美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

古田愛美 『私がいなくなる時』 4/23〜28  ギャラリーTURNAROUND  

2019-04-28 19:25:41 | レビュー/感想

ギャラリーターンアラウンドのそばを自転車で通りかかった。窓際にオーナーの奥さんが立っていてなんとなく目があってしまい、立ち寄ることになった。白い手で呼び入れられた訳ではないが、「アミナダブ」の主人公よろしく、こういう時は素直に従うことにしている。展示していたのは、美術大学を卒業して2年という若い女性木彫家の作品である。

入り口には船越桂風に部分着色された彫刻がある。ポストモダニズムを経過した若い世代には船越保武より、やはり息子の桂の方が圧倒的な影響力を持っているのだろう。しかし、神なき時代、ブリューゲル親子のような、アノニマスな継承は受け入れがたい。個性的であることが芸術の至上命題である時代であるから、作家は当然別の個性の発露を欲望する。

はじめはおずおずと控えめに、聖者とは違う、普通の人間の装いをまとわせ現代を生きる魂の形象化が図られる。そこでは見えないものを見つめていた聖者の眼差しは、あらぬ方へと向けられた単なる多義的な仕草の一種に脱色され、しかも眼自体は虚ろと化して、無機的な大理石の玉眼さえ埋め込まれている。その脱構築ぶりに現代批評的な意識があったのかどうか分からないが、皮肉なことに、それは軽い時代のトレンドとも結びついて、高い評価と人気を得て、斯界の寵児となった。

船越桂の90年代からの異形の彫刻は、父から完全に離れて独自の「進化」を求めた結果であろう。しかし、親と子の信仰の非連続は、啓示を受けた神の似姿の形象化とはベクトルを全く異にして、物質とも混交してしまうなんでもありの世界に帰着する。実は、父とは逆ベクトルの多神教的な神像の人間の側からの追求だったのかもしれない。それは物思わしげな空虚な謎を投げかけ続ける現代的な「スフィンクス」を偽装する。

デペイズマンやデフォルメを人体構築にも大胆に適応してなされた、正統的セオロジーからずれた反自然のリアリティが彫刻にも成り立ち得るかどうか、未踏の領域への問いを秘めた、ひとつの実験のようだ。かろうじて残存する原初的人間のイメージと頭脳から生まれた、ある意味邪悪な相反するイメージが、皮一枚でバランスしているようなものとなった。受け継いだエレガントな素質と繊細な美的才能、そして楠木のナチュラルな素材感のゆえにグロテスクを免れているが、この解体に意味があるのか、解体の末にあるものは何か、と言った疑問が絶えず立ち上がってくる作品ではある。

閑話休題。吉田さんの彫刻について書こうと思ったらどんどん船越桂論になってしまった。船越と同じ楠の木に彫られた吉田さんの彫刻作品には、女性の自然な命が溢れている。荒々しい木目を活かした手法がその効果を上げている。ここにある肉体は、船越流の人体のイデアと反イデアではなくて、いろんな思いを秘めた女性の肉体の現実の姿である。だから正直な思いの分だけ、しっかりと重力が感じられ、単純なフォルムに健康的な力強さがある。とりわけギャラリーの真ん中に据えられた赤ん坊を持った女性像はそのように感じた。

ふとこのブログでかつて取り上げた「成島毘沙門堂の巨像」(岩手県花巻市)を思い出した。5メートルに近い一木づくりの像で、この坂上田村麻呂に擬したと言われる神像を支えている地天女の姿に似ていると思ったのだ。彼女の出身を聞くと塩釜だという。いづれにしろこの神像と同様の東北の女性が持っている、寡黙だが自然に立脚して男性にも増してたくましい姿が出ていると思った。さて、この作品は子供を突き出すような形で前方に抱えている。少なくとも子どもを慈しむ母の姿ではない。自分の肉体から生じたなんとも言い難い異物とも言える生命体に戸惑い、不安な表情を見せている。しかし、現代の若い女性の姿としてはこれがむしろ自然なのだと思う。

ここに出ている不安や恐れは、やがて家庭を築いて、一人が二人となり、三人となる時、自然に乗り越えられていくものだと思う。だから次には子供を胸にしっかり抱きとめている像が浮かんでしまう。それを凡庸とは言うなかれ。彫刻家は、観念的な領域に入り込んでしまう男性には持ち得ない、現実の具体と接続したその喜びを、日常の現実、常態とする中から、肉体や魂の帰趨といった、作家が今抱いているもっとも普遍的な疑問に、女性なりの直観や感性を働かせて挑んでいってほしいと願う。展示場には彫刻のためのデッサンが展示されていたが、彫刻のための設計図であることを超えた独立した表現となったものが、今はない物ねだりとは言え、作家なりの彫刻作品の深化とともに見たいと思った。

ブログ主の運営するギャラリーshopはこちらです