが枯渇してきたということがあります。100頁近い原稿を整理し、近くの市民センターで印刷し、製本するのは結構難儀なことです。郵便や宅急便での送料も馬鹿になりません。
最近では2人ともブログを書き綴っています。現在まで私は200号を超えました。前号にその顛末は書いておきましたのでご覧ください。ブログは瞬時に送信でき、手直しも簡単、広告は入りますが無料で続けることができます。いいことずくめのようにみえますが、一番の問題点は「反応」を期待できないことです。一度書き込みができるように設定したのですが、そのことでネトウヨの餌食になりかかりました。あるブログに対して右翼的な書き込みがかなり増えたのです。お金をもらって書き込みを仕事にしているネトウヨの噂も聞いたことがあります。そこで「書き込み」ができないように設定したのです。このように一方通行のブログですが、前述したように、その利点は山ほどあると考え、続けることを決めました。
そうは言っても、前述しましたが「啓」を続けてきて良かったことはやはり反応がいただけるということでした。間違いなく私たちの文章よりも「波紋」のほうが読み応えがあったのではないでしょうか。そう書かれることもたびたびでした。何しろ読者にはすごい人たちが揃っているのですから。
「読者」の皆様とはこれからも交流できることを願っています。ミニコミなど送ってくださると大変嬉しいです。一方的なお願いで申し訳ありません。
長い間読んでいただきましたこと、感謝申し上げます。ありがとうございました。
私の終刊の辞の後に連れ合いの終刊の辞を読んでもらいましょう。
■終刊の辞 福田 緑
最近の私の記事はもっぱら旅行記となっていた。旅に出ると必ず日記を付ける。時に海外旅行では初めて見る町、初めて見る景色の感動を忘れたくなくて日記を付けた。殴り書きの日記でも、読み直せばそのときの天気、風や空気の臭い、味、暑さ寒さなどを思い出す。以前三津夫のおばちゃんに言われたことばがこのエネルギーを引き出すのだ。
「緑さんの文を読んでいると私も旅に出た気分になるんだよ。」
おばちゃんは小さい頃に耳の病気を患ってから聴力を落とし、車に乗っても酔うため、なかなか旅には出られなかったという。そのおばちゃんに私たちがたどった道や景色を感じてもらいたくて旅行記をしつこく書いているうちに、松本キミ子さんからも「『啓』を手に取ると読むのが止まらなくなるぐらい」としばしばお便りをいただくようになった。
(それなのに当時はなかなかお返事を書くゆとりもなくそのままになってしまったため、最近はお便りも届かなくなった。本当に申し訳ありません。ここで松本キミ子さんにお詫び申しあげます。)
ときどき同僚や友だちからもそんなことばを聞くようになり、小難しいことを書くよりも旅の話を書く方が私自身が楽しかったし元気になれたのだ。こんなに長ったらしい文章に相性の悪い方もいただろうと思うと今でも申し訳ない思いだが、三津夫の文章が好きで読んでくださる方もいれば私の旅の話を喜んでくださる方もいて、何とか二人は好きなように書き続けてこられたのだと思う。
三津夫の創刊の辞を読み直すと、私はどうやら「婦人教育労働者の生き方」を課題とし、それを「啓」を通じて明らかにしていくことを一時は目指したらしいのだが、その辺は次の「良い風吹いてるよね―私達の二十年」で多少まとめられているように思う。お読みいただければありがたい。
ただ、「子ども部屋」はバックナンバーを作りながら読み直したが、今読んでも我ながら面白い。小さなお子さんがいる家庭には結構参考になるような内容ではないだろうか。
いつの頃からか「100号で終わりにしようね」と言うようになったのは、三津夫が書いていたように、やはり文章をまとめ、編集して、印刷して、折って、発送するまでの体力が大変になったからだ。何とか終刊までたどり着くことができてホッとしている。
こんな私たちの道楽に長いことおつきあいいただき、本当にありがとうございました。
最後に妻の写真展(おそらく日本で初めてのリーメンシュナイダー写真展です)のお知らせです。是非いらしてください。お待ちしています。
■写真展を開きます 福田 緑
昨年8月にリーメンシュナイダーを歩くシリーズの第三巻『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』を出版してすぐに木村まきさんから「写真展をした方が良いと思います」と強く薦められた。木村まきさんとは、戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の元被告人二人のうちのお一人、故木村亨さんのお連れ合いである。現在も木村亨さんの遺族として元被告の名誉を取り戻すべく国家賠償訴訟に奮闘しているパワフルな人である。
6年ほど前から清瀬・憲法九条を守る会に参加するようになったまきさんは、社会問題だけではなく美術全般にも非常に関心が強く、あちらこちらの会合や集会、展覧会に足を運んでいる。そのまきさんがリーメンシュナイダーの写真展をまずは練馬区にあるギャラリー古藤で開いたら良いのではないかと言う。彼女は横浜事件を通してギャラリー古藤とのおつきあいもあり、オーナーを紹介してくれると言うのだ。ギャラリー古藤は福島原発の事故の後、毎年3月になるとたくさんの福島関係の映画を上映し、監督の話を聞ける機会を設けているので私もここ3年通っている。
昨年の10月24日。横浜事件国賠訴訟の2審判決が出された。残念ながらまた敗訴。内容についてはここではふれないが国の横暴な対応に腹が立つ。その後の集会にギャラリーのオーナー大﨑文子さんも永田浩三さんもいらしていた。いつもならまきさんはたくさんの支援者と話があるので私は先に失礼していたのだが、この日は「一緒に帰りましょう」と声をかけられ、彼女を待っていた。するとまきさんがお二人と一緒にきて道々歩きながら私を紹介して引き合わせてくれたのだった。
武蔵大学社会学部教授の永田さんは学生を連れて一昨年から横浜事件についてまきさんに密着取材をしてきた。私もまきさんから横浜事件の話を聞いてから今まで知らなかったことことへの反省を込めて裁判には可能な限り傍聴に行っている。その間、何度か永田さんや学生さんたちを見かけてはいたが直接お話ししたことはなかった。学生たちはそれを1本のフィルムにまとめ、昨年7月には「言論の不自由展」で発表したのだ。この発表を聞きに行き、感動した。こんな先生と大学時代に会えたら私はもっと賢くなれていたのではないかと思っったほどだ。しかも永田さんは元NHKのプロデューサーとして活躍した方でもある。リーメンシュナイダーに興味があり、打ち合わせには参加したいとまで言ってくださった。
まきさんは不思議な人だ。自分の裁判では怒り心頭のはずなのに、そんなときにも私のために気配りをしてくれていたのだとわかって驚いた。そして私がお礼のメールを書くと「今日は良い日でしたね」と返信が来てまたまた驚いた。人と人とを結びつけるのが嬉しいのだと言う。それにしてもこんな日に…と思うと頭が上がらない。
そんな成り行きで12月中に一度ギャラリーの大﨑文子さん、田島和夫さんご夫妻と永田浩三さん、木村まきさん、私の5人で打ち合わせを持った。とはいっても私の写真展が一体このギャラリーで開けるものなのかどうかの審査のようなものだと思って、今まで出版した3冊の写真集を持ち、いつごろなら会場が取れるのか、費用がどの位かかるのかなど漠然としたことを聞きに行ったのだが。しかし、オーナー夫妻も興味を示してくださり、永田さんは写真集を見て「面白い、面白い」と楽しんでくださったので、結果的には以下の内容で開催することになった。ずいぶん先の話と思われることだろうが、ギャラリー古藤では毎年大きな催しが定期的に入っていることと、私の諸事情(4月のふせ由女さんの選挙、7月のドイツ旅行など)が重なって、ここならしっかり準備ができるだろうと決めた日程だ。もしお近くにおいでになることがあったら是非覗いてみていただければと思う。6月頃にはチラシを作る予定でいるので関心のある方はご連絡いただければお送りしたいと思っている。
●福田緑写真展
「祈りの彫刻
リーメンシュナイダーを歩く」
▼日程 2019年11月23日(土)~12月1日(日)
▼場所 ギャラリー古藤(西武池袋線、江古田駅下車徒歩10分、武蔵大学正門前)
176-0006 東京都 練馬区栄町9ー16
電話03ー3948ー5328
▼展示時間 11時~19時
ただし、次の3日間は短縮
23日(土) 16時30分まで
17時~18時30分 ギャラリートーク
武蔵大学教授 永田浩三氏&福田 緑
閉会後、簡単な懇親会 18時30分より
29日(金) 17時30分まで
18時30分~19時30分 ギャラリートーク 福田三津夫&福田 緑(未確定)
12月1日(日) 17時まで
▼入場料 展示は無料 ギャラリートークは1000円
みなさまのお越しをお待ちしています。