美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

若冲さんといっしょに芦雪さんも来ていました。 「プライスコレクション江戸絵画の美と生命」 仙台市博物館 

2013-03-24 15:40:09 | レビュー/感想
正直、伊藤若冲は、すでに70年代初め、「奇想の系譜」で脚光を浴び有名人になっていた辻惟雄先生の講義を受けて以来、TVでも何度も取り上げられ、何度か実物も見ているし、もう驚かされることはないと思っていた。まあ、若冲さんが仙台までせっかく来てくれたので、わたしも行ってみましょうというところか。(それにしてもこのしつらえは「電博」のにおいぷんぷんだ。)そして思ったのは、若冲の作品は「絵文字」だということ。言葉を変えればイコンである。そのことは墨絵の「鶴図屏風」が見た瞬間、仮名文字の変奏であるかのように錯覚したことからも、いっそう腑に落ちるものになった。

文字のように決まった形態に収まったら、細密描写と鮮やかな色彩で偏執狂的に中を埋めていく。しかし、その強烈な押し出しに相反して、自然な動きは止まってしまう。すっかりパターンと化したら、「コピ、ペ」を繰り返し、空間にレイアウトしていくという訳だ。日常的にペイントソフトを使っているデジタル世代のクリエーターにファンが多いのも頷ける。そうした絵文字と計算が最も活かされる場所は「思想画」である。(そういえば広告デザインはみな思想画だ)だから、この展示会の目玉「鳥獣花木図屏風」も、「山川草木国土悉皆成仏」という仏教思想の絵解きになっている。分子レベルでは人間も動植物も違いはない、そこに帰れば仏国土が実現するという思想が、タイルを貼付けたような「枡目描」という目的合理的な手法を用いて表現されたものだろう。

今回驚かされたのは、長沢芦雪の絵の方である。最初の部屋の一番最初に展示された芦雪の「白象黒牛図屏風」を見たとき、素直に、ああ、見に来て良かったと思った。そういう自然な出会いはここしばらくなかったものだ。巨大な牛や象が画面一杯、丸山派流の筆法で描かれているが、いつのまにかそれが山や河など自然の風景のアナロジーになってしまったと言う風情だ。その流れが理に落ちてなくていかにも自然で心地よい。「虎図」も、たいていは巨大な猫にしかならないのだが、その猛々しい霊獣の「崇高」とも言える姿がよく表わされていると思った。この画家は「ヌミノーゼ」(美学用語で言えば「崇高』)を感じ表現出来る力を持っている。ただし「人物図屏風」はいただけないと思った。ゆるいだけになってしまうと、画家はついついこんな漫画少年が描いたような駄作も描いてしまう。

奇想の画家の三羽ガラスの残る一人と言えば、曽我蕭白。「寒山拾得図」を見ただけでもこれは相当の変わり者、変態(賛辞の意で)に違いないと思った。実際放浪して絵を描き、奇行の逸話が伝わる人物と知った。そうしたエキセントリックな人間はときどき意図せずに時代を越えたアバンギャルド作品を生み出す。「野馬図屏風」の、具象を離れて今一歩でアンフォルメル絵画になりそうな生き生きとしたブラシタッチに魅せられた。

円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」は、さすが円山派の祖と思わせる写実描写から空間の使い方まで隙のないイリュージョン技術には驚かされるけど、そのすべてが計算されて出来ているように思える。「保津図川図屏風」に見られるような幻妖不可思議さを呈した絵を描く熱っぽい応挙は何処に行ったのか。いくら見ても何も浮かんで来ない白い空間は手抜きの空間だ。凡庸な円山派を介して、綺麗なだけで退屈な明治以降の日本画につながってしまう負の流れが応挙において始まっていたということか。

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