美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

フェルメールの光

2011-12-04 19:25:48 | レビュー/感想
仙台の宮城県美術館で「フェルメールからのラブレター展」が開催されている。震災後急きょ仙台でも開催が決まったものらしい。東京で開催される、こういったメジャーな画家の作品展は、連日霞か雲かの人の波で、ゆっくり絵を鑑賞するといった雰囲気にはならない。地方の美術館なら平日に行けばそんなことはないだろうと思ったら豈計らんや。満車順番待ちの駐車場の様子を見て、一度は諦め、入場したのは閉幕ぎりぎり最終週となった。雨粒が落ちてきそうな曇り空の平日、開館と同時に入場したため比較的ゆっくり見ることができた。

「フェルメール」の名前を冠しているが実際展示されていた作品は3点だけだった。しかし、なぜまあこんなにフェルメールは人気なのであろうか。まずスナップ写真のように、ありふれた日常の瞬間を切り取ったものだから、というのはあるのではないか。現代のカメラの原型「カメラオブスクラ」を用いたと言われているが、まさしくフェルメールの作品はカメラで隠し撮りされたかのようだ。無防備な姿をとられたと言わんばかりのシーンがそこには描かれている。

ブリューゲルが描いたような生も死も神に包摂された中世の世界観を失って、近代以降の人間は生活を断片化し、瞬間瞬間にことさら大きな渇望を寄せるようになる。写真の人気はそのことと関係があると思う。しかし、瞬間をとらえた作品でも写真と絵画では大きな違いがある。写真は機械の力を借りて瞬く間にイメージを定着することができるが、それはあくまである瞬間の記憶を呼び覚ます断片でしかない。一方、絵画は、筆を執っては、長い間その瞬間について思考し、形を吟味し、色を重ねていかなければならないが、そうすることによって写真では表現できない、深く生きて流れる時間を定着することができる。

そんなことを考えながら、さて、実際にフェルメールを見た。フェルメールの3作品は展示会場の一番最後に展示されていた。見た途端、それまで駆け足で見て来た同時代の作家作品とはこれらはまったく原理的に違うもの、という印象を受けた。これは一般的に思われているような意味での「絵」ではない。それくらい違っている。これに比べると同時代の他の画家は教訓や物語に寄りかかった単なるイラストレーションでしかない。

フェルメールの目的は、物語の説明ではなく、光に照らされて物があり生きている人がいる不思議さ、われわれが見ている空間と存在のリアリティの探求にある。これは「客観性」を追求する科学者の姿勢に近いものだと思う。だが科学者と違うのは、この光が単なる物理的な光(印象派が着目したような)ではなく、人物の微妙な瞳や表情、しぐさの変化を浮かび上がらし内奥の魂を明らかにする光でもあることだ。レンブラントがキリストの内から輝きだすように描いたバロック的な光は、ここではすべての事物を柔らかく包んでいる。

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