美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

春告げ花芽

2011-04-20 13:33:46 | 日記
広瀬川の土手の胡桃の花芽は今しも綻びそう。大震災の後、春は何もなかったかのように巡ってきた。空に向かってたおやかに伸びた胡桃の花芽と枝の組み合わせはモンドリアンのデッサンのように美しい。しかし、どうして、こんなカタチになるのだろうか。DNAに形態の情報が刻まれているから、と言えばそれまでだが、このような美しく調和した形態へと自らを形成していく力は謎と言うしかない。

人間も自然と同じく本来同じ形成力を内に秘めた存在だったが、ルネサンス以来、自ら神となり、自然の主人公となることでそれを失ってきた、そのことを改めて思わせられる。だから画家が自然に向かい、それを描こうとするのも、その奥底にはこの本能的な力を取り戻そうという無意識的な欲求が働いているからかもしれない。近代以降、写実主義から印象派へ発展を続ける中で、突然手袋を裏返すかのように表現主義の運動が起こるが、それはこの本能回復のうねりの必然的な表れに他ならない。しかし、すでに楽園の知恵の木の実を食べた我々は無垢ではありえない。(剣を持した天使が守っていたため、命の実は食べれなかったこと、知ってますか?)失われた楽園にやすやすと帰れる子どもの様な天才は別として、ほとんどの者は批評家となるか、ときどきの流行文化の類型として生きるしかない。

自然とのコレスポンダンスが、実は心の中の形態を呼び起こしたのだと気づく中で、抽象芸術が登場する。しかし、自然という外部性と交感する力を失ったとき、それは病み衰えた退廃の姿も見せることになる。芸術はマルセルデュシャンがいみじくも名付けたように「独身者」の芸術となることで、健康な力と輝きをついには失ってしまう。(写真:バックの建物は老舗割烹「東洋館」。真下の思い出多き鹿落温泉の建物は、地震で倒壊真ん中に大蜘蛛が鎮座した蜘蛛の巣状の天井がある部屋もろとも失われてしまった。花芽は変化した姿を見るとコブシではなく胡桃だと分かった。6/11訂正。御詫びします。)



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