美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

求道の画家 岸田劉生と椿貞雄 1月27日(土)〜3月25日(日) 宮城県美術館

2018-02-23 13:27:15 | レビュー/感想
劉生が逃げた(?)場所

 確かにこの二人の比較対峙から、見えてくることは多いかもしれない。企画した学芸員には美術史的な観点から新視点(椿を媒介に劉生を天才性で見るだけでなく画壇という集団的営為の中に位置付ける)を提示した満足感があっただろう。しかし、自分にとって、そうした学芸員の意図とは別に、無闇にそして粗雑に神秘化されていた劉生の別のストーリーを見せてくれた点においてこの展示は興味深いものだった。とりわけ劉生の真摯な探求結果の「日本回帰」として一般に意味を深く問うことなく括られているところにおいて。それは劉生が実は副題に言う「求道の画家」(優れた行為や結果に倫理的意志的な意味合いを持たせてしまうこの言葉はあまり好きではない。まして劉生にこの言葉はふさわしくない)であり続けるのではなく、逃げてしまった場所でもある。そこを明確にしておかないと、椿にも仄見える凡庸さによって画壇というお仲間中心に価値観が形成されていった結果、ドメスティックな閉塞状況から今もって脱却できないでいる日本絵画の現状を安易に認めて、油絵という西洋生まれの衣装の浅薄な模倣と理解からいつまでも進展しないことになる。一方で、近代の終わり、結局は絵がエンターテーメントやサブカルになってしまった現在、この日本という風土に根を下ろしつつ、絵を描くことの意味と根源を問う一つの糸口にもなると思う。劉生は問題点も含めて近代日本絵画史においてそれに耐えうる数少ない画家の一人だ。

デューラーの写実が意味するもの

 カタログの解説には、「劉生は、ゴッホやセザンヌの表現にも満足できず、デューラーなどを知って写実に転じた」とある。満足できずという表現は、ゴッホやセザンヌを否定しているのでなく、当時「白樺」を通して入ってきていた欧州流行の表現に、他の画家のように表面的な技法だけ小器用に真似することで満足しなかったという意味であろう。彼は写実絵画というジャンルを真似しようとしたわけではない。彼は「写実」に絞り込むことで、デューラーと同じ信仰の目で世界を見ようとした。それは彼にとってキリスト教信仰の根を探る道でもあったかもしれない。
 さて、この劉生の探求の成果の極点は「静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)」であろう。1916年、劉生は肺結核と診断され戸外での写生ができなくなった。それで仕方なく取り組んだ静物画が「自分を生かすにこれほどぴったりしたもの」と言わしめるほどのものになったという。まさしく彼はこの一点において、デューラーやセザンヌ、ゴッホと同じ目が、レンズが自分に備わっていることを発見した。しかし、その奇跡的な瞬間は続かない。翌年この作品を発展させるべく造形的意図を加えて描いたと思われる「静物(林檎と葡萄)」は見事なほどの失敗作であったことからも、この作品がいかに再現不可能な作品か分かる。
 たまたまパラパラ読んでいたマルティン・ブーバーの「人間とその形像」(ブーバー著作集4哲学的人間学所収)に、デューラーの次の言葉が取り上げられていた。「なぜなら、真実に芸術は自然の中に隠されている。芸術をそこから引き裂く(reiβen)ことができる者が、芸術を持つ」。
 美学者のコンラッド・フィドラーと哲学者マルティン・ハイデッガーは、ともに芸術作品の根元を探求する中でこの言葉に出会っている。しかし、前者は本来全人的(ブーバーの表記では「全ー身体的ー精神的ー人」)な営為である芸術行為をカント以降の観念論の範疇で論じることで、さらに後者は「引き裂く」という言葉に拘泥することでかえって煩雑な言語連想にとらわれて、デューラーの端的素朴な語りかけの本来的な意味をそこなっているとブーバーは指摘する。
 止まれ。ブーバーを論じることに本筋はない。ここにはその内に生き信頼すべき、人間によって生きられ得る生の世界としての「自然」と全人格的に対面してるデューラーがいる。彼はいささかも疑うことなく神が創造したもう自然という統一的世界にゆだねて生きていた。ブーバーが述べるごとく、科学的知見がそこに分裂を持ち込んだ。二つに引き裂かれた我々が描く自然は、おのずと非現実的な、不気味なものにならざる得ない。まさしく美術史家ハンス・ゼードルマイヤーが18世紀以降の絵画や建築にその兆候を挙げながら診断を下した「中心の喪失」が現実化した世界である。サルトルが描く、名前を取り去られたマロニエの根に嘔吐するロカタンのように、神を、そしてその創造になる自然を失った我々は得体の知れないものにとりまかれて生きていくことになる。
 劉生の生きた近代という時代、デューラーの写実画は西洋においても、わずかな天才を除きもはや再現不可能なものとなっていた。

「野童女」の歪み

 「失敗」からどのような変化を経てなのか、この展示会ではその点と点をつなぐストーリーはつまびらかでないが、劉生の重要な変節点として現れてきたのが「野童女」(1922年)であったと思う。ここでは「静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)」で彼が獲得したデューラーの目はまさに溶解しかかっている。デューラーの写実の技術は深く生きているが、東洋画の世界観がまるで感染症のように侵入してきてモデルの顔や肢体を歪ませる。浮世絵や錦絵を見つつ、なぜこんなに日本画と西洋画の世界とは違ってるのだろうか、とつぶやく劉生がいるようだ。しかし、彼はまだこの二つの世界に足をかけている。一方、この劉生のアンビバレントな心情、内なる葛藤が全く飲み込めずに劉生の模倣をしている椿の絵(「菊子遊戯の図」1922年)は、劉生より技倆的に上回っているとしても、そして残した言葉(「微笑のミステイックとそこに坐せる生物の神秘を出したい」)の的外れを見ても、ただ滑稽な印象しかない。やがて劉生は、西洋と日本との間のきしみから発生したような「でろり」の世界に入っていく。それは、奇矯な遊びのように見えて、劉生の写実の根にあった、肉化した思想の深刻なゆらぎを正直に反映したものであったろう。

抽象作品になってる紙本彩色画

 しかし、この道をどこまでも下降することはできない。劉生は、憑きが落ちたように、一見健康的に見える快楽主義的な道、東洋の文人画的、高踏趣味的な世界に立ち戻ってしまう。劉生は、西洋の目と東洋の目の間に生じた葛藤の中で「写実」を続けることを捨てて、慣れ親しんだ文化的様式に帰っていった。そこは東京=江戸の中心、銀座生まれの劉生にとっては、懐かしくもほっとする場所であっただろう。もともと「The Midday」(1913年)に見る、描かれた文字が変化して人物になるような、モダンな着想の世界をさらっとかけるような洗練されたセンスを持っている劉生でもあった。折しも関東大震災後の京都住まいがそれを加速した。鎌倉に戻ってもそのときの酒と遊びの生活は変わらない。何か谷崎潤一郎のような結末に思えてならないが、若い時に入信したプロティスタンティズムとはそれはどういう関係にあるのだろうか。文献あさりは全くしない自分であるから、そこまで論じたものがあれば教えてほしい。
 彼の東洋画はそれなりに彼の天与の才能を表している。ただの筆法の模倣ではない。ときに宗元の元絵を写真を見て描いても形態模写に終わらない。すっかり古人の心に入ってしまう。「村嬢愛果」(年代不詳)のいきいき感は、当代ものと言われれば骨董に素人の私なぞすっかりだまされてしまうレベルだろう。これら一連の紙本彩色画を会場の真ん中の椅子に座り、離れて一堂に見渡した。具体的な像や文字はボケて形態と色彩だけが目に入ってくる。そこには押し付けがましい意図的構図はない。その自然さの心地よいこと。喜びや屈託ない心が穏やかな色彩と生きた形に変じて踊っている最高の抽象作品を見ているようだった。

椿貞夫の限界

 一方の椿貞夫は、劉生の死まで、その道程を模倣するように画家人生を生きて来た。しかし、劉生の絵は、いづれも深いところで彼の思想が形になっていったものだが、椿は劉生を若い出会いの時からカリスマとして仰いで絵画技術としてそれを模倣したに過ぎないように思える。それがいかに表層的なエピゴーネンの理解でしかなかったかは、残された生真面目だが常識的で的外れの言葉とともに、決定的なのは奥行きや空間が描けていないことに現れている。結果は、例えば劉生に触発されて書いた「静物画(りんご)」(1921)に見るように、横にスクロールしていく屏風絵の構図を借りるしかない。その固定した構図の中で果物たちは死んでしまう。あるいは劉生ばりの紙本彩色を真似ても、意図が透けて見える教科書的なデザイン、レイアウトにしかならない。残された道は素材としてのモノを成熟した技法で精密に描くしかない。それがどーんと対象を真ん中に置いただけの「冬瓜図」(製作年代不詳)など一連の果物を描いた作品だと思う。微細に見ていくと劉生同様、北画(宗元写生画)の古法に学んだ質感といい、「修行だと思っている」と本人も言っているように一意洗心の大変な修練の結果到達した、舌をまくような旨さがあるが、その写実には不思議さはない。結局は様式の技法修練に終わっている。
 展示の後半は、日本画も油絵も、今の画壇展の最高峰と褒めそやされるような、ある意味椿作品の独壇場だ。より長く描き続けた者が勝ちとでもいいたげな展示だ。見るうちに椿は今の戦後のステレオタイプの画壇絵画の基礎を作った作家の一人であることを納得させられる。劉生の死だけでなく、船橋時代に教師の職を得たということとも関係するのだろう。「画家の家」(1935年)「早春図」は教師と画家の二足のわらじ生活を満喫して、いかにも楽しげな作品だ。しかし、絵画としての深みはなくイラストに近い。精進の甲斐あって日本画の伝統の樹形の描き分けが自家薬籠中なものになりました、とまるで獲得した技術を誇っているようにしか見えない。家庭的にも恵まれ可愛い孫も得て、一見幸せな画家人生を全うしたように見えるが、唐突にこの世を去ってしまった劉生の衣鉢を継いで、その後を歩むことを期待された写実の本道からは外れてしまった。若い時売れないことを理由に日本画へ転向しようとした椿を、油彩画に専心するよう叱った武者小路実篤の気持ちが推し量れるところでもある。
 ところで椿と劉生との出会いのきっかけとなった「道」(1915)は、ゴッホに共感する若い画家の素直な情熱をストレートに感じる好感の持てる作品だ。この劉生とは明らかに違う力量を持った個性は劉生を仰いでその後に従っていくことになる。だが、その違いは同じように鵠沼の風景を描く中にはっきり出てしまう。劉生の「鵠沼のある道」(1921)は、遠近法のような錯視技法を使わずとも自然の奥行きがあり、季節の空気を五感で感じて絵の中に入っていけそうな感じを抱かせるが、椿の風景画にはこれほどのいのちの輝きはない。どこか焦点のあってない写真を見ているような感覚の鈍さを感じる。上記と同名の椿の作品(「鵠沼のある道」1922)を見ると、むしろアンリルソーのような無意識の歪みをともなったファンタジックな素朴画にもっと自覚的に自然な才を開かせるべきではなかったのか。その意味で劉生亡き後に描いた、壺を描いたのと同じ筆致の、生命感のない人形のような変な立体感を持った人物像(「家族」、「晴子像」、「彩子立像」など)が、椿が持つ個性により正直なようで、それなりに面白味がある。

絶筆「椿花図」

 絶筆となる「椿花図」(1957)は、見舞いにもらった椿の花を病床で小さい板に描いたものである。ここには「夜の自画像」(1949)に描かれたような、精進を続けるものがおのずからまとってしまう厳しく頑固な顔の椿貞雄はいない。画家としての名声を虚しくしてしまう死に際して、肩の力を抜いて描いた自然な趣きが心を惹きつける。画面右端にはかって劉生があの「静物」で彫刻刀で抉るように引き、それがマジックのように不思議な奥行きを作った縦の描線が見える。ガラスの瓶には、今までにない透明感が感じられる。椿はこの最後の一点においてだが、あの時の劉生の啓示に、自分の画法においてようやく結びついたように思う。この一本の線にかけがえのない友でもあった劉生へのオマージュ=愛を感じる。彼がここから始めていたら‥‥しかし、それは語っても仕方がないことだ。椿の没年は1957年。優れた才覚や並外れた努力があっても、戦後的な価値に抗して安心立命の道をあえて否定し、自分の資質に基づいて安定的なスタイルを確立する以上のことをできうるとは到底思えない。それは我々凡庸な人間にとっての共通な運命といえるかもしれない。その結果が今の画壇になってしまったとしても、それは彼の責任とは言えないだろう。

劉生の衣鉢を継ぐもの

 劉生が日本回帰へ舵を切ったことのむしろ損失を思う。この現実の物象の不思議さを描き通す狭き道を、途中パリ留学を挟んでも切れ目なく一貫性を持って歩み通したのは、私の出会った狭い範囲ではあるが、今のところ長谷川潾二郎以外にはない。たいていは、とりわけパリ留学なぞをすると、本質的な影響は受けずに安易な日本回帰に転ぶのが画家の常である。椿がパリ遊学中描いた心のない西洋人形のような「アンドレ(黒服)(赤服)」(1932)も、レンブラントをはじめ西洋の古典作品に感銘を受けたと語るにしろ、表層的な影響しか受けなかったことを物語っている。
 一方、潾二郎はパリの裏道を書いた同じ目で日本の風土、田舎の道や庭の木々、存在の神秘を描いた。彼が求めていたのは西洋、東洋という浅はかな二分法とはまったく次元が違うひとつの普遍性であり、それを見極めるためのゆるがないひとつの目を持っていた。だからパリ留学を挟んでも彼の描く絵にぶれはない。ひとつの目、それを個人的には人間に本源的に備わっているものとして「心の目」と呼んでいる。これは時空を超えて、ダビンチにもフェルメールにも雪舟にもモネにもゴッホにも、そして潾二郎にもっとも近い画家としてはモランディにも与えられた存在の本質を見極めようとする目であった。この目が潾二郎にも淡々と見続け、「写実」することを強いたのだと思う。この潾二郎にこそ「孤高」などという、ある意味世間的なやっかいばらいの冠ではなく、今もっと正当な光があたっていいと思う。残念ながら洲之内徹経由で紹介されていて一般に人気が高く代表作と思われているのは「猫」の絵になってしまうアイロニカルな現実がある。彼も日記で言っているところだが、この絵は彼にしては珍しい観念的な操作(その意味では劉生の「静物(林檎と葡萄)」と近似している)がじゃまをして、生きた猫の動きが感じられない失敗作であることを申しそえておきたい。
(3月4日、文章が粗雑だったので一部修正。潾二郎についてはだいぶ以前2010年に次のような文章を書いている。長谷川潾二郎展 宮城県美術館 https://blog.goo.ne.jp/emaus95/e/9e702c9f0507c4818bc066aa9c81c30c)