美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

大白隠展  4/16~6/26  東北歴史博物館

2016-05-27 14:31:13 | レビュー/感想
たまたま仙台の隣り、多賀城市の東北歴史博物館で「大白隠展」が開かれていることを知って急遽訪れた。五月晴れの平日だったが、男性が一人熱心に見ているだけで会場はガラガラ、まさしく独り占め状態で、何度も出たり入ったりしゆっくり見ることができた。一見、単純に筆の勢いに任せて描いたような墨絵なのだが、それだけ時間をかけて何度見ても見飽きないのは、作品が秘めた深い精神世界のゆえであろうか。傍に添えられた解説も実行委員のお坊さんが書かれたのか、ときに禅の公案の内容まで深く入った中身の濃いものもあった。

入ってすぐのところには達磨像が11枚ずらりと並ぶ。白隠の筆頭弟子、遂翁元盧が描いた「白隠慧鶴像」と、眇(すがめ)といい、頭や鼻の形がそっくりだから、これら達磨像は自画像に近いのではないだろうか。もっとも達磨のイコノグラフィーがあって、遂翁の「白隠像」は、尊敬する師をそれに擬して描いているのだとしたら、実像は分からない。いずれ達磨像であれ、白隠像であれ、ひたすら厳しい修行と座禅を重ねて眼光鋭い異形の人となった僧の姿と見えなくもない。じっくり見てると、まるで岩に浮き上がった人の顔のようでもある。しかし、筆跡の強弱とスピード、墨痕の明暗、緊張感あふれ、ときに意表をつくレイアウトの妙など、とても真似の出来るものではない。

これらの達磨像はいつ頃の年代のものか分からないのだが、私はまだ若い時の作品と思いたい。臨済禅中興の祖といわれる白隠は若い時からずばぬけて優秀なお坊さんであったようだが、達磨や聖徳たちを模範としつつ、その悟りの境地に近づこうと研鑽努力していた時代の作のように見える。

しかし、凡夫であろうとも、長生きの功徳は、努力で実現しようとするものではなく、もともとあるものに気付かせる自然過程をともなう。それを仏道では知恵の目では見えない心の根源=仏性への目覚めとして「本覚論」のうちに語るが、この自己中=「空」の気づきから他者愛への大転換が、白隠にもあったように思われる。その姿は実在した中国禅宗史上の愛すべき人物、布袋の一連の姿に描かれている。カタログの説明によると、布袋和尚の禅は、「深山の仏法ではない。庶民が生活する場所に出向いて法を説く、十字街頭の仏法である」という。空っぽの袋しか持たぬ、優しくユーモラスな布袋の姿は、巷間に慈悲の目で法を説く、白隠の姿でもあったのだろう。

この東北歴史博物館は、幾つかの小展示用の部屋があるが、お奨めしたいのはアイヌの刀剣を展示した杉山コレクションの部屋。それまではアイヌの工芸文化というと、木彫りや刺し子の衣服しか思い浮かばなかったのだが、刀剣を飾る金工細工にこれほどの繊細精緻な技術とセンスを持っていたとは驚きで、アイヌ人に対する従来の見方が変わった。とりわけ奥の正面に飾られている、邪を祓うために作られたという一振りの刀剣は、純粋な信仰に基づく、作為性が全く感じられない奇跡的な産物だと思う。これを見れただけでも儲けものというものだ。

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鈴木照雄展 5/3~5 栗駒陣ヶ森窯

2016-05-09 16:40:54 | レビュー/感想
遅まきながらのレポートになるが、5月5日、鈴木照雄展(栗駒陣ヶ森窯)に行ってきた。展示会も最終日とあって、藁葺き屋根の母屋に並んでいた作品は大分少なくなっていた。それでも渋いすばらしい抹茶茶碗を購入できたのはラッキーだった。抹茶茶碗である程度名の通った作家ものでいいものとなると、うん十万というのが相場だが、鈴木さんの抹茶碗は、私でも購入できるくらいだから高くない。いや、「ほんとにこれでいいのか」という値付けである。

もっとも鈴木さんはこれが抹茶碗だとは一言も言ってない。高価なお茶の器として売ってしまったら、民藝の美の背景となっているかっての陶工の生活と労働を、ここまで徹底して実践している彼の生きかたと矛盾する結果になってしまう。だからこれは飯碗であっていいものだし、この値付けで正解なのだ。その結果、初期の茶人が朝鮮の飯碗を茶器としたと同じ、価値付けの自由さが今時の選び手にも少しばかり与えられることにもなる。

年に一回の展示会に足を向けさせるのは、鈴木さんの新作に出会う喜びだけでなく、鈴木さんの作品の背景となってる環境が懐かしくも魅力的だからだ。もちろんこの環境はすみずみまで鈴木さんの美に対するこだわりと、春夏秋冬、身を削る日々の労働の積み重ねによって高度に整えられたものだ。工人組合によって守られた純粋な陶工の生活ははるか昔のこと。柳宗悦を感嘆させた用の美は、もはやたった一人の並外れた意志と努力による、ある意味、超作為的な道を経てしか生まれない。

母屋に至る農道の脇には数台の車が止まっていたが、ふだん無機質なビルの立ち並ぶ都会に暮らし、高速に乗りナビに頼って山間の田舎屋を訪れる者にとっては、東北の田舎と工人の生活に憧れる大人の物語を具現した高度なテーマパークでしかないのが、仕様がないことと分かってはいるのだが、なんだか寂しい。せめて求めた器でお茶を立てて、自然と作家が吹き入れた貴い命のおすそ分けをいただくことにしよう。
(写真は納屋の二階を会場とした作陶生活40年の回顧展から)

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