美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

相馬駒焼に曙光、元禄時代の窯再生へ

2014-09-18 16:36:44 | レビュー/感想
元禄以来受け継がれ、近年まで使われて来た「現役」の窯としてはおそらく日本最古の相馬駒焼の窯に、行政の支援を受けて、窯や鞘堂を修復する方向性が示され、微かですが光が見えてきました。9月初めに県文化財審議委員の代表者や文化財課の職員が再び訪れ(6月に一度来訪)、窯の文化財としての重要性を再認識し、文化財保護の実行責務が行政にありながら、震災後これまで窯を放置していた現状を不適切なこととして認め、来年度策定の県予算案への計上を図る一方、「日本財団」の援助申請を図る等いろいろ手だてを使って必要財源を確保し、雨で傷んだ鞘堂も含めた完全修復(想定1,000万近く掛かる?)をめざす方向で具体的に努力する旨が述べられました。プライベートには対処が難しい、たくさんの東北の陶芸に関する貴重な歴史的な資料も市史編纂室に収められるなど、整理と保存の方向性も見えて来ました。また、代々受け継がれてきた粘土山についても、放射能の汚染状態等調査をして、東京電力に場合結果によっては補償をはじめ適切な対応を求める予定でいるようです。
以上は相馬駒焼故14代田の奥様、田代恵美子さんから先日伺ったお話です。行政による修復の道筋が示されたため、先に私達が考えていた今の窯を部分修復して窯炊きを行い、窯への一般社会の関心を喚起する計画は、近々には実行できなくなりました。しかし、震災直後訪れて、ブログにも訴えてきた窯修復が、行政の手によって、数年先のことであれ、なんとか具体的に動き出すことを嬉しく思います。江戸以来の相馬駒焼の生業としての継続は、難しい課題として残されていますが……。今後行政の計画が具体化されていく時点で、私達のプロジェクトとしてはどう関わって行くのかを含め、注目し考えていければと思っております。

写真ー今年は夏に何度か激しい雨が降った。鞘堂の雨漏りが心配だ。修復を早めることはできないのだろうか?

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ゴッホの『ひまわり』展 7月15日~8月31日 宮城県美術館

2014-09-03 13:14:31 | レビュー/感想
ゴッホのひまわりは確かに筆で描かれた絵であるのだが、通常の絵のカテゴリーには入らない、聖なるものか、デーモンの仕業か分からないが、名付けようのない何か別のものを見ているような恐ろしさがあった。この絵に比べれば、同会場に展示されていた私の好きな長谷川りん次郎の絵でさえ、まだ花の美しさに媚びている。まして梅原龍三郎の薔薇の絵なぞ、厚化粧を施したホステス嬢のように見えてきてしまう。

しばらく見てると様々な態様で描かれたひまわりの間には空間があるようで、3D絵画のように浮きあがって見える。一つ一つの花弁のかたちといい、色彩といい、きわめて繊細にバランスされた世界が見えて来る。脳細胞のすべてを覚醒させないとできないような絵で、冷静に筆致をコントロールしながら、ほんとうの花の姿、その「卑俗な事物から引き出された神話的な現実」(アントナン・アルトー)を描いている。この事物との極限的なスパークの中でむきだしとなった魂がここには描かれているようだ。そう思うのは「耳切り事件」の前後に書かれた絵、というバイアスがあるからだろうか。同時期に描かれた他の2枚のひまわりの絵に比べると押さえた色彩で、一般におなじみの「激情の画家」とはまるで違う画家の本質をかえって浮き彫りにしている。

収監された精神病院からのゴッホの手紙を読むと、画家はこのひまわりの絵も含め3幅対に仕上げて船室の奥に飾ればよいと、スケッチ付きで弟テオに提案している。これまで一枚も兄の絵を売ることができず、金銭的負担を掛け続けている弟のために、画家は売り方の算段までしている。魂に関わる仕事をしているといっても、人間はこの売り買いから無罪放免とはいかない。このことを正直に残しているゴッホをむしろ好ましく思う。それにしても今この三幅対が揃えば10億は下るまい。それを考えると不条理な話だが、この思い通りにならない現実と交換に永遠の世界に突き抜けた絵が生まれたとも言える。

啓示に近いものを受けて垂直に構成されたゴッホの絵と違い、高度な完成度を持った絵でも幻のごとく幽冥の境定かならざるところ、つまり永遠に中心を持たないところに日本の絵の特色がある。川端龍子の屏風絵、「和暖」は葉の一枚一枚にわたってゆるみのない絵で、しかも「ひまわり」の前座のように集められた日本の作品の中では、美しいだけでない不思議な深度があっていちばん心惹かれたが、この重畳たる枝葉を押し抜けて、いつの間にやら穏やかに冥界へと入ってしまいそうな感覚を呼び起こすこの絵の世界は、プラトニズムの伝統の中にあるゴッホの世界とはずいぶんと違うものだと思った。